第30話 ワンアナザーの朱
風が吹いている。
夏至が近づきつつある五月の空。この時間でも、天はまだ青い。
俺は一人屋上に立って、果てしない水平線を眺めていた。あるいは雲の流れを。
やがて、キィィィと音がして、待ち人はやってきた。
彼は俺を見つけると、その爽やかな顔のまま。
「こんなところで何してるんだ、灰佐?」
相田健人は、今日も変わらず好青年だった。
「お前を待ってたんだよ、相田」
「なんで俺がここに来ると知ってるんだ? それは今日、緋凪にしか……」
「とぼけたことぬかしてんじゃねえよ。お前だってそれくらいわかってんだろ? その辺見に、代わりに断ってくれって頼まれたからだよ」
俺は、いきなりに告げる。彼にとっては、絶望の事実を。
しかし、そんな悪いニュースを、自分を馬鹿にするような口調で言われたとしても、相田の物腰は、まだ柔らかい。
「へえ、なるほど。緋凪と仲の悪い灰佐が、緋凪にそんなこと頼まれたっていうのか?」
「俺がここにいて、あいつがここにいないのが、何よりの証拠だ」
「ふーん、そうか。じゃあ君は、俺の告白を邪魔しに来たってわけなのかな」
「馬鹿か、お前は? そうじゃねえよ。そもそもお前がどんな方法で辺見にアプローチしようが、それはあいつの迷惑にしかならない――という現実を教えに来てやっただけだ」
「どうしてそれを、緋凪じゃなく君が言いに来るんだ?」
わざと挑発しているのにまるで誘いに乗らない相田に苛立ちながら、俺は彼を煽り続ける。
「だからさっき言っただろうが。考えてからものを喋れイケメン。一回言っただけじゃわからないお前のためにわかりやすく言い直してやるとな、お前と二人きりで話してるところを誰かに見られるのが嫌なんだよ、辺見は」
「なるほどね。アイカか?」
「そうだ。男鹿に好かれてるお前が辺見に近づくのは、辺見にとってはいい迷惑なんだよ」
「はっ、だからここんとこ俺は緋凪に避けられてたわけか。合点がいったよ」
「自覚があったんなら止めとけよ。気持ち悪いな」
想い人に避けられてると告げられてまで、悠然とへらへらしている相田が不気味だった。
「気のせいだろうと思ってたんだ。それと、正直言ってどうすべきなのかよくわからなかった。いままでそんな風にされたこと、なかったからね」
「かー、イケメンは言うことが違いますねえー。なにそれ、自慢?」
今のは割とガチでヒリついた。相田に嫌味なところが一切ないのが、なおさら。
「別にそういうんじゃないさ。気を悪くしたならごめんな」
「あっそ。で、辺見のことは諦めてくれたのかな、相田クン?」
「正確に言えば、俺はもう諦めてる」
相田はそう言うと、前髪をかきあげた。
「はあ?」
「あの子が俺を好きにならないということは理解してる。でも、それを緋凪の口から聞いて納得したかった」
「ただの自己満足じゃねえか。自分のオナニーに人まき込むなタコ」
俺がそう言うと、なぜか相田は少し、ほんの少しだけ、拗ねるかの様に。
「灰佐は緋凪にちゃんと振ってもらえたから、そんなことが言えるんだろうな。本人から直接無理だと言われてもいないのに、この気持ちに収まりなんてつかないよ」
「知るか。あいつはお前に会うのさえ嫌なんだよ。察しろ、雑魚」
「勝手に緋凪の気持ちを語るなよ。君なんかに、緋凪の何がわかるんだ?」
君なんかときたか。そうだ。美辞麗句なんていらねえよ。もっと汚い言葉でしゃべれ。
「お前こそ辺見の何を知ってんだ? 教室で笑顔振りまいてるだけがあいつじゃねえぞ?」
「それくらい知ってるさ。緋凪が陰で灰佐をいじめてたことだって知ってる」
「そうかよ。そんなやつの何がいいんだ? もっといいやつがクラスにはいるだろが」
黒羽に四鬼条、それに、うちのクラスは問題児こそ多いが、顔のいいやつなら一杯いる。
しかし、相田は首を横に振った。
「いないよ。そんな人は、どこにも。あれほど必死になって人と関わっている子なんて、どこにもいない」
「それがお前が辺見に惚れた理由か? 理解に苦しむな」
「君にはわからないだろうね。面食いの灰佐には」
「わかりたくもねえよ。あいつの精神性に惚れたなんて、頭おかしいだろ。完全に」
「そうだ。たしかに緋凪の心は醜いよ。それでも、懸命に取り繕って、いつも頑張って生きてるんだ。自分を殺してまで。そんな子を生かしてやりたいと思うのは、おかしなことか? 自分の手で支えてやりたいと、思っちゃいけないか?」
「随分と上から目線の同情だな。貴族様みたいだ」
「そう思うのは、灰佐が卑屈なだけだろ」
「俺は正論とか道徳とかが大嫌いなんだ。悪かったな」
それはいつだって、俺を守ってはくれなかった。俺は守っていたのに。
「その割には緋凪を助けてあげてるじゃないか」
俺が辺見を? ちゃんちゃらおかしい。お門違いもいいとこだ。
「お前を破局に追い込んでんだよ」
「君は嫌われ者になるのが趣味なのか?」
「んなわけねーだろが。喧嘩売ってんのかお前?」
誰も好き好んで学園の嫌われ者になんてならない。結果そうなってしまっただけだ。
いや、悲しすぎるだろ。俺。
BOTTIは、哀しすぎる……。哀れなBOTTIに魂の救済を……。
「ふっ。そうか。じゃあ結局はこれも、誰かの為なんだな」
相田は俺の言葉尻を上げ繕っていい気になったのか、軽く笑った。
その余裕が、気に食わない。
「俺の為だ。少なくとも、辺見の為では決してない。勘違いすんなよ?」
「なら、偽の彼氏をでっち上げたのも、そうなのか? それも、灰佐の為か?」
「……現実逃避するのは止めろよ。辺見は彼氏持ちだ。諦めろ。往生際が悪いぞ」
はったりなのかもしれないが、突然の追求に、一瞬息を飲んでしまった。
「今ので大体察したよ。まあ、そういうことにしておこうか。緋凪の、為にね」
さすがカースト首位の人間は、話術に長けてやがる。人と話す機会の少ない俺なんかとは大違いだ。
自然体なのにどこか優位に立っている彼のそのあり方に、嫌悪しか湧かない。
「お前、意外とやな奴だな。元々嫌いだったのに更に嫌いになったわ」
「そうか。それで? 緋凪に頼まれたお仕事はもう終わったか?」
「あとはお前がもう二度と辺見に告るなんて馬鹿げたことをしないと約束してくれればそれで終わりだ」
「それは約束できないな」
「いや、そこはきっぱり諦めろよ。ストーカーでにもなる気か、王子様?」
「だって、そうだろ。アイカが俺のことを嫌いになってからなら、俺が緋凪に告白したって、何の問題もない」
お前が女に嫌われるなんてことあるのか? あの辺見だって、付き合うのが嫌なだけで、嫌いだとは一言も言っていなかったのに。
「ああ、そういうこと? お前もまあもの好きというか、一途というか。ようやるわ。軽く引くんだけど。ま、仮にそうなったとしても、どうせ無理だと思うけどな」
「緋凪はやっぱり、俺と付き合うのは無理だと言っていたのかい?」
「ご存知ならぱっぱと諦めてくれませんかね?」
お前さえそうしてくれれば、俺はこんな面倒なことしなくて済むんだから。
「出来るならそうしてるよ、初めてなんだ。こんなのは。女の子にあんな素っ気ない態度を取られたのはさ」
俺なんて素っ気ない態度とかじゃなくて無視しかされないんだよなあ。態度すらないからね。無よ? 好きの反対。
だというにコイツは……。
あー、こいつの話聞いてると僻みとか嫉妬で頭やっちまいそうだわ。
「はいはいもうお前のイケメン自慢はわかったから。つーか愛想悪くされると惚れるとかマゾかよお前。気色悪いな」
「いや、違うな。愛想が悪いわけじゃあないんだ。ただ、なんというかその……」
「うんうん、辺見はかわいいね。それはわかったから、もう辺見に友達以上の何かを求めたりしないと早く誓ってくれ」
俺がそう言うと、彼は、
「それを緋凪が望んでいるなら、俺はそれで構わない。ただ……」
諦めを、口にした。
けれど、その口で。
「……どうしてその立場に、俺が立てなかったんだろうな。俺はさ、灰佐、君が羨ましくて仕方がない。俺は別に、彼女と付き合えなくったってよかったんだ。ただ、そうして君のように彼女を支えてやりたかった。ただそれだけだったんだ」
あの、クラス一のイケメンの相田が、俺を、羨望の目で睨んでいた。あの爽やかな笑顔を、崩して。
「お前みたいなやつが、俺を、羨む? はあ? お前それ、マジで言ってんの?」
意味がわからない。どんなブラックジョークだ。
「本気だよ。今更冗談をいう理由もない。俺は君がただ、羨ましい」
「好きな女に振られて、やけになってるんじゃねえのか?」
「ははっ、そうかもしれないな。こんな気持ちは初めてだよ。こんなにやるせなくて、どうしようもない気分は」
この年になって初失恋ですか。そらすごい。てっきりみんな小学生の頃にそういうのは済ませてるもんだと思ってたよ。
「初めて、か。そんな奴に羨ましがられるなんて、ムカついてしょうがねえな。なんの皮肉だよそりゃ。俺はここ一年で少なくとも五十は振られてるってのに」
「でも、この間、緋凪に告白されて、振ったのはほかならぬ君だろ」
「あんなウソ告……」
俺が言い返そうとすると、相田は初めて声を荒げた。
「嘘だっていいじゃないか! あの時緋凪は、君がうんと言えば君と付き合っていたはずだ!」
「は? お前マジで頭大丈夫? 初の失恋はそんなにつらかったでちゅかー?」
俺は、あまりにわけのわからないことを言う相田に一瞬ガチ切れしてしまいそうになるのを必死で抑えた。それで出てくるのがこの煽りなのは、ご愛嬌。
「頭がおかしいのは君の方だ。あの緋凪の告白を断ったんだから。あの時から、緋凪は、たぶんだけど俺に好かれてるのを嫌がっていた。だから、灰佐、君なんかに告白したんだ。彼氏が出来れば俺も緋凪を諦めるだろうという思いからね」
「いや、それはねえだろ。たとえそれでお前との関係の如何で男鹿から嫌われずに済んだとしても、俺なんかと付き合っているとなれば男鹿から白い目で見られる。本末転倒じゃねえか」
「ところが、そうはならないのさ。あれはアイカがあくまで冗談で言ったことを、敢えて緋凪が本気にしたフリをしてやったウソ告だからね。アイカは本気でそんなことをさせるつもりはなかったと思うが、ある日冗談で二人がそんなことを言い合ってるのを、俺は聞いてしまった。あれはそれを好都合とみて、したたかな緋凪が実行した、歴とした計画だ」
まあ辺見なら、それくらいやってもおかしくはないが……。
「仮にそうだったとして、そこまで気付いてんなら諦めろよ。何度も言うが、しつこすぎるぞ、お前」
「違うよ。今のは今日ここに君がいたからわかったことだ。君が緋凪に信頼されていると。だから、緋凪を呼び出した時点では気付いていなかったわけで……いや、そんな言い訳はよそう」
「じゃあ、今はもう、あいつのことは諦めたってことでいいんだな?」
「ああ。さっきも言っただろ、もう俺は諦めてるって」
相田は、ぎこちない笑顔で笑った。
それを見た俺は、もう我慢できなかった。
「そうか。なら、もう一ついいか」
「なんだ、奇遇だな。俺もちょっと灰佐に言いたいことがある」
二人は同時に息を吐いた。
「てめえ一発殴らせろスカシ野郎」「一発、殴ってもいいか?」
――やっぱり、そうなるよな。
俺はイラついているはずなのに頬が緩むのを感じて、おかしくなってさらに口角を上げた。
「気が合うな、イケメン」
「敗者と合うような気なんて願い下げだよ」
相田は、爽やかでもぎこちなくでもなく、ただ。不敵に、笑った。
それは立派な、一人の人間としての生きた表情。
「本性をあらわしたなァ、相田。……その顔が見たかった」
「俺は君の顔なんて見たくもなかった、永遠にな」
彼は、端正なな顔を歪めて。
「いくぞ?」
こちらへ足を踏み出す。
「後で泣き言言うなよ?」
そうして、俺達二人は、拳と拳を突き合わせた。
おそらくはこんなことがなければ一生交わることのなかった二人が、辺見緋凪という少女を媒介として、こうも熱く交錯する。別に、彼女を取り合っているわけでもないのに。
「その顔で! その境遇で! 俺に! 羨ましいとか! 冗談も! いい加減にしろ!!」
「緋凪と付き合えたのに、それを棒に振った畜生を羨ましがって何が悪い!」
「そんなのはてめえの妄想だっつってんだろが!!!」
「じゃあ、どうして、オマエが! ここにいる!!!」
「んなこと!!! 知るかよ!!!」
「クソッ! クソクソクソクソクソクソクソクソクソッッッ!!!!!」
殴り合う。ただ殴り合う。
その先には何もないと知りながら。
だからこそ譲れずに。
身体のあちこちが赤くなって、空さえも赤く染まって。
彼女のことで、すべてが変わっていく。
そして、二人は――。
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