第9話 二度寝日和

「一ノ瀬家へようこそ、梓くん、伊織ちゃん。遠慮なんていらないからね」

「そうよ。子供はそういうのを考えなくていいの。思う存分甘えてちょうだい」


 二人は朗らかに声をかけてくるけれど、どうにも俺と伊織の耳には入っていないようで。

 頭で止まることなく右から左へ流れてしまっているのが申し訳ないなと思う反面、心にぽっかりと空いた穴が普通でいることを許さなかったのだ。

 父親である仁が死んでしまって身寄りがなくなった俺と伊織は、色々と縁あって一ノ瀬家へと引き取られることになった。

 初めのうちは変わってしまった環境に慣れなかったせいか、体調を崩すこともあったが、常に奏さんが気を使ってくれていた。


「きっと疲れてしまったのよ」


 それは当然だろうと、俺は思う。

 けれど、こうなっているのが伊織もならまだしも、俺だけというのが何とも言えない部分で。

 伊織はというと、元気そうに毎日を過ごしているようだった。

 家事を手伝ったり、奏さんに料理を教えて貰っているのを見るに、心の隙間を埋めるものを見つけたのだろう。

 それが良いか悪いかなんてわからないけれど、きっと元気がないよりはいい事だ。

 一方で、俺はまだ立ち直れていなかった。

 人はいつ死ぬかわからない脆弱な生き物なのに、滅多に死ぬことなんて考えない。

 だからなのか、父親もいなくなってしまった事実が、残された自分の小さな双肩に重くのしかかっているようで。

『家族を守れる男になりなさい』。

 仁は、いつもそう言っていた。

 けれど、俺の現実はどうだろうか。

 守るどころか迷惑ばかりかけていて、与えるものなんて何も無い。

 こんな自分が情けなくて、変わりたいと心の底から思って。


 ある日の早朝、まるで庭先の紫陽花の葉に乗った朝露がキラリと輝いて見えた日。

 視線の先から聞こえたのは、気合いの篭もった声だった。

 それも一つではなく、幾つもの声が一つに纏まった、聞くものに威圧すら与えるような声だった。

 ――何があるのだろう。

 ふと疑問に思った俺は、眠気眼を擦りながらサンダルを履いてそちらへ向かっていった。

 閉め切られた横開きの戸を、中が僅かに見えるくらいだけ開けて中を覗くと……そこは、俺にとっては未知の世界が広がっていた。

 各々が各々なりの武器を持って、ひたすらに同じ動きを繰り返す。

 彼らの眼差しは鬼気迫るものがあり、睨まれている訳でもないのにぶるりと背筋が震えた。


「……すごい」


 ポツリと出たそれに含まれていたものは、一体なんだっただろうか。

 憧れとか、羨望とか、そういう感情を感じたのは、久しぶりのように感じた。

 そのまま中を見渡していると、一つの人影が目に付いた。

 成人を超えているはずの男が大半を占める中で、明らかに小さな、それも見たことがある人物がそこにいたのだ。

 艶のある長い黒髪を靡かせて、額に浮かぶ汗が煌めいて、一心不乱に槍を振るう彼女の姿に、俺は見蕩れていた。

 その日の夜、俺は康介さんに朝見たことを伝えて、「やってみたい」と言ってみると、


「そうか。なら、明日から朝六時にあの場所に来なさい」


 嬉しそうに俺の頭を撫でて、そう言ったのだ。

 それからは毎日のように道場で朝早くから稽古をして、疲労困憊の俺に「どうしたの?」と伊織が珍妙なものをみるような目で聞いてきたけれど、伊織もまた、嬉しそうだった。

 それまでは滅多に話す機会がなかった凛華と話をするようになったのは、この頃からだったはずだ。

 康介さんがわからないことがあったら凛華に聞きなさいと言っていて、本人は露骨に嫌そうな表情をしていたけれど、聞けばちゃんと教えてくれるので、なんだかんだで頼ってしまっていた。

 気がつけば、三人で笑い合う日常が生まれていて、とても、とても楽しかった。



 ◇



 熱い……苦しい……。

 微睡みの中で感じたそれを何となく理解しながらも、起き上がろうとはしなかった。

 雀が囀る音が聞こえて、朝の到来を知らせてくれるが、まだ寝ていてもいいじゃないかと心の中の悪魔が囁きかける。


「んんっ……」


 そんな俺の耳朶を打ったのは、どこかで聞いたことがある声と、何かが擦れる音だった。

 ふにゅん、と柔らかい感触が顔を覆って、途端に息が苦しくなる。

 酸素を求めて一層強く鼻で息をすると、濃密な甘い香りが嗅覚を刺激した。

 何事だと思い、重い腰を上げて閉じていた瞳を開けると――一面の肌色が広がっていた。


「ーーっ」


 驚いてあげそうになった声を押し殺し、急速に覚醒した思考が、肌色の正体を瞬時に弾き出す。

 決して豊満とは言えないながらも確かな弾力と柔らかさを持ち合わせた、二つの膨らみの正体は言うまでもなくおっぱいである。

 それも、妹である伊織のものではなく、凛華のものだと、どこか異常な程に冷静な思考が告げていた。

 視線を上へと向ければ、よく眠っている凛華の顔が近くにあって、反射的に顔を逸らそうとしたが、首に絡められた二本の腕がそれを許さない。

 とにかく今はこの状況を打開することが最優先事項だと判断し、首に絡められた凛華の腕を掴んで、隙間を作ってするりと脱出。

 この身体でなければ不可能だろうなと推測を巡らせつつも、危機的状況からは脱することが出来て一安心……そう思っていた矢先だ。


「あずさぁ……」


 やけに甘く聞こえる寝言と共に、再び腕が身体へと回された。

 お別れをしたばかりの膨らみがまたしても迫ってきて、肌と肌が密着した。

 熱が直に伝わってきて、なんだか安心感があるそれに、つい身体を委ねてしまった。


「柔らかいし気持ちいいし……何より面倒だから二度寝するかぁ……」


 女になったせいか、凛華の身体で興奮することもなかった俺は眠気に負けてしまい、全てを諦めて瞼を閉じた。




 プルルッ、プルルッーー。


 うるさいなぁ……。

 その音を止めるために枕に顔をうずめたまま、手だけを動かして携帯を手に取った。


「もしもしぃ……」

『あら、おはよう。梓ちゃん』

「……カレン?」


 聞こえてきた声に疑問を覚えて、ぼんやりとした意識で考える。

 こんな時間にカレンがなんの用だろう、と。


『その声、もしかして寝起き?』

「んっ。こんな時間になんの用……?」


 すると、向こう側からため息が聞こえてきた。


『……今日、検査するって言ったわよね。覚えてる?』

「けん、さ…………あっ」


 数秒考えて、ようやく思い出した。

 今日は三葉重工の研究棟で検査をするって言われていたんだった。

 そして、わざわざカレンが連絡をしてきたということは……


「……もしかして、遅刻?」

『そうよ。今、11時過ぎね』

「…………大変申し訳ありません」


 電話越しに五体投地で謝った。

 こればかりは自分でも擁護出来ないくらいに俺が悪いのだ。


『よろしい。今一ノ瀬の所でしょう?』

「なんで知ってるんだ?」

『うーん……愛の力かしら』


 惚けるカレンだが、どうせ発信機やGPSで俺の居場所を特定しているのだろう。

 三葉ならお安い御用だ。

 ……プライバシーもへったくれもないな。


『もう一ノ瀬の家の前に迎えを止めてあるから、直ぐに来てちょうだい』

「……わかった。ありがとう」

『どういたしましてっ』


 礼をするのは癪だが、どうしてカレンはこうも気が利くというかなんというか。

 ともあれ、適当に身嗜みだけは整えてから、一ノ瀬家を出ることになった。

 その間に凛華と会ったが、俺を見るなり顔を赤くして逃げるように消えていったのは少しだけ悲しかったりした。

 奏さんに見送られて母屋を出て門を潜ると、黒光りする長い車が止めてあった。

 一目で高級車だとわかるそれだが、中に乗っているのはもちろんカレンである。

 専属の運転手さんにエスコートされて車へと乗り込むと、中ではカレンが忙しそうにタブレットを操作しているのが見えた。


「おはよう、梓ちゃん」

「……おはよう。色々と迷惑をかけた」

「いいのよ。人間誰しも失敗はあるもの。……安達さん、出してちょうだい」

「かしこまりました」


 運転手の老紳士――安達さんが反応すると、まるで発信音を立てずに車が走り出した。

 そして約三十分後、大きなビルへと到着した。

 車を降りた俺はカレンに連れられるようにして、ビルの中を移動していた。


「いつも思うんだが、ここって何階まであるんだ?」

「確か五十とかそこらよ。これでも窮屈にしているから別で施設が幾つかあるけどね」


 流石は日本を支える大企業である。

 そんなこんなで中に入ってから数分して、見覚えのある場所へとやってきた。

 白を基調としたフロアであり、最新の機器や研究者が忙しなく働く場所ーー研究棟だ。

 音もなく開いた自動ドアを潜ると、中の人の視線が集中した。


「ごめんなさい。待たせたわね」

「とんでもない、カレンお嬢様。そして、梓くん、久しぶりだね」


 一人のメガネをかけた女性が答える。

 彼女は俺がこうなって、カレンに引っ張られる形で連れてこられたここで、リハビリなどもここで行うことになった関係で、色々と世話になった人である。


「神楽さん、お久しぶりです」

「あーもう、翡翠って呼んでくれていいのに……強情ねぇ、梓くんは」


 そうは言うものの、笑顔を見せてくれるので自然と緊張が解れてくる。


「あらあら、随分仲がいいわね。妬けちゃうわ」

「そうかよ。んで、どうするんだ?」


 そう言ってカレンへと視線を向けると、何故かニヤリと笑っていた。

 サバンナの肉食獣が獲物を見つけたかのような、そんな表情。

 カレンの両手が伸びてきて、肩へと置かれて――ぶるりと寒気がした。

 嫌な予感が脳裏を駆け巡り、カレンがこの状況で考えそうなことを何通りも思い浮かべる。

 どれだ、どれだと取捨選択を繰り返していると、遂に魔王が俺へと牙を剥いた。

 それ即ち――


「――じゃあ、まずは脱ぎましょうか♪」


 満面の笑みで告げられたのは、俺への死刑宣告だった。

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