パスティス

Scene.48

 パスティス


「久しぶりね。坊や。どう? 大好きなパパの座ってた椅子は快適?」

 店の扉を押し開けて入ってきた黒いミンクのロングコートを纏った女は、カウンターの小さな椅子に座り、挨拶代わりに紫煙を吐いた。その黒尽くめ女の顔は黒いフードの影となり窺うことができない。しかし、黒いスーツの大きく開いた胸元から覗く白い皮膚には、左肩から右の脇腹へと続く大きな縫い跡が痛々しくも、美しく刻まれていた。薄暗い照明の中で、彼女の首筋に纏わりついた黒髪が、艶めかしい光沢を放っている。

 白い煙に巻かれる店内。

 カウンターの向こうの棚に並べられた、兵隊の描かれたボトルを見つめながら、セシルが煙草の煙を手で払った。

「此処よりは、な」

「ごめんなさい。煙草は嫌いだったわね」

 琥珀色のグラスを傾けながら彼は問う。

「今更、何の用だ?」

「近頃、上が騒がしくって。夜は目が冴えて仕方ないのよ」

「その苦情なら、お宅の安アパートの大家に言ったらどうだ? 何なら、良いカウンセラーを紹介してやろうか?」

「あら、随分言うようになったじゃない、坊や」

「今のあんたに、俺をどうにかできる数の兵隊がいるのか?」

「戦争は数じゃないわ」

「数だよ。戦術よりもね。指揮官の有能さは、どれだけの戦力を、どれだけ素早く用意できるかが全て、そうじゃないか?」

「あら、そう? 無駄に兵隊の数だけは揃えてる貴方にしては、殊勝な言葉ね」

「賢者は歴史に学ぶってね。今は軍警も動いてる。あの頃とは違う。近頃ちょっと騒ぎすぎだよ、あんたら」

 女の唇が吊り上がる。

「それならもっと派手にやらなきゃね。これは宣戦布告よ、坊や。これからもっと騒々しくなる。貴方だって夜も眠れないくらいね」

 それと……、と彼女は続ける。

「坊やは戦闘に勝てても戦争には負けるわ」

 そう言い放つと、女は席を立った。シェリーの香りが残る空のショットグラスに二発の弾丸を転がして。

 その一瞬、女の顔が光に照らされる。右の頬から額まで縦に入った縫い跡があった。その悲劇的なアクセサリーと同様に、縫い付けられた左目は、もう二度と開くことが無いだろう。

 その女がドアを押し開ける。

 ドアの向こうに地下街の喧騒が引っ込んだ後で、ブランデーの注がれたグラスに口をつけて、鷲鼻は苦々しく呟いた。

「這い出て来れると思っているのか、蜥蜴め……」


 氷の都トロイカ。

 新たな組織の台頭は、新たな抗争の火種となる。雪に閉ざされた街の中でその炎は着実に燃え広がってゆくのだった。

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