第490話 聖と邪の魔素
「はぁ~……」
温泉に浸かったおじさんのように、腹の底から吐息が漏れた。
ああ、癒やされる。やっぱり心身の削れた時はこれに限る。
オレは両手いっぱいに漆黒の被毛を抱え込んで、顔ごとすり寄せた。
今日もいい日陰を見つけていたんだろう。ほどよくひんやりとした柔らかな毛並みが、顔を、耳を、首筋を、やわやわとくすぐって撫でた。
戦うのって、やっぱり心がほんの少しささくれる気がする。その時は気がつかないけれど、こうしていると、心の表面が滑らかになっていくような……そんな気がして。
こういう時のルーは何も言わない。
いつもお話には生返事だし、素っ気ない態度だけど、やっぱりちゃんとオレのことを見てくれているのかなって思う。
オレだって、ルーのことをたくさん見ているんだけどな。だけど、ただのヒトでしかないオレには、ルーのことを知り得るだけの知識も、力も足りない。
サイア爺は、色々知ってるんだろうか。次代の神獣候補のマーガレットだって、オレよりルーのことを知っているだろう。
ルーは、オレを次代じゃないって言った。だけど、次代になれば、ルーのことをもっと知ることができるんだろうか。
存分に堪能して身体を離すと、オレの人型に毛並みが乱れて、黒々と痕跡を残していた。そっと小さな手を滑らせると、艶々と光を反射するきらめきが戻っていく。
スフィンクスのように微動だにしない姿は、雄々しくて、神々しくて、それに触れられる喜びがわき上がった。そして、触れることを許されていることへのささやかな誇らしさが胸をいっぱいにした。
じっと見上げた金の瞳は、オレがいることを気にも留めないように、泰然と遠くを見つめている。
機嫌良さげなしっぽと、草木だけが視界の中でゆれていた。
ふと、ピピッと動いた耳と共に、深い金の瞳がちらりと閃いた。
(あ……オレを、見た)
確かに映ったオレの姿を認めて、ふわっと口角が上がる。
「ねえ、ルー」
こっちを見てほしいな。その金の瞳で。
によによと緩む顔を抑えきれないまま、期待を込めて見つめた。
「……なんだ」
訝しげにしたルーが、ごそりと姿勢を変え、顔ごとこちらを向いた。望み通り真正面から合わされた神さまの瞳を、惚れ惚れと見つめ返す。
闇夜に浮かぶお月様みたいだね。
漆黒の中でそこだけ煌めく瞳は、見つめているとぼうっとしてしまいそうだ。
「……おい」
「わっ?!」
ばふっ! 顔一面が黒で覆われて後ろへひっくり返りそうになる。
「何?!」
両手で大きなしっぽを抱えて抗議すると、両の瞳が不満げに細められた。
「何、じゃねー! それは俺のセリフだ」
ああ、オレが呼んだんだっけ。こっちを見て欲しかったなんて言ったら、きっと怒るだろう。オレはちょっと考えて、そう言えばと顔を上げた。
「あのね、呪晶石ってあるでしょう? どうして魔物が引き寄せられるの? あれは何?」
ルーは、細めていた瞳を少し見開いた。ヒゲがふわっと広がり、耳がこちらに集中した。
「……邪の気配に引き寄せられるからだ。元々邪に寄った生き物だからな」
逡巡した末に、ルーは珍しくちゃんと応えてくれた。
「邪の気配? あの呪いとか穢れが、邪の気配ってこと?」
「そのようなものだ。水や火の魔素のように、邪の魔素とも言える」
邪の魔素! そうか、じゃあ呪晶石は邪の魔石ってことだね。少し性質は違うけれど、ちょっと特殊な魔素と考えると、色々腑に落ちる気がする。だけど、ルーやサイア爺の穢れを祓うときに残る魔石は、呪晶石と少し違う。
そう言えば、出会った頃に言っていた。神殺しの穢れは、『邪神の最期の呪詛』だって。大昔に、邪神っていうのがいたってことだろうか。邪神って言うなら邪に寄り切った存在だろうし、神様と言うより悪魔みたいなものなのかな。そりゃあ、直接もらった呪詛なら他とは桁が違うんだろう。
「邪神、かぁ……なんか、すごいね。穢れが払えて良かったね」
今ここにあるルーの命が嬉しくて、ぎゅうっと抱きしめた。
「すごい、とか言うレベルじゃねー」
フン、と鼻息を漏らしたルーが、じっとりとした視線を向ける。きっと、穢れを祓うには相性があるんだろう。火には水、みたいに。
「あ、じゃあ、邪があるなら聖の魔素もあるの?」
「ある」
……あれ? それっきり前肢に顎を乗せて目を閉じたルーに、続きを待っていたオレは拍子抜けた。どうやらちゃんと説明してくれるモードは、もう時間切れのようだ。
――聖の魔素は知らないの。だけど、聖域は違うの? 心地いい気配でいっぱいなの。
あ、そっか! それだ! 聖域にある魔素は、きっと聖の魔素だろう。なるほど、聖の魔素には精霊や天狐なんかが惹かれて集まって来るんだね。
「聖の魔素かぁ。……オレ、気になってた所があるんだ」
後でこっそり行こうと思ってたんだ。他の人がいる時だと、変に思われるかもしれないから。
――どこなの? 何が気になったの?!
勢い込んで尋ねるラピスが、妙に瞳を輝かせている気がして首を傾げた。
「えっとね――」
辺りは既に暗かったけれど、気になりだしたら行ってみたくなって。ラピスもやけに乗り気なので、つい来てしまった。
「やっぱり、ここは気持ちいいね。聖域ってこんな感じなのかなって思ったんだ」
あの時はあまり落ち着いて探索できなかったもの。泉から零れる淡い光の中、大きく深呼吸した。
先輩たちの秘密の場所。妖精の子どもたちの秘密の場所。
「いっぱいだね。生命の魔素……」
生命の魔素が豊富な場所は他にもある。例えばルーの湖。あの湖は心地いい生命の魔素濃度が濃くなっているような感じがする。そしてここは、生命の魔素がわき出しているような感じ。濃度は似たようでも、雰囲気は違う。
三角に膝を立てて座り込むと、ぼうっと揺れる水面を見つめた。
「聖の魔素って、やっぱり生命の魔素なのかな」
今までもそう感じることがしばしばあったもの。だから、他の魔素と性質が違うような気がするのかも知れない。
じゃあ、生命の魔素を取り込んだら、ラピスは強く――あ、そうか。それでオレの魔力を取り込んで眷属を生み出してるんだ。
鶏が先か卵が先か、みたいな話だけど、もしかすると管狐が生命の魔素で強力になった姿が、天狐なのかもしれないね。
心地良い気配に抱かれてうとうと夢うつつで考えを巡らせていると、ふと奥の方から気配を感じる気がした。いつの間にか伏せていた頭を上げて、こしこしと寝ぼけ眼を擦る。
「なんだろう、なにか……ううん、誰かいるような気がする」
もしかして、妖精さんが来ているんだろうか。
一瞥して見届けられるような狭い空間の中、オレが見つめる先はただの土壁があるばかり。だけど、そこが妙に気になる。
オレはぽんぽん、とおしりを払って立ち上がった。
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