第36話 『花笑』

 その日、私は久々に趣味の登山に出掛けていた。


久々の登山という事もあり、用心しながらの山歩きのつもりだったが、途中、ぬかるみに足を滑らせ山の斜面を滑落してしまった。


足に怪我はなかったが、左腕に大きな切り傷を作ってしまい、仕方なく私は下山をする事を決めた。


妻に連絡をしようとしたが、電波が悪く携帯は使えない。


しかも滑落したせいで元来た道を引き返す事が困難になり、方位磁石を頼りに、何とか人のいそうな場所を目指し助けを呼ぶ事にした。


しばらく歩いていると、突然天候が悪くなり、これはまずい、と、適当に雨宿りできる場所を探す事にした。


すると、そこから少し歩いた先に、ちょっとした岩穴を見つけ、私はそこに荷物を降ろし一息つく事にした。


ふと空を見上げる。


空からは、蛇口をひねったかのような大粒の雨が降っていた。


雨雲が山を覆い隠そうと、空を灰色に染めていく。


このままじゃいかんな……


私は応急処置として、持ち合わせのガーゼと包帯で腕を処置した。


傷が思ったより深く、出血が酷いようだ。


早く下山しなければ……


だんだんと焦りが積もってゆくなか、不意に、私の視界の隅のほうで、何やら蠢く物があった。


花だ。


手を伸ばせば届きそうな位置、岩肌の窪みに咲いた、珍しい形をした真っ赤な花。


ツリフネ草?一瞬そう思ったが、ツリフネ草よりも花びらが大きい。


花びらが大きすぎて茎の部分が折れてしまうんじゃないかと思うくらいだ。


珍しい花だなと思っていると、唐突に、笑いがこみ上げて来た。


別に悲観して笑ったのではない。


ただ、こういった状況なのにも関わらず、まだ野草を愛でるくらいの余力が自分にはあるのだなと、妙に感心してしまい、思わず自分で自分がおかしく思えたのだ。


苦笑いしながら花に目をやる。


時折吹く風に、花が僅かに揺らめく。


それはまるで、私に小首を傾げて、


「どうぞごゆっくり」と、挨拶でもしているかのように見えた。


どこかこそばゆくも、安らぐ感じがした。


しばらくその様子を眺めていると、先程まで焦っていた私の心は、徐々に落ち着きを取り戻し、幾分か余裕が出始めていた。


まずは雨が止むのを待とう。


濡れた体で動き回るのは危険だ。


私はそう自分に言い聞かせ、岩肌に背中を預け、少し眠ることにした。


うすら開く視界の先に、先程の花がふわりと揺れるのが見える。


まるで「お休み」と、私に笑みを零しているかのように見えた。


しばらくして、私は目を覚ました。


酷い虚脱感。


手足に十分な力が行き渡らない。


寝起きだからか?と疑っては見たが、私は低血圧でもない。


ああ、腕の傷のせいか……


思い出したかのように、私は左腕に目をやった。


「あれ?」


思わず声が漏れる。


ない、包帯も、ガーゼも。


傷が剥き出しになっている。


血が腕を伝って、ポタポタと地面に落ち、小さな水溜りのようになっていた。


なぜ?


いや、とにかく急いで止血しないと、私は急いで荷物から新しいガーゼと包帯を取り出し、応急処置を始めた。


やがてひと段落し、私は再び岩肌に背中を預けた。


なぜ……


再度そう思ったが、それよりも今は体がだるい。


少し休まなければ。


再び目を閉じようとした、が、その時だ。


視界の先に、先程の花が見えた。


またもやふわりと揺れる。


ああ、またお休みと言っているんだな、と思った。


しかし、私の目はその後、閉じる事はなかった。


むしろ逆に見開かれ、閉じることを許されないとばかりに、驚愕した顔で花を凝視していた。


風は、吹いていない。


なぜ揺れた?しかも、不自然に花びらだけ……


私の肩が小刻みに揺れ始める。


同時に、顔が引きつるように痙攣し始めた。


夏の岩穴、蒸し暑くも感じるはずなのに、私の体は恐怖という影に支配され、真冬の雪山に取り残されたかのように冷たくなっていく。


花の下に、見てはいけないものを見つけた。


血だらけのガーゼと包帯。


花びらがゆっくりと動いた。


茎が不自然に曲がりだし、先程私の血でできた血溜まりに花びらをくっつけたのだ。


まるで、動物が水辺で喉を潤すかのような格好で。


ズズズッ……ズズッ……ズッ……


不快な音が、花から響く。


血溜まりが徐々に減っていく。


代わりに、花の赤みがどんどん増してゆき、花びらが一際大きくなっていく。


何だ、こ、これは……!?


絶望の淵に立たされたような気分だった、余りの恐怖に心臓が凍りつきそうなほど。


花びらがゆっくりと首をもたげる。


そして私の方に向き直ると、花びらをくしゃりと歪めて見せた。


ニタリ、と、唇に血をしたたらせながら、歪に笑っているかの様に。


気がつくと、私は岩穴を飛び出していた。


転げ回りながらもただがむしゃらにその場から逃げ出したのだ。


直後、岩穴のあった方から、


”キャハハハハハハハッ!!”


女の狂ったかのような笑い声が響いた。


その後、無我夢中で走り続けた先で、パトロール中だった山岳救助隊と鉢合わせた私は、そのまま保護される事となった。


さて、これは私の古い知り合いから聞いた話だが、あの山には、その土地の者しか知らない花があるという。


アザミ、と呼ばれているその花は、血のように真っ赤な花びらをしているのだが、かの冬虫夏草によく似ていて、山で亡くなった人間や動物の亡骸に、寄生して咲くのだそうだ。


アザミが咲く場所には死体がある。


迷信か、ただの言い伝えなのかは私には分からないが、これだけはハッキリと言えるだろう。


山にはまだ私たちの知らない何かが、息を潜めているのだと、そしてそれは、私たちが踏み込んではいけない領域に息づいているのだと、私はそう思っている。



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