瓶の街

Scene.55

 瓶の街


 冷たく、重い雪の降る夜の闇は深く、そして静かだった。

 その暗闇の中に赤く浮かび上がる巨大な眼球。冷え切った街を見つめる大きな窓の中には、暖炉で爆ぜる薪の音だけが響いている。

 異常な人間は、自分が異常であることに気がつかないと云う。

 しかし、自らが異常であることに、或いは病的であることを知っていながら、そういう行動を取る者もこの世界には少数だが存在する。彼女は自分がその一定数であることを理解していたし、彼女の行いが許されないことも解っていた。

 ――不思議と罪悪感は無かったわ。それにこの街なら、何をしても咎められることなんて無いと思った。

 彼女は自分の屋敷のことを“瓶の街”と呼んでいた。

 床から天井までを覆う棚に飾られたホルマリン漬けの人体標本。その部屋の全ての壁が、大小様々な乳白色のインテリアで埋め尽くされている。耳や手指などの分かりやすい物があれば、得体の知れない臓器まで、グロテスクなオブジェは整然と並ぶ。しかし、どんなに見回しても、眼球だけは発見できなかった。

 大抵の連続殺人犯は戦利品として被害者の躰の一部や持ち物、殺害の様子を撮影した写真を蒐集すると云う。

 しかし、彼女は人殺しではない。命を救う術を持った人間だ。だから、彼女の蒐集するこれらのトロフィーは、彼女が看取った患者のものであろう。或いは――

 ――眼なら地下の部屋にありますよ、たくさん。まあ、最初は驚きましたけど、何かを集めるのが好きな人っているじゃないですか、そういう感じなのかなって。

 彼女の同居人はそう言って苦笑した。

 ――近頃、埋葬したばかりの遺体がよく掘り返されるんです。身寄りのない子どもの遺体なので、然程気に留めてませんが。

 教会の中の花壇の手入れをしながら、そう答える牧師は死体が消えることには無関心だった。否、その狂気に感づいていながら、あえて触れない様にも見えた。

 今日も窓の外は凍てつくような雪と氷の世界。そんな暗い世界の一角で、今日も赤い眼球は煌々と輝いている。

 女は、暖炉で爆ぜる薪の音を聴きながら、巻煙草に火を灯す。彼女の傍らには、茶色い髪のあどけない少女の写真。

 無数の冷たい瓶の表面に暖炉の焔が映る。

 ふわり、と白い煙を吐いた。


 氷の都トロイカ。

 この街を雪と氷は、人間の中で燻る狂気さえも覆い隠してしまう。

 

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