Épisode 14「おう、じ、でん……」
未婚の彼女が、一人で伯爵の屋敷に足を運ぶはずがない。
父親のオルグレイ侯爵か、はたまた母親のオルグレイ侯爵夫人か。その二人でないのなら、婚約者のレオナールが同行者として妥当なところだろう。
母親なら伯爵夫人と一緒にいないのはおかしい。その時点で、母親の線は消えていた。
そして社交界も終わった今の時期、領主である父親が、自分の領地から滅多と出ないことはユーフェも知っている。昔からそうだった。
だから、フラヴィと一緒に来た人物が誰かなんて、ちょっと考えればわかったはずなのだ。
「あらあなた、殿下のご案内はお済みになったの?」
「まあね。それよりイレーヌ、これはどういう状況だろうか。えーと、リュカくんにユーフェくんはわかるのだけど……」
「ユーフェ?」
そのとき、レオナールの驚きの声がこの場に響いた。
呼ばれたユーフェは肩を震わせる。人知れず、ヴィクトルの眉根がぴくりと動いた。
「……驚いた、本当にユーフェなのかい?」
久しぶりに目にした初恋の王子様は、思い出の中よりも成長していて。
当然だけれど、昔よりも凛々しくなったその顔つきに、少しだけドキリとする。後ろで一括りにされている長い金髪に、お揃いだねと笑い合った記憶が懐かしい、緑の瞳。
絵本の中の優しい王子様そのものの容貌で、昔は大好きだった人。
でも、今は。
「おう、じ、でん……」
喉が引きつる。まともな言葉が出てこない。
この国の王子にちゃんと挨拶をしなければと思うのに、過去のあの光景が思い出されて、背中に嫌な汗が流れていく。
好きだよ、と。
会うたびに囁いては、ユーフェの頬にキスしてくれた。
憧れの王子様からそうされて、彼に好意を寄せていたユーフェも、喜んでそれを受け入れていた。
私も好きです、なんて。
言わなければよかったと。彼の裏切りを知って、心底後悔した。
いや、正確には、彼は裏切ってなどいなかったのかもしれない。まだ幼い二人は恋人ですらなかったのだから。
それでも、幼いユーフェの心に、消えない傷跡を残した人だ。
二人のただならぬ空気に、周りも察するものがある。
フラヴィは二人の過去を知っているけれど、何も知らないコルマンド伯爵夫妻は、不思議そうな目でユーフェとレオナールを見やる。
リュカも、今だけはその眠たげな瞳が心配そうに揺れていた。
しかし、この微妙な空気を壊したのは、貴族が集まるこの場にふさわしくないほど、荒々しい舌打ちだった。
「チッ!」
一瞬、この場の誰もが聞き間違いかと自分の耳を疑った。
もしかしてこっちの方から聞こえたかなー、とそんな思いで皆が視線を向けたのは、ヴィクトルの方である。
けれどそこには、人好きのする笑みを浮かべた彼しかいない。
まるで舞台役者のように、彼が声を上げた。
「やあ! やあやあ、誰かと思ったら、万年泣き虫のレオナールくんじゃないか!」
ヴィクトルの隣でフランツが頭を抱える。
「なっ、まさか君、ヴィクトル⁉︎ なんで君がここにっ」
「なんで? おかしなことを言うな。ユーフェのいるところこの俺あり、だが」
「意味がわからないんだけど……。ていうか君、ユーフェのこと知ってるの?」
「そういう君こそ、なんでユーフェと知り合いなんだ? 今すぐその記憶消してやろうか」
「ちょ、ちょちょちょ! フランツ! 止めて! 君ヴィクトルの従者でしょ! 国際問題になってもいいの⁉︎」
「おや、国際問題か。難しい言葉を覚えたんだな? 偉いぞ、
「いつの話かなそれ⁉︎」
盛り上がっている二人をよそに、周りはみんなぽかんである。いや、唯一フランツだけは両手で顔を覆って「私は見てない。何も見てない」とぶつぶつ呟いてはいたが。
「えーと、殿下? 失礼ですが、そちらの方とはお知り合いで?」
コルマンド伯爵が尋ねる。
レオナールは咳払いを一つして気を取り直すと、少しだけげんなりとした表情で紹介した。
「彼は私の友人で、ヴィクトル――ヴィクトル・ド・ヴァリエールです」
「ヴァリエール⁉︎」
コルマンド伯爵夫妻が、そろって悲鳴のような声をあげた。
世俗に疎いリュカはその名前を聞いても首を傾げていたけれど、仮にも元侯爵令嬢であるユーフェは、ヴァリエールの名前くらいは知っていた。
それは、隣国アルマンドにおいて、特別な名前である。
なぜなら彼の国の、現在の王家が名乗っている名前だからだ。
「こ、これは失礼を……! どうぞこちらにお座りください」
「いえいえ、お気になさらず。今はそちらの身分を伏せた、ただの旅人です。まあ、どこかの泣き虫バカが勝手に紹介してくれましたが」
「本当に相変わらずだね、ヴィクトル」
レオナールが苦笑する。しかしヴィクトルはそれを意にも介さず、さっとユーフェとリュカの手を取った。
「ということですので、私たちの用事は済みました。これ以上長居は無用です。お先に失礼いたしますね」
いきなりソファから立たせられて戸惑う二人に構わず、ヴィクトルはなんとも素早い動きで扉まで向かう。
しかしそれを止めたのは、なんとフラヴィだった。
「お待ちくださいませ、ヴィクトル様」
可愛らしい声に、ヴィクトルの足が止まる。
「今は旅人、と仰られましたが、今はどちらにお泊まりですの?」
「おおそうだ。そうですよ、せっかくですからうちに泊まっていかれてはいかがですか?」
「……遠慮しましょう。先ほども言ったとおり、今の私はただの旅人です。そんな得体の知れない人間を、領主の屋敷に泊めるものではありませんよ」
「まあ、得体が知れないなんて。そんなことはありませんわ。ねぇ、あなた」
「そうですとも。それに殿下のご友人という話ではないですか。殿下も数日はここに泊まられるご予定でしてね。久々の再会を楽しんではいかがですか」
「では決まりですわね! わたくしも、ヴィクトル様とはお話してみたいと思っていましたの。だって、レオ様のご友人ですもの」
無邪気にフラヴィが微笑む。つい、とその視線がユーフェへと動いた。
「!」
背筋が震える。まるで挑発するような眼差し。
それは、フラヴィがユーフェのお気に入りのものをとる、前兆のようなもの。
当たってほしくない予感が、ユーフェの胸の内に広がった。
「そうですね……では、そこまで仰るなら」
ヴィクトルが頷いたことに、ユーフェは知らずショックを受ける。どうしてか彼なら断ってくれると思っていた。
(私、どうしてそんなこと……)
もしかして、彼に期待していたのだろうか。彼に――彼がくれた言葉に。
――〝おかえり、
――〝おまえは本当に面白い〟
――〝どこぞの雄猫に求愛なんぞされてないだろうな?〟
――〝君は俺だけを見ていればいい〟
思い返せば、恥ずかしいことばかり言われている気がする。
でも、真っ直ぐと伝えられた言葉は、いつもユーフェの心を動かした。無意識にも、この言葉は信じられると思っていた。
だからきっと、そう、自惚れていたのだ。彼は自分を見てくれると。――そんな保障、どこにもないのに?
(これじゃあ、同じだわ)
傷つくことを恐れて、傷つけることを恐れて、自分の言いたいことを抑え込んできた子供の頃と。
欲しかったのなら、手を伸ばせばよかったのだ。
渡したくなかったのなら、ひと言そう言えばよかったのだ。
そうすれば、たとえ奪われる結末は同じでも、何かが変わっていたかもしれない。少なくとも、ここまで情けない自分にはならなかったかもしれない。
妹に文句も言わずに譲っていた、なんて、聞こえはいいけれど。
本当はただの臆病者だったのだ。
思いは口にしなければ、誰にも気づいてもらえないというのに。
「あ、の」
だから、勇気を出して声をあげる。
渡したくないと思ったものを、ぎゅっと掴んで。
「でも今は、うちのお客様、ですから……っ」
みんなの視線が自分に刺さっているのがわかる。
声が震える。足が震える。
自分は今、トラウマと闘っている。それも、
これはいい機会なのだろう。まるでお膳立てされた舞台のよう。
渡したくないものがあって、トラウマの原因が二人もいて。これぞまさに、役者がそろったと言うべきか。
「ですから、ヴィクトル……様は、うちでもてなしますっ」
言った。ちゃんと言えた。
結果はどうあれ、自分の意見をしっかり言えた。
そのとき、ヴィクトルの袖をぎゅっと握っていた手に、大きくて温かい手が重なった。
「よく言った」
ぽそりと耳元で囁かれる。
「え?」と顔を上げたら、ヴィクトルがこの場の全員を眺め回して、不敵に口角を上げていた。
「いやはや、これだからモテる男は辛いですね。伯爵のお誘いも魅力的ですが、紳士としてはやはり、女性からのお誘いも捨てがたい。どう思われます、伯爵?」
「そ、そうですね。まさかユーフェくんがそんなことを言うなんて、少し驚きましたが……。ではこうしてはいかがかな? 私たちとしても、さすがに隣国の王族を無防備に町中に泊まらせては、何かあったときに責任問題が発生してしまいます。できればそれは避けたいところ。だからユーフェくんとリュカくん、君たちも泊まっていくといい。どうやら君たちも、殿下たちと知らない仲ではなさそうだしね」
ユーフェは開いた口が塞がらなかった。まさかそんな提案をされるなんて。
「それはいい! 久々に旧友とも再会して、女性に取りあわれて、明日は雨が降らないか心配だよ。なあ、フランツ」
「問題ありません。女性うんぬんは通常運転なので、明日はさぞ良い天気でしょう」
「ははは。ひと言余計だ」
「いっ」
ヴィクトルがこっそりとフランツの足を踏む。最後のは小声だったが、近くにいたユーフェには丸聞こえだった。
そんな彼らのやりとりが面白くて、思わず小さく吹き出す。
ヴィクトルが優しい眼差しでそれを見ていたなんて、ユーフェは全く気づかない。
そして。
そんな彼らを鋭い瞳で睨んでいた人物に、ヴィクトルだけが気づいていた。
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