第6話 忘れていたのは

 


「……やった……、初めて、勝った……っ!」


 ゼェゼェと息を荒くして、俺は初勝利の喜びを噛み締めていた。

 一方で、物凄く不機嫌になっている人もいる。


「負けた…………」


 呆然と立ち尽くす少女は相当なショックを受けているらしい。

 何せ、彼女は同年代の人に負けたことはなかったのだから。

『一ノ瀬流』のあらゆる武術を幼少の頃から学び続け、中でも槍術を得意とする彼女は、歳上にも負けないほどに強かった。

 正しく天才と言うべき存在だったはずだ。

 しかし、彼女だって人であるのなら、失敗することもあるだろう。

 勝負は時の運とも言うし、それがたまたま今日だったのかもしれないが、事実だけは揺るがない。


「……ううっ、うわあぁぁぁっ……」

「お、おい、泣くなって!」


 突然泣き出してしまった彼女を慌てて宥めると、目元を腫らしながら反抗心を剥き出しにして、


「泣いて、なんか……っ」


 目元を袖で拭いながら、強気に返事を返してきた。

 彼女は、その生い立ち故に人付き合いが苦手なのだ。

 あまり機嫌が悪い女性には構うなというのを俺は知っていたので、これ以上の刺激はしないようにするべく、道場を後にしようとしたのだが、


「……もう一回」


 彼女の声が、道場の中に響いた。


「いや、俺疲れてるんだけど――」


 稽古をこなして、その後の自主訓練として彼女に付き合わされての試合だったそれで勝ってしまったのが原因だと言うのならば、俺は何も悪くない。

 だが、そんなことはお構い無しに彼女は俺の腕を握って道場の中へと引き戻していく。

 その手は意外にも女の子らしい柔らかな感触で、少しだけ濡れていた。


「もう一回! 早く!」


 最早癇癪と変わらないそれに、避けられないことを悟って、仕方なく木刀を握ると、タイミングを見計らった凛華が飛び込んできて試合が始まった。

 結局、それからの試合では勝つことが出来なかったが、どうしようもなく楽しい時間で、かけがえのない大切なものを得られたのだ。

 何物にも変えることが出来ないそれは、俺が必要としていなかったもののはずなのに、手にしてしまったら戻れなくなってしまったものだ。

 そう、俺にとって彼女は――



 ◇



「遅いっ!」


 裂帛の気合と共に、凛華が操る槍の穂先が幾度となく迫る。

 何度も見てきたそれだが、速度とキレ段違いだ。

 ヒュッ、と空を切る音が何度も迫るが、それら全てを躱し、あるいは木刀と歩法の合わせ技で捌き続ける。

 ぶつかり合う度に生じる衝撃を上手く逃がしながら、リーチの差がある木刀で反撃する。

 以前の俺ならば見えていてもそれ以外の面で負けていたが、今は違う。


「なんでっ、こんなこと、するんだよっ!」


 撃ち合う音が鳴り響く中で、俺は問う。

 こんなことをしなくても話し合えば分かり合えると思っていた。

 しかし、現実はそうではなかっただけだ。


「煩いっ!」


 吐き捨てるようなセリフと同時に、さらに動きが加速した凛華が、一直線に鋭い突きを放ってきた。

 コマ送りのように一瞬で迫るそれは、確かに鋭いが精彩を欠いていた。

 凛華らしからぬ槍筋だった。

 故に、躱すのは容易い。

 半身になって、槍の柄の部分を上から木刀で押さえつけて、膠着状態を作り出す。


「凛華、話を聞いてくれっ!」


 近くなった距離感で凛華を見るが、俯きがちになった彼女の表情は前髪に隠れて見えない。

 しかし、微かに声が聞こえる。


「……なんで」


 酷く震えていて、濡れた声だった。


「……私は……じゃなかったの……?」


 途中が掠れて聞こえなかったその言葉を最後に、凛華は俺から距離を取った。

 ダメだ、結局凛華が何を言いたいのかがわからない。

 凛華の言葉によって生まれた悶々としたものが渦巻いて、集中が乱される。


「なんだよ……クソッ」


 思わず悪態をついて、俺もまた体勢を立て直す。

 心無しか重く感じる木刀を正眼に構えて、静寂が場を支配した。

 俺も凛華も口を開かず、ただ目の前の『敵』を倒すことしか考えていないこの時間に、どこか懐かしさを覚えた。

 あの日はこんなに暑くなかったが、確か同じようなことがあったはずだ。

 何かの理由で凛華が怒って、八つ当たりをされた気がする。

 その原因を作ったのは俺だったはずだけど、理由が思い出せない。

 片隅でそんなことを考えていると、涼やかな声が聞こえて、意識が傾いた。


「私は、梓に貰ったものがあるのに、返せないなんて嫌なの」


 凛華が俺から貰ったもの……?

 記憶の海を漁ってみるが、どうにもそれらしいものは思い浮かばない。

 惚けているとかじゃなく、本当にわからないのだ。

 それが表情に出ていたのだろう。


「……ここまで言っても、梓はわかってくれないんだ」


 明らかに落胆や諦めといった感情が込められた凛華の様子は、一言で言えばらしくないものだ。

 いつもは凛とした冷静さを持ちながらも、気が強くて負けず嫌いな子供らしいところもあるのに、今は影も見られない。


「私じゃ、ダメなの……?」


 いつの間にか見えていた凛華の漆黒の瞳には――大粒の雫が浮かんでいた。


「凛華、泣いて――」

「……っ、あれ、なんで。とまって……とまってよぉ……」


 必死に拭う凛華だが、止まるどころか逆に溢れ出して、収拾がつかなくなっていた。

 その手に持っていた槍は重い音を立てて床に転がり、凛華は膝をついて啜り泣いていた。


「ううっ、ぐすっ……っ」


 近寄り難い状況に、どうしようかと迷っていると、


「……なんで、もっと……っ、たよってくれないの……」

「…………えっ」


 まるで予想していなかった言葉が途切れ途切れながらに聞こえて、気の抜けた返事をしてしまった。


「いっしょにいるっていったのに……。『ともだち』だって、いったのにっ!」


 ああ……そうか。

 凛華が「何もわかってない」と言ったのは、そういうことだったんだ。

 忘れていたのは俺で、裏切ったのも俺で――凛華をこんなにしてしまったのも、俺なんだ。


「……ごめん」

「――謝ればいいってものじゃない」


 まだ完全に泣き止んでいる訳では無いが、それなりに話せるようになった凛華が、静かに言った。

 そんな凛華の前に俺も座り込んで、目を見て話すように心がける。


「じゃあ、どうすればいい」

「……こっちに来て」


 凛華が手で床をトントンと叩いた場所に俺は座り込んだが、なんだか距離感が近すぎる気がする。

 熱気が篭る道場の中で動いていたせいで、かなりの汗をかいていて、臭くないかと考えてしまうが今は二の次だ。

 今は凛華が言うことに従わなければならない。

 何をされるのかと恐る恐る、隣にいる凛華へ視線を移すと、紅潮した頬が見てとれた。


「凛華、頬が赤くなってるぞ。具合でも悪いのか……?」


 とてもじゃないけれど、見過ごすことは出来なかった。

 熱中症にでもなってしまったのかと重い、熱を測るために手を額へと近づけようとすると、


「な、何するのっ! これは、その……とにかく大丈夫だからっ!」


 何やら慌てた様子の凛華は後退りながら拒否するのだが、むしろ赤みが顔全体に広がっていて心配になってしまった。

 でも、避けられたのだと思ったら悲しくなってしまった。


「……悪い。男にこんなことをされるのは嫌だよな」


 突然男にあんなことをされたら嫌だろうことを今更思い当たって謝ったのだが、


「……ううん、違うの。ただ、驚いただけ。それに、今の梓は女の子だよ」

「……あっ」


 そうだった、今の俺は女の子――って、そうじゃないだろ!


「それよりも、私が言いたいのは……もっと、私を――『友達』を頼って欲しいって言いたいの」

「『友達』……」


 小さな声でその単語を反芻して、噛み締める。

 それが、俺が忘れていたものの正体だから。

 二度と忘れないように、悲しませないようにと、心に刻み込んで。

 そうしていると、床についていた手に温もりが重ねられて、見てみれば俺のと同じような手が乗せられていた。


「私ね、梓が病院に運ばれたって聞いた時、何も考えられなくなった。何も出来ない自分が嫌になって、一人で梓が抱え込んでいたことに気付かなかったんだって、悲しくなった」


 独り言のように話す凛華は、どこか吹っ切れたような表情をしていた。


「でもね、それより悲しかったのは梓が私のことを頼ってくれなかったことなんだ。……昔のこと、覚えてる? 私が初めて梓に負けた日のこと」

「覚えてる……いや、思い出した、かな」

「……それははっきりと覚えていて欲しかったかな。私と梓が初めての『友達』になった日なんだから」


 それに関しては謝るしかない。


「私はもう、失うのが怖いの。それがたった一人の『友達』なら、尚更。そう思わせてくれるくらいに、梓が私の全てだった」


 凛華が身を乗り出して、顔が近づけられた。

 健康的な肌には朱が差していて、潤んだ黒玉の瞳と相まって酷く蠱惑的だ。

 見たことの無い凛華の一面に胸が高鳴った。

 くらりと目眩がするような甘い香りが漂ってきて、意識が電池切れの電球のように明滅する。


「り、りんか……?」


 呂律が回らず、いつの間にか身動きを封じられていた俺は凛華にマウントポジションを取られてどうしようもなくなっていた。

 白い道着が僅かにはだけて、汗ばんだ肌がチラリと見えてしまい、ただでさえ熱さを訴えていた顔が、さらに熱を持つ。

 呼吸が浅くなって、汗が止まらなくなって。

 そんな状態の俺の耳元へ凛華は顔を近づけて、垂れてきた黒髪が頬を撫でていてこそばゆい。

 それ以上に凛華の顔が近くて、熱の篭った視線が自分に向けられているのがわかって、呼吸も徐々に荒くなって。

 頭がぼーっとして何も考えられなくなりそうな状態で、自分の身に起こっていることを何となく理解した。


「私ね……梓のことが――」


 そこまで聞こえた辺りで目眩が酷くなって、


「……ごめん、凛華。多分、熱中症……」


 凛華の声を最後まで聞くよりも先に、俺の意識は刈り取られてしまった。


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