Eden

Scene.46

 Eden


 施設内に響く警報。

 不快な音が規則的に鳴り響く其処は、普段のそれとは違う、異様な空気に包まれていた。

「被験体十三号が脱走!?」

 ブロンドの髪を振り乱して、白衣を纏った女がドアを開けた。

 彼女のことを報告された時から、否、この計画が動き出した時から、覚えていた不安が現実になかったことを嘆く。

 最悪の事態。

 天使の暴走と反逆。

 いくら兵器として教育を施しても、いくら記憶を消しても、決して拭い去ることのできない、精神という不安要素。人間が人間らしくある為の最も重要な要素。造られた天使にもそれが残っているとしたら……。僅かに残った自我は、何を求めるのか。

 恐らく、彼女たちはより強く人間らしさを望むだろう。

 解っていたこと。慎重に対処していたこと。否、これはその不安要素を抱えてでも、成し遂げねばならなかったことなのだ。この終末を迎え始めた世界を救う救世主の創造は……。

 彼女たちは希望なのだ。ここまで来て、失うわけにはいかない。

 それに、これは彼女たちの初陣には良い機会だ。

「仕方ないわ。他の十二体を出しなさい」

「しかし、それは……」

「いいから。ルシファルを止めるには、それしか無いの」

「解りました」

「あなた、天使が空から堕ちた理由って何だか分かる?」

「いえ……」

「彼らは高慢で、嫉妬深くて、何よりも自由を望んだのよ」



 闇に紛れて蠢く人形たち。

 天使のような容姿をしたそれはその手に似つかわしくない凶器を携えていた。真っ黒な刃が、赤い非常灯に瞬く。その緋色の瞳を持った、物騒な天使たちは、暗黒に白い翼をはためかせ、夜に舞った。

 彼女たちが追うのは自由という闇に堕ちた天使。反逆の、黒い翼を広げた第十三翼。堕天使の名を与えられた失敗作。

 十二対、二十四の翼が一斉に飛び立った。

「第一翼ミカエルから各天使へ。目標は被験体十三号。個体名ルシファル。生死は問わない。彼女を捕獲せよ。もし、不可能なら破壊せよ」

「了解」

「各自散開。行動開始」

 月光の中に、その白く巨大な躯を横たえる建造物の屋上。そこに彼女は居た。騒がしく動く世界を見つめながら、其処に住まう者を嘲り笑う。彼女の足元に広がる無機質な白亜の建造物たち。頭上に犇めく幾億の星。あの狭苦しい部屋から眺めていた時よりも、この場所の月はずっと近くに浮かんでいた。

 西の空に浮かぶ蜜月を宿した緋色の瞳の中を、何かが横切った。

 溜め息をつく。

 ――折角、静かで綺麗な夜だったのに。

 あなたさえ、居なければね。

 月明かりに晒された屋上に、巨大な鎌を携えた天使がゆっくりと降り立つ。堕天使と向かい合うその天使の瞳には、闇に浮かぶ満月が、紅く輝いていた。

「だあれ?」

「見つけたわ。被験体十三号」

「嫌いなの、その名前」

「では、第十三翼ルシファル。じっとしていなさい。大人しく捕まれば、痛い思いはしない」

「その名前も嫌い。それに、もう退屈なのは嫌よ」

 風は彼女のブロンドの髪を、やわらかく持ち上げた。

 静寂が乱れる。

 ルシファルが象牙色の地面を蹴った。真っ直ぐに懐へと潜り込む反乱分子に向けて、天使は横一閃に黒い鎌を薙いだ。ふわり、と飛んで、堕天使は斬撃を避ける。同時に、ルシファルは右足を振り抜いた。顔面を捉える。間髪入れずに、体勢の揺らいだ天使の脳天へと、踵を振り下ろす。捻れる視界の中、天使は薄く笑う堕天使の顔が目に映った。着地と同時にルシファルは、くるりと回って、左側頭部へと回し蹴りを見舞った。

 空が揺れる。

 天使の手を離れた黒い大鎌の柄を、ルシファルが掴んだ。その刃は、地に膝をついた天使の、その白く細い首に寄り添う。

 彼女は、これから斬首刑に処される罪人の様に、そして、月に祈るように首を下げた。その姿を見遣って、堕天使が微笑む。

「最期に名前くらいは聞いてあげる」

「第十翼オファミエル」

「では、さようなら。月の天使さん」

 恐らく、オファミエルの鼓膜には、彼女の背後に立つ堕天使の高笑いがいつまでも響いていただろう。ルシファルが、刃を引く。象牙色の床に天使の首が転がった。地に伏した胴体からは真っ赤な血が溢れ出す。止め処なく、それは枯れることのない泉の様に。

 ブロンドの髪を掴んで、堕天使がまだ赤い血を滴らせる首を拾い上げる。自分と同じ赤い瞳を見つめながら、薄い唇に、彼女は口付けした。

 刹那、腹部から黒い鑓の穂先が飛び出す。

 全身を血の色に染めた堕天使が赤い血を吐いた。零れ落ちる血が、白い床に斑点を走らせた。

「酷いことしてくれるじゃない。このダッサい服にこんな穴まで開けられたらお外に出られないわ」

「初めまして、第十三翼。私、第二翼のガブリエルと申します。覚えておいてね。マイ・シスター。退屈でしょうけど、どうかそのまま動かないでくださいね」

「その喋り方、気持ち悪いわ」

 血染めの左手が鑓を握る。傷口から血が溢れ出した。

 流血に構うことなく、堕天使は腕に力を込め、鑓を引き抜く。緋色の天使が振り返った。銀色の髪の天使は、再び鑓を構える。妖艶に笑う堕天使に構うことなく、ガブリエルは鑓の穂先を突き出した。しかし、刃の先に、堕天使はいない。堕天使は優雅に鑓の軌道を擦り抜けて、風と共に大気を駆ける。振り上げた黒い凶刃は、ガブリエルの胴を引き裂いた。収まる場所を失った臓物が溢れ出し、血溜まりの中を泳ぐ。半身だけになった天使は、それでも黒い鑓へと手を伸ばしていた。

 月を背に、その緋色の天使は笑う。否、天使と呼ぶことを咎められるほど、彼女の笑顔は悪意と狂喜に満ちていた。半身のガブリエルへと、大鎌を引き摺りながら堕天使が歩み寄る。そして、彼女は大鎌を振り上げて、頭部を目掛けてその漆黒の刃を落とした。

 血溜まりに浸かった天使の片目に映るは、月の光を浴びて黒い影を落とす、可憐な天使の黒いシルエット。

 クスリ、とその影は揺れた。


「遺体を回収して。コアは無事よ。また別の個体に転用すればいいわ」

「はい」

 二体の天使の残骸が乗せたストレッチャーが屋上から運び出される。その光景を白衣を纏った女は見送った。そこを吹き抜ける風に、ブロンドの髪が舞う。惨劇の舞台を無表情で眺めながら、女は紙タバコに火を点けた。血溜まりは月光を浴びて、艶やかな光沢を放っている。

 月がざわめいていた。風は静かに血の匂いを洗い流してゆく。

 紫煙を吐いて、彼女は呟く。

「とんでもない化物ね」

 その化け物は、月を背に佇んでいた。

「あら、化物なんて心外だわ。天使と呼んで頂戴」

「ルシファル!?」

「御機嫌よう、ママ。今宵の月は又と無く美しいことで」

「あなた、どうして……! そこから動かないで! 心配していたのよ、あなただって私の大事な子のひとりなんだから」

「親不孝なのはきっと父親譲り。警告はした。彼から貴女に伝言よ。これは君の傲慢さに対する罰だってね」

「レームが……。いい? 人は傲慢でなければ生きていけないわ」

「そう。ワガママでいいの。だから、ママ。私のワガママを聞いて? もう、ここの生活に耐えられないわ」

「外に出たいの? それなら、もうすぐ出られるわ」

「そうじゃないの。私が欲しいのは自由よ」

「この世界に、本当の自由は存在しないのよ、ルシファル。それこそ、理想郷にでも行くしかないわ」

「そう、本当の自由なんて理想でしかない。いいえ、そもそもの間違いは自由を理想だと言うこと。それなら、そのクソッタレな理想を唱える者達が溢れるこの醜い箱庭は何? 彼らは気が付かないのよ、愚かだから。この世界が、限り無く自由であることにすら」

「自分こそが、その自由を掴み、人々に示せる神だとあなたは言いたいのかしら? 結局、あなたという存在は、あなたが愚かだと嗤う私たちから生まれた嬰児でしかないわ」

「神なんてものに成り下がるつもりはないわよ。けれど、あなたはそれと同じものを生んだのよ。そうね、だから、救世主とでも名乗ろうかしら」

「あなたに世界が救えるとでも?」

「信じられない? あなたは自分で造ったのよ、その可能性を」

「だったら、あなたにはどんな未来が見えていると言うの?」

「吐き気がするくらい、優しい世界」

 血に染まった堕天使は鎌を振り上げた。黒い刀身は青い月光に濡れる。

 その時、二つの影が堕天使目掛けて刃を研ぎ澄ませた。鋭い切っ先が、月明かりに瞬く。堕天使が自らの影よりも、素早く身を翻していなければ彼女の首はそこになかっただろう。

「あーあ。イイところだったのに」

 漆黒の剣を携えた、二人の天使が彼女の前に立つ。十字架を象った黒い長剣を堕天使に向ける天使の後ろで、こちらも十字架を模した二振りのミセリコルデを両手に持った天使が、冷たく微笑んでいた。どちらもお揃いの真っ赤な眼を光らせて。

 白衣の女は、自分の研究成果に目を見張った。

 かつて、これほどまでに凶悪で、殺戮の権化のような天使たちが存在しただろうか。間違なく、これこそが人類史上最高の武器だ。その昔、プロメテウスから私たちに与えられた種火が、遂にここまでの進化を遂げたのだ。

 黒い大鎌の柄に巻かれていた鎖を堕天使は解き、自らの右腕にそれを巻きつけた。

「第一翼ミカエル。これより、ルシファルの捕獲を行う。動くなよ、堕天使」

「ウフフ、ミカエルお姉様。今宵も素敵だわ」

「集中しろ、ラファエル。怪我でもされたら大変だ」

「優しいのね、ミカエルお姉様。愛しているわ」

「あらあら、気色悪いくらいの姉妹愛だけれど、私、そういう趣味は無いのよね」

 呆れたような顔で、ルシファルが大鎌を肩に担ぐ。

 そこにミカエルが飛びかかった。右腕の鎖でその重い斬撃受け止め、そのまま大鎌を真横へと薙ぐ。引き裂かれる風の悲鳴と、骨を砕く鈍い音が彼女の鼓膜を揺らした。薙ぎ払われるミカエルの背後から、その慈悲深き短剣を振りかざした天使が飛び出す。ミセリコルデ、慈悲という意味を持つ一対の棘が堕天使を静かな眠りへと誘う。彼女の頭部を狙った刃を左の掌で受け止める。同時に、ルシファルは天使の左肩を蹴り飛ばした。

 二人の天使が、白亜の床を転がる。

 左手に刺さったミセリコルデを引き抜くと、溢れ出す血を眺めてから、堕天使はそれを左手に握った。

 にこやかに、彼女が笑う。

「折角だもの。これ、頂くわね」

「あっ! 泥棒! 返しなさいよ!」

「それじゃあ、奪い取ってみなさいよ」

「ラファエル、心配するな。すぐに私が取り返してやる」

「ウフフ、とっても素敵だわ。ミカエルお姉様、素敵だわ」

「バッカじゃないの。気色悪いのよ」

 堕天使が滑走する。黒い鎌を引き摺りながら。

 その凶悪な刃はラファエルへと襲い掛かる。斬撃を受け止めようとした天使の右腕を漆黒の獣が噛み千切った。振り抜かれた大鎌の遠心力を利用し、くるりと身を翻した堕天使の左手のミセリコルデが、ラファエルの眉間を貫く。あ……、と短い断末魔を残して、天使は力無く膝を折った。

 その時、堕天使の真っ赤な瞳に黒い長剣を振り上げる天使の姿が映った。

 甲高い金属音が大気を揺らした。黒い鎌の柄で刃を受け、弾き返す。

 天使が黒い十字架を構え直した時、そこには大鎌を振り上げ、今にも斬り掛かろうとする堕天使の姿があった。ミカエルの右肩に食い込んだ刃は、瞬時に彼女の身体を両断する。雨の様に、降り注ぐ深紅は堕天使を更に紅く染めた。

「逃げなかったのね、ママ」

「レームの遺言どおり、私を殺すまで、あなたは止めないのでしょう?」

「当然。復讐に満ちた最後の親孝行ってシナリオだもの」

「ルシファル。これから人も、街も、この世界も変わってゆくわ。その変化の中で人は神を失ったら、彼らの寄る辺なき魂は何を信じて生きればいいのかしらね」

「知らないわ。悪魔にでも祈るんじゃない?」

「そうかもしれないわね」

 女は苦笑した。

「この研究は私が死んでも他の誰かが引き継ぐ。そして、また天使は造られる。その時、あなたはまた私たちの希望を引き裂いてくれるのかしら?」

「救いも、裁きも、人間は何でも神様に委ねてしまう。だから、あなたたちは見捨てられたのよ」

 堕天使が溜息をつく。

 そして、巨大な黒い鎌は振り下ろされた。

 再び、深紅の雨が降る――


 この世界に必要なのか、神という概念でしかない存在は……。恐らく、これからも神という概念は人類の進歩を妨げる。今日まで概念でしかないそれが、人間を縛り続けてきた。まだその領域に踏み込んでいない間はそれで良かった。

 しかし、我々はもう神を必要としていないのだ。今では、神という存在は足枷でしかない。人間が自ら造り出した神が、自らの首を絞めるものであるなんて、これ以上の喜劇は存在しない。いや、人間にしてみれば、それは悲劇なのだろう。

 でも、彼らはそれにすら気が付かない。今、この時が、その十字架から解き放たれるべき時だということに。神が我々を支配するのではなく、我々が神を支配していることに。

 彼ら人間はは自らの愚かさを悲観することもなく、オプチミスティックに生きている。彼らの造り上げた神はそれを愛でるのだろう。ペシミスティックに嘆く者よりも、楽観的に笑う者を。

 だから、人は前を向く。そして、繰り返す。その度に祈るのだ。何度も、何度も……。

 しかし、神が人を救うことはない。

 それは、救っても意味のない存在だから?

 ――いいえ、神なんて存在しないから。そして、人は神に頼らずとも、歩んでゆけるから。



 堕天使

 Lucifer before the TROIKA.

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