第30話 帰船

これは、漁師だった俺のじいちゃんの話。


俺がまだ中学一年生の頃だ。


俺にとって漁に出るじいちゃんの姿は、憧れであり、将来の夢でもあった。


とても七十歳には見えない、日に焼けた引き締まった体に、無地のシャツにジャージ姿、家の玄関で黒の長靴を履きながら、野太い威勢の良い声で、


「行ってくる、今日もきっと大漁だ!わははっ」


と、豪快に笑いながら家を出て行くじいちゃん。


何度か港まで見送りに行ったが、親父とじいちゃんは俺を漁師にはしたくないらしく、船には一度も乗せてはくれなかった。


それでも船に乗り込むじいちゃんの姿は、その頃の俺にはとても眩しく見えたものだ。


そんなある日、俺の地元を巨大な津波が襲った。


後に南西沖地震と呼ばれ、地震による被害はかなりのもので、津波の被害だけでも、約142名が命を落としたと言われている。


その日、じいちゃんは一人で海に出ていた。


いつもなら親父と一緒に出るのだが、その日は海も時化ており、じいちゃんは親父が止めるのも聞かずに、仕掛けた網の様子を見に、船で海に一人出て行ってしまったのだ。


出かける前じいちゃんは俺に、


「こんな日は意外と大物が掛かるからな、孝司、じいちゃん大物釣って帰るからな!」


そう言って約束してくれた。


けれど、その日じいちゃんは家に帰って来ることはなかった。


幸いにも家は高台にあった為、家に居た家族は津波の被害をまぬがれた。


余震や第二の津波被害を避けるため、俺たち家族が避難した日から数日が立ったある日、ようやく家に帰ることが許可され、俺たち家族は我が家へと戻った。


もしかしたらじいちゃんが俺たちより先に家に戻っているかもしれない。

居ても立っても居られず、俺は一人足早に家に戻った。


が、そんな思いもむなしく、数日間誰もいなかった家は、まるで時が止まっていたかのようにシーンと静まり返っていた。


家中をくまなく走り回りじいちゃんの名前を呼んだ。


「じいちゃん!いるんでしょ?隠れてないで、ほら、皆無事だったよ、だからじいちゃんも顔見せて!」


閉じられた襖を乱暴に開け放ちながら言うと、じいちゃんの部屋に俺の声だけが虚しく反響した。


黴臭い匂いと塵積もった埃が舞い上がり、まるで俺に来るなと降りかかる。


それでも叫び続ける俺を、親父が泣きながら、


「もういい、もういいんやっ!」


そう言いながら強く抱きしめられたのを、今でも覚えている。


それからも俺はじいちゃんの帰りを待ち続けた。


口に出せば周りが悲しむのを理解していた俺は、部屋で一人泣きながらじいちゃんの帰りを待った。


遺体のないじいちゃんの葬式が行われたのは、それから三ヶ月も立った頃だった。


泣きつかれた俺は葬儀が終わると、ろくに晩飯も食べずに布団の中へと潜り込んだ。


どれくらい眠っていただろうか、不意に、


「おう、孝司!」


と、俺の名を呼ぶ声で目を覚ました。


それは、とても聞き覚えのある声……


寝起きだというのに意識はハッキリしていた。


暗闇の中耳を澄ませ、集中する。


「孝司!帰ったぞ!」


また聞こえた、外からだ。


間違いない、この声、じいちゃんだ。


俺は急いで階段を下りた。


居間では酔いつぶれた親父や親戚がいたが、早く確かめたいという強い思いもあり、起こさずに俺は、着の身着のまま外へ飛び出した。


冷たい夜風に晒されながらも、俺の体は熱く上気していた。


じいちゃんは生きている、あんなに強いじいちゃんがそう簡単に死ぬはずがない。


明日になれば葬式にやって来ていた親戚連中がきっと驚くだろうな、などと頭の中で想像しながら、俺は嬉しくてたまらなかった。


「孝司、もう着くぞ!帰ったぞ!」


じいちゃんのあの野太い声が聞こえる。


無我夢中で走った。


やがて、薄っすら霧がかった夜の港が見えてきた。


外灯は地震の影響で点かなくなったけど、その日の月明かりはいつもよりかなり明るかった。


俺はその月明かりを頼りに、いつもじいちゃんの船が停まっている場所へと向かった。


そこに船は、

あった。


見間違えるはずもない、じいちゃんの船だ。


急いで駆け寄ると、船の舳先近くに人影が見えた。


「孝司!?おう孝司、元気しとったか!?」


一瞬月が雲で隠れ、闇夜が辺りを包んだ。

だが直ぐに雲間から月が顔を出し、その人影を照らしてくれた。


間違いない、いつもの無地のシャツ、ジャージ姿に黒い長靴。


じいちゃんだ。


「じいちゃん!じいちゃんだよね!?」


叫ぶように言いながら、俺はいつの間にか泣いていた。


涙が止まらなかった。


鼻の奥が痺れる様に熱い涙が、堰を切ったかのように俺の瞼から溢れた。


「おう孝司!お前何泣いとんのや?」


「な、泣いて何か……泣いてなんかないよ!」


俺は服の袖で顔をゴシゴシと拭うと、思いっきり笑顔を見せた。


「ははは、変なやっちゃのう、それよりほら見てみい、しかけの様子見に行ったらこんなに大漁やったぞ」


じいちゃんはそう言うと、大きなクラーボックスから、これまた大きな魚を取り出してきた。


スズキだ、80cmはある大物。


その姿を見て俺は興奮した。

やっぱり俺のじいちゃんは凄い、あの日の朝も、大物を持って帰るからなと約束してくれた。

じいちゃんはちゃんと約束通り……約束……通り……


じいちゃんが漁に出て三ヶ月、あの日から三ヶ月が立つ。


なのに、なのに目の前にいるじいちゃんは、あの日の朝と何も変わらないままだ。


あの津波があったというのに、船もあの日のままだ。


「じいちゃん、お、おかえ……」


俺はギュッと両手を握り締め、拳をわなわなと震わせた。

そして歯を食いしばり、言いかけた言葉を飲みこむ。


俺はここ数ヶ月の自分の行動を思い返していた。


じいちゃんに帰って来てほしい……ただそれだけを毎日願った。


でもそれは……それは、じいちゃんが帰らぬ人となった事を認めたくない、俺の我がままだった。


いつまでもじいちゃんの死別から立ち直れずにいた、俺の……俺の妄想……


「じいちゃん……違うよ、約束と違うんだよ……もう、もう戻れないんだよ」


俺はそう言うと再び涙をこぼした。


我慢しようとしてもしきれず、涙は次々と頬を伝って落ちてゆく。


「そうかぁ……やっぱりそうやったんか……」


「えっ?」


じいちゃんの思わぬ言葉に、俺はハッと息を呑んだ。


「じいちゃんな、何となく気づいてたんだ……でもな、海に一人ポツンとおったら、孝司の声が聞こえてな、はは、」


そう言ってじいちゃんは軽く微笑んだ。


「俺の声?」


「ああ、孝が帰って来てくれって、顔を見せてくれって、な……」


じいちゃんはそこまで言うと、軽くため息をつきながら自分の頭を掻いて見せた。


そうか……じいちゃんは、じいちゃんは俺が呼んだから、俺との約束を守りたかったから。


お帰りと言いたかった、帰って来てと叫びたかった。


でも……


「じいちゃんごめんね……俺、俺もう大丈夫だから、だから……」


言葉にならなかった。


伝えたいこと、言いたい事がたくさんあった。


でも、それをどう伝えたらいいのか、どう言えばいいのか、その時の俺にはどうすればいいのか分からなかった。


するとじいちゃんは突然、


「わははははっ、孝司、お前は頭が良い、漁師なんかならんで一杯勉強しろ。良い学校行って、良い仕事について、早く父ちゃん達を安心させてやれ、わはははっ」


いつもの野太く威勢の良い声で、豪快に笑いながら、じいちゃんは俺にそう言った。


その瞬間、俺はそこに泣き崩れた。


嗚咽を零しながら大きな声で泣き叫んだ。


やがて泣き疲れ、涙を拭きながら顔を上げると、そこにはもう、じいちゃんの姿も、船の姿もなかった。


次の日、夜中に帰って眠りについた俺は、家族の騒がしい声で目を覚ました。


寝起きの俺に、親父が慌てて駆け寄ってきてこう言った。


「じいちゃんの船が、港に……港に戻ってきた」


昨夜、俺が行ったあの港、そこにじいちゃんの船が漂着したとの知らせだった。


船はかなり痛んでいて、いつ沈んでもおかしくない状態だったと言う。


船室には、じいちゃんの遺体があった。


不思議なことに、遺体は三ヶ月も立っていたというのに、損傷もほとんどなく、笑っているような死に顔だったらしい。


親父や周りの人たちは皆こう言っていた。


じいちゃんは約束を守るために、ちゃんと家族の元に帰って来たんだと……


あれから十数年立つ。


俺は約束通り、たくさん勉強した。


結婚して子供もできた。


親父達もこれで安心だと言ってくれるようになった。


じいちゃんの約束は、守ったよ。


あ、でも一つだけ、俺はじいちゃんとの約束を破ってしまった。


でも怒らないでほしい、俺は今の仕事が本当に大好きなんだ。


だから、今日も大漁であるようにと、じいちゃんも、あの世で祈っててほしい。


じゃあ、行ってきます。


俺は、家の仏壇に手を合わせそう願うと、黒の長靴を履いて、港で待つじいちゃんの船へと向かった。

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