第8話 俺は

 シャワーから流れる水音が、乱れていた心を落ち着かせてくれてくれるようで、いつまでも現実から目を逸らしていたくなる。


「梓姉〜、いつまでシャワー浴びてるの?」


 比較的緩んだ声が背中越しに聞こえた。

 湯気が立ち込める一ノ瀬家のお風呂場で、俺は頭を悩ませていた。

 服をあれよという間に脱がされ、伊織と凛華の二人に押されるようにしてお風呂へと押し込まれた俺は、精神的にかなりのダメージを負っていた。

 女性特有である胸部装甲の格差に若干の理不尽を覚え、強く出ようにも怪我なんてさせられないという心理が働いて身動きが取れなかった。

 裸を見られて羞恥心が顔を出し、二人も俺のことを気にせずに服を脱ぎ出して目のやり場がなくなってしまったりと、この時点で既に参っていた。

 風呂場へと押し込められた俺は、何故か二人に身体を洗われてしまった。

 撫でるように優しい手つきで行われたそれは、緊張が緩んでしまうくらいには気持ちいいものだったが、生まれた時から女性である二人からも聞いたことがないような声が出てしまって、揶揄われた。

 そしてーー自己嫌悪に陥っているのである。


「もうお嫁に行けない……」


 思考が女の子になってしまって、何となく口走ったそれに、


「自分のことを男って言ってる割に随分と女の子な言動になっているけど、大丈夫?」


 冷静で辛辣な凛華のツッコミが突き刺さった。

 普段の凛華はこんな感じなのだが、もうちょっと丸くなってくれてもいいと思う。


「……大丈夫って聞くならなんであんなことしたんだよ」

「いや、だって、恥ずかしそうにする梓がなんか新鮮で可愛くて。つい……ね」


 もうやだ泣きたい。

 とはいえこんなことで泣いてしまったら本当に何かを失ってしまいそうなので、ぐっと堪える。


「ほら、梓姉も湯船においで? 気持ちいいよ?」


 俺の気も知らないで、すっかり楽しんでいる様子の伊織が手招きする。

 ……もうどうにでもなれ、俺は知らん。

 この状況で二人に見られ続けるくらいなら、お湯の中で精神の安定を取った方が絶対にいいと判断。


「……なら、入るぞ」


 髪を結んで湯船に浸からないようにして、覚悟を決めて湯船へと足を伸ばした。

 お湯の温度は熱くはなく、そのままゆっくりと身体を沈めきった。


「どう?」

「…………はぁ。いい湯だよ」


 したり顔でこっちを見ている伊織に、視線を逸らしながら端的に答えた。

 檜の木材がふんだんに使用された湯船は三人で入っているにも関わらず、まだ余裕があり、ゆったりと脚を伸ばしても問題ないくらいだ。


「それにしても大きいよね〜、お風呂」

「いくらなんでも大きすぎると思うけど、ゆっくり入れるのは大事だと思う」


 凛華は手を組んで上へと伸ばし、背中を伸ばしているようだ。

 長い黒髪はお団子になっていて、隠されていたうなじがハッキリと見える。

 薄らと桃色に染まった頬と、水気を帯びた艶めかしい白い肩が、蠱惑的な魅力を漂わせる。

 普段は隠れて見えることの無い鎖骨も惜しげも無く露出されていて、白く濁ったお湯に沈んでいる小振りな胸が呼吸に応じて上下する。

 ……いやいや、俺は何をしているんだ。


「あ〜ず〜さっ」


 間延びした凛華の声が聞こえて、さっきの光景を連想的に思い出してドキリとした。


「な、なに」

「見られてるな〜って思ったから、ちょっと揶揄ってみようかと」

「うっ……ごめん、凛華」


 言い訳をしても意味がないのはわかっているので素直に謝ると、二つの笑い声が重なって聞こえた。


「ふふっ、なんかごめん。怒ってないから気にしないで」

「そうだよ梓姉。そもそも裸を見られて怒るなら初めから一緒にお風呂に入ろう、なんて言わないよ」


 優しげな声音で告げられたのは、俺を責めるような言葉ではなかった。

 色んな疑問が湧いて出るけれど、結局いつもの様に考えてしまう言葉が出る。


「なんで、俺はーー」


 男だぞ……と言いたかったのに。

 その先は言うことが出来なかった。

 凛華の人差し指が俺の唇へと当てられていて、一瞬で思考が霧散した。


「男だって言いたいんでしょ? でも、それじゃあ窮屈なだけだよ。自分自身を否定して、慣れない身体に自分の意思とは関係なくされて。そんな梓を見ているのは……壊れてしまいそうで、怖い」


 唇に当てていた指を離して、今度は頬を手のひらで触れて、優しく撫でた。

 直に伝わる凛華の熱量が自分の中の何かを解していくようで、それが嬉しくもあって。

 ……同じくらいに、怖かった。

『今』を壊してしまうんじゃないかと想像して、その原因を作ったのは紛れもなく身勝手な自分で。


「大丈夫だよ、梓兄。私達は、絶対にここにいる。居なくなったりしないよ」


 ギュッと、右手が伊織の手に握られた。

 驚いてそちらへ振り向くと、にっこりと笑う伊織の顔があった。

 まだ状況に混乱する俺の脳は「大丈夫」だと囁きかけてくるけれど、答えは直ぐに出せそうにはなかった。

 だって、


「……俺は、いなくなるかもしれない恐怖を、二人に見せたのに、一人だけ救われるなんて……そんなの、都合が良すぎる」


 あの日、一人でダンジョンに行かなければ。

 凛華にもっと頼っていれば。

 あるいは、過去に囚われなければ。

 二人を悲しませることはなかったはずなのに。

 どうしようもなく最悪な自分が、嫌になる。

 考えれば考えるほど抜けられない泥濘に嵌っていくようで。


 思考の海に呑まれかけていると、突然頬に痛みが走った。

 どうやら凛華が頬を抓ったらしい。


「……痛いんだが」

「痛くしたからね。あんまりに酷い顔だったから」


 いくらなんでも理不尽だ。


「まあ、今の顔は酷すぎだよ、梓姉」

「伊織まで……そんなに俺を虐めて楽しいかっ!?」

「反応を見るのは楽しいけど?」


 凛華の当然でしょう?というような言葉に頷く伊織を見て、ここに味方はいないのだと理解した。

 若干の絶望を覚えて顔を手で覆っていると、


「ひゃっ!?」

「……柔らかい、柔らか過ぎるよ梓姉!」


 突然のボディタッチが脇腹を襲い、自分のものとは思えない嬌声をあげながら、ビクリと肩を震わせた。

 犯人は言うまでもなく伊織で、悪代官のようなセリフを吐いていた。


「おいっ! なに、やってっ……んっ」


 お湯の中で始まったのは、女の子同士ではよくあるというボディタッチ……の範囲外としか思えない、過激な肌の接触だった。

 どこで覚えたのか、妙に厭らしい手つきで身体中を舐るように撫でられて、むず痒くも甘い快楽を断続的に感じてしまう。

 脳が痺れたように働かなくなり、思考が徐々に散漫になって、力が抜けて動けなくなる。


「あぁ、これ、癖になっちゃうよ……。凛華ちゃんもどう?」


 ふにゃふにゃになった俺には目もくれずに、伊織は追撃をかけるために凛華へと共犯者にならないかと持ちかけたのだが、


「……じゃあ、ちょっとだけ」


 ここでまさかの増援である。

 これは全くの予想外だった。


「梓、天井のシミを数えていればすぐ終わるから」


 どことなくノリノリのように見える凛華は、浴槽での距離感を詰めてきて、ピタリと肩が触れ合う。


「いや、やめて、りんか……っ」


 抵抗とは呼べない弱々しい声は、お湯の中で身じろいたことで生じた水音に掻き消されて、届くことは無かった。

 伊織に続いて凛華の細い指が、今度はお湯に沈んだままの太ももへと触れて。

 本人に自覚はないのだろうが、触れるか触れないかの瀬戸際くらいの力加減で行われるそれは伊織のものとはベクトルが違うが、やはり何かが湧き上がってくる感覚を覚えさせるものだ。

 これまで意識しないように努めてきたその感覚を自覚してしまい、溢れそうな快楽へと溺れてしまえばどれだけ楽かと思ってしまって。


「……んっ、っ、だ、め……っ」



 それでも無けなしの理性を総動員して、どうにか自分を保とうと濡れた声で二人へと訴えかけた。

 すると、二人の動きがピタリと止まった。


「……凛華ちゃん、そろそろやめよ?」

「……そうね。ちょっと、やりすぎちゃったかも」


 申し訳なさそうな声が聞こえてくるが、今はそれどころではなかった。

 途中で止められて……否、止まったことで、モヤモヤとした何かがまだ燻っているのだ。

 しかし、自分でやめてと言った手前、それをすることは出来ない。

 ……これは、うん、仕方ないんだ。

 ついあんなことを考えてしまった俺は全力で現実逃避をしつつ、崩れていた体勢を直す。


「ごめんね、梓姉」

「私も、調子に乗りすぎた。ごめん」

「……伊織はまだしも、凛華まで乗ってくるとは思っていなかったけど。まあ、大丈夫だから、顔を上げてくれ」


 多分今のは二人なりに俺のことを気遣っての行動なのだろう。

 何割かは楽しんでやっていただろうけれど、確かに気は紛れた。

 それがわかっているからなのか、自然と感謝の言葉が口をついて出た。


「……なんか、ありがとう」


 すると、二人は顔を見合わせて、


「わかったならいいの」

「そうそう。梓姉に元気がなくなったらまたやるからねっ!」

「割と冗談になってなかったからやめてくれ……」


 次にやられたら反撃くらいはしてやろう、なんて考えながら苦笑を返した。

 でもまあ、こんな騒がしいお風呂というのも悪くないかなと思うのだった。

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