Épisode 16「悪いお人だ」
*
フラヴィに誘われて彼女の部屋に入ったヴィクトルは、促されるままソファに腰かけた。
主人に何やら囁かれた彼女の侍女は、二人分のお茶を入れると部屋を出て行く。指示でもされたのか、扉をきっちりと閉めてから。
(ふむ。さすが、社交界に舞い降りた天使といったところか)
実は、その呼び名には二つの意味があった。
一つはそのまま、彼女の容姿を褒めたものだ。こちらは主に男性が使う意味である。
そしてもう一つは、男遊びの激しいフラヴィ・オルグレイ侯爵令嬢に、他の貴族令嬢が嫌味を込めて呼ぶ場合。
トネリア国で〝天使〟と言えば、人々に最も有名なのは二人の天使である。それは姉妹天使であり、姉が月を司り、妹が太陽を司る。そして太陽を司る妹天使は、愛と美の象徴とされていた。
ゆえに、恋多き天使として、神話に登場する。
相手が天使だろうと人間だろうと関係なく、たくさんの異性を虜にし、数多の恋を繰り返す天使。彼女の神話には、いわゆる修羅場の果てに、男たちが殺し合った話もあるくらいだ。
(トネリアのご婦人方は、なんとも的を射た意味を込めたものだ)
外しか見ずに、安直に天使と呼ぶ男どもよりも、よっぽど内を見て神話に当てはめた女たちのほうが、人をよく見ているというもの。これだから貴婦人のお喋りは侮れない。
フラヴィが隣に座った。
「それでヴィクトル様、ご相談なのですけれど」
彼女は男なら誰でも守ってあげたくなるような弱々しい声と、若干潤んだ上目遣いで、ヴィクトルを見上げる。胸元の開いたドレスから、惜しげもなくその谷間を披露する。
ごくりと息を呑む――のが、普通の男性の反応だ。
庇護欲と性的欲求を刺激されれば、だいたいの男が好意を勘違いし、または据え膳をいただき、こうして彼女は浮気を繰り返してきたのだろう。
内心の吐き気を隠すように、ヴィクトルはにこりと笑みを貼りつけた。
「実は最近、レオ様がわたくしに冷たくて。結婚を前に、本当にこれから二人でやっていけるのか、とても不安なんですの」
ヴィクトルは昔、レオナールからフラヴィのことを聞いたことがあった。
天使のようにかわいらしくて、甘え上手で、守ってあげたくなるような女の子だ、と。
(あいつ、今度鼻で笑ってやろう)
これのどこが「天使のようにかわいらしく」、「甘え上手」で、「守ってあげたくなる」のか。ヴィクトルにはとんと理解できない。
「天使のように男好き」で、「甘えることしか脳になく」、「かなり強かな」女と言うのなら理解できるのだが。
(さてはて、レオナールは気づいているのかな。この女の悪癖に)
ただ、気づいていようがいまいが、ヴィクトルにとってはどうでもいいことだった。友人を浮気女から助けてやるつもりもなければ、女のほうに浮気はよくないと説教するつもりもない。
こういうことは、互いに痛い目に遭ったほうが、他人から諭されるより効果がある。万が一手遅れになっていたとしても、それは本人たちが悪いのである。
ヴィクトルはそう考える男だ。自分の内側に入れた人間以外には、自分の労力を使ってまで何かをしてやることはない。ありていに言えば、優しくないのである。
そしてヴィクトルにとってレオナールとは、まあ念のため仲良くしておくか隣国の王族だし、という認識でしかない。
だから、彼がフラヴィの誘いに乗ったのは、何も彼女に誘惑されたからではない。
「それは酷い。あなたが不安になるのも無理はないですね」
「ええ……。というのも、こんなこと、大きな声では言えないのですが……」
フラヴィが迷いを見せるように視線を泳がせる。
「どうしました? ここには私とあなたしかいません。他の誰には言えなくとも、私には話してください。これでも王族ですし、口の堅さは保証しますよ」
「ええ、もちろん、それは疑っておりませんわ。実はわたくし、レオ様が浮気しているのでは、と考えておりまして」
「浮気……!」
これはまたなんとも滑稽な話である。
(それはおまえだろう、フラヴィ・オルグレイ)
腹を抱えて笑いたくなる衝動を、ヴィクトルはなんとか押しとどめた。
「浮気とは笑えませんね。しかし、一国の王子を疑うのですから、それなりに理由があるのでしょう?」
「いいえ、疑っているわけではありませんわ。ただ、そんな気がして」
それを疑うと言うのだが。ヴィクトルは内心で呆れた。
「ちなみにお相手は?」
「……ユーフェではないかと」
「ほう……」
これもまたまた、なんとも笑える話である。
(おいおい、姉のように慕っていたんじゃなかったのか? その人間をつかまえて浮気相手とは……――だめだ、おかしすぎて腹が捩れそうだ)
耐えている自分を褒めたいくらいである。それくらい、ヴィクトルにとってはありえない話だった。
なぜなら、どう考えてもあの二人は、今日久々に再会したという感じだったからだ。もし本当に浮気をしているのなら、その前から二人で密会なりしているはずである。その様子が二人からは全く見受けられなかった。
「二人が会っているところでも、目撃しましたか?」
「いいえ。ですが、今回のこの旅行、行こうと言い出したのはレオ様ですの」
きた、とヴィクトルは思う。
彼が彼女から聞き出したかったのは、まさにそれについてだ。
「……見たところお忍びのようですが」
「仰るとおりです。レオ様の王太子任命式と、わたくしたちの結婚式を同時に行うことは国民も知るところですが、まだ比較的自由な
「あのレオナールが?」
素直に驚く。何か裏がある旅行だとは思っていたが、まさかレオナールが言い出しっぺだとは思ってもいなかった。というのも。
「やはり、ヴィクトル様の目から見ても、おかしいのですね」
「それはそうでしょう。レオナールはあまり王宮から出たがらないタチです。昔から軟……活動的ではなく、私が王都を案内してくれと頼んだときも、彼は頑として頷かなかったくらいですよ」
その理由を、ヴィクトルは知っていた。昔に一度だけ、レオナールは刺客に命を狙われたことがあったからだ。
兄弟で玉座を争ったヴィクトルとしては、たった一度で何を、とは思う。もはや日常的に命を狙われていた身としては、王族の、しかも次期国王が、何を言っているんだと思った。
しかし性格は人それぞれであり、レオナールは荒事に向いていないのだと判ずると、それ以降ヴィクトルは無理を言わなくなった。
とにかく、そんなレオナールが、王都どころか国内を旅して回りたいなど、天変地異の前触れではなかろうか。
「ちなみに、旅をして回りたい具体的な町を挙げましたか、レオナールは」
「ええ。この町もその一つですわ。というより、ここがその始めの町ですの。そうしたらそこにユーフェがいるでしょう? ……レオ様は、ユーフェに会いに来たのですね」
「なるほど。そういうことでしたか」
「こんな酷いことがありますか? レオ様はどうして……どうしてわたくしも連れてきたのでしょうっ? いいえ、きっと彼ではないの。きっとユーフェが、わたくしもここに連れてくるよう言ったのだわ。わたくしに見せつけるために……っ」
顔を覆って泣き出したフラヴィは、ヴィクトルの胸に何のためらいもなく飛び込んだ。
その背を優しく撫でてあやし、ヴィクトルは侍女の淹れた紅茶を勧める。
「お気持ち察します。とりあえず、これを飲んで気持ちを落ち着けましょう。あんな男のために泣くあなたを、見たくはないですからね」
「ヴィクトル様……」
勧められた紅茶を口にして、フラヴィはほっと息をつく。それが演技だとわかっていても、ヴィクトルは感心した。いや、わかっているから、感心した。女優の素質があるのではないだろうか。
カップを置いたフラヴィが、潤んだ瞳で見上げてくる。
「ねぇ、ヴィクトル様」
「……そんな目で私を見つめるなんて、悪いお人だ」
「でも、わかっていて、誘いに乗ってくれたのでしょう?」
「あなたには何でもお見通しなのですね」
くすりと微笑んで、彼女の髪に指を絡める。
一房すくうと、そこに己の唇を寄せた。
「では、私にあなたを慰める権利を与えてください、フラヴィ嬢」
「もちろんですわ。だから来て、ヴィクトル様……」
誘われるがまま、ヴィクトルはその華奢な身体を抱き寄せた――。
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