第2話 兄と姉と、妹と

「……今日も順調だな」


 刀に付着した血を払って、鞘へと納めた。

 黒髪黒目で、やや目付きの悪い青年は、魔石を拾い上げて再びダンジョンの探索を始めた。


「今日はドロップがあまり良くないな」


 探索を始めておよそ三時間も経っているのに、背嚢の重さはダンジョンに入った時とそれほど変わっていない。

 魔物は時折ドロップとして素材を魔石と共に残していくことがあるのだが、今日はあまり運がないらしく、未だに一度も見ていない。

 とはいえ、魔石だけでもそれなりには稼ぐことが出来るので、もう少し粘りたいところではある。


「もう少し奥の方に行ってみるか……?」


 基本的にダンジョンの魔物は奥に行くか、深い階層になるほど強くなって、最深部にはボスが待ち受けている。

 そして、強い魔物ほど純度が高く大きな魔石を落としやすいのだ。


「……あんまり無理するなとは言われてるけど、無理しなきゃ生きていけないんだよ」


 帰りを待っているであろう妹から言われた言葉を思い出しつつも、俺は奥地へと歩を進めた。

 一人で奥地へと向かうのは危険ではあるが、そうしなければならない事情がこちらにはあるのだ。

 警戒を強めながらも、俺は鬱蒼と草木が繁る奥地へと向かっていった。


 京都に存在する、通称伏見ダンジョンと呼ばれているこの場所は、ダンジョンの中の空間が元よりも広がっている拡張型に分類されるものだ。

 他にも地下に伸びる洞窟型や、全く違う地形が繋がっている異界型と呼ばれているダンジョンも存在するが、それらの話は後ほどするとしよう。

 話を戻すが、この伏見ダンジョンは森が広がっていて、動物系の魔物が主体となっている場所だ。

 それ故に初心者でも狩りがしやすい。

 しかし、それは浅い領域内だけでの話で、深部は気色が変わってくる。

 動物系はより凶暴になり、異形としか呼べない生物も多く見られるようになる。


「……やっぱりきついな」


 今しがた斬り捨てた魔物の死体がダンジョンへと吸い込まれていくのを眺めながら愚痴を吐いて、荒くなった息を整える。

 わかっていたことではあったが、まだ深部の魔物を相手取るには力が足りていないようだった。

 なんでもダンジョンで魔物を討伐している探索者には身体能力が向上したり、それこそ普通の人間には不可能な行動が出来たり、スキルと呼ばれる特殊な技を使う者もいるらしい。

 身体能力の向上に関しては、ゲームのレベルアップのような概念が存在していると考えられていて、俺もその効果を実感はしていた。

 後者に関しては耳に挟んだ程度だが、噂程度だと思っている。


「帰るか……」


 精神的にも限界が近いし、何より一人でダンジョンという命がいくつあっても足りない場所にいるせいか、疲労が溜まるのが早い。

 そう結論を出して、ダンジョンの出口へと向かうべく踵を返して帰ろうとしてーーぞわりと背筋を冷たいものが走った。


「――っ!」


 悪寒とも似た、人間の本能に訴えかけるようなそれに無意識に従って、俺は腰の刀を抜いて振り返った。

 俺の視線の先にいたのは、どこにでもいるような茶色のふわふわとした体毛を身に纏う、一匹の狐だった。

 しかし、その姿は俺がずっと待ち続けていた狐そのものだった。

 その証拠に、右目には見覚えのある刀傷が残されている。

 皮膚が泡立ち、血が沸騰でもしているかのように全身が熱くなる。

 刀を握る手のひらには汗が滲み、嫌な緊張が纏わりついていた。

 狐の一挙手一投足を見逃すまいと注視していると、妖しく瞳が光った瞬間――視界が歪んで意識が遠のいていった。

 猛烈な吐き気に苛まれ、自分自身がどこかへ消えてしまうような不気味な感覚さえ覚えた。

 どうにか倒れないように刀を地面に突き刺して耐え凌ごうとするが、全身から力が抜けていく脱力感とともに、瞼がゆっくりと閉じていく。

 薄く開かれた瞳から見る視界はぼやけていたが、一つだけはっきりとわかったことがあった。


 ――最後に見た狐の眼は……嗤っていた。



 ◇



「……夢、か」


 思い出したくもないものを見せられて、まだ外が暗い時間に俺は目を覚ました。

 ベッドの横の棚に置いてある時計を見れば、夜中の三時過ぎだったようだ。

 道理でこんなに静かな訳だと思いながら、すっかり目が覚めてしまった俺は水分補給も兼ねてキッチンへと向かった。

 コップに冷蔵庫で冷やしているミネラルウォーターを注ぎ、口をつける。

 くっ、くっ、と喉が鳴って、冷たいものが流れていく感覚が熱を持っていた身体を鎮めるようで心地がよかった。

 椅子に腰掛けると、はぁ、と自然にため息が出てしまった。


「……まぁ、仕方ないか」


 そう割り切って、少しばかり沈んでいる感情に理由をつけて正当化する。

 いつかは乗り越えなければならないことだと頭ではわかっていも、今の俺は怯えてしまう。

 ……無くしてしまうことの意味を、改めて知ってしまったから。


「……本当に、どうしようもない兄だな。こんなの、伊織には見せられない」


 自嘲気味な笑みを浮かべて、独り呟く。

 そもそも今の俺は兄というか男ですらないけどな、と付け足すが、余計に虚しくなってくるので直ぐに中断することにした。

 姿かたちが変わっても、俺は――俺だ。

 四宮梓という一人の人間であり、唯一の血の繋がった家族である伊織の元兄であり、現姉だ。


「可愛い妹をおいて消えるなんて兄失格だ」


 自らの軽率な行動を戒めるべく、言葉の鎖で縛り付ける。

 自分には伊織がいるのだから、思慮深く、慎重に行動しろ……と。

 そんなことを考えていると、不意にリビングのドアが静かに開いた。


「梓姉……?」

「……ん、悪い。起こしちゃったか?」


 薄桃色のパジャマ姿で現れた伊織にそう聞くと、ふるふると首を横に振った。


「なんだか寝れなくて、起きてみたら電気がついてたから」

「……そっか。伊織は何か飲むか?」

「……じゃあ、私もお水を貰おうかな」


 返事を聞いて、俺は伊織の分の水をコップに注いで、伊織の前に置いた。


「ありがと、梓姉」

「これぐらいなんでもないよ」


 伊織は早速コップの水に口をつけて喉を鳴らした。

 そして、伊織との間に沈黙が訪れた。

 一秒が何倍、何十倍にも拡張されたかのような感覚に陥り、空気すら重さを伴っているようにすら感じてしまう。

 そんな中で、静かに伊織が口を開いた。


「……ねぇ、梓姉」

「……どうしたんだ?」

「梓姉の身体、もう戻らないんだってね」

「そう、みたいだな」


 簡潔にその答えだけを返して、続く言葉を待つ。


「………………凄く、凄く怖かったんだ。突然知らない番号から電話がかかってきて、お兄がダンジョンで倒れたって聞いて、それで病院に急いで向かったらそんな女の子の姿になっていて」


 長い沈黙の後に伊織が語ったのは、俺が変わってしまったあの日のことだった。


「目が覚めないけれど、その女の子は確かにお兄だってわかって、もう、どうにかなりそうだった。……実際、目が覚めるまでの数日、私はずっと泣いてた」


 話しながら今にも泣きだしそうな伊織に、俺は何かを言おうとして……息が詰まった。

 どうしてか、言葉が出なかった。


「それでもお医者さんの言葉を信じて待っていたら、お兄は目を覚ましたの。……その時にはお姉ちゃんだったけどね」

「そう、だな」

「もう……少しは言葉遣いを気をつけたら?」

「二人だけなんだからいいだろ? 周囲の目があるところではちゃんとやってるよ」


 少しでも場の空気を軽くするために軽口で返すと、ふふっ、と伊織も微笑んだ。

 けれど、それはどこか儚げで、酷く脆いガラス細工のように見えてしょうがなかった。


「それからは生活がガラッと変わって、今じゃあこんなマンションに住んでる。食べるのにも困らないし、カレンさんも力を貸してくれてる」

「……その代わり俺の写真が世の中に出回ってるけどな」

「梓姉は可愛いんだから、気にしなくてもいいと思いけどなぁ……」

「元男としては気にするんだよ」


 伊織には悪気はないのだろうが、その言葉をかけられるのは未だに慣れないし慣れたくない。

 始めよりは雰囲気が和んできたかと思ったが、「でもね」と伊織が言ったことにより逆戻りしてしまった。


「……私は、もう梓姉にはダンジョンに行って欲しくないんだ」


 目を合わせて、伊織は言った。

 吸い込まれそうな程に黒い伊織の瞳が向けられていて、身体が強ばるのを感じた。


「私は何も出来ないけれど……それでも、二人で暮らすには雑誌の撮影だけでも十分なんでしょ? なら――」

「――伊織、ごめん」


 気持ちは、痛いほどわかる。

 わかっているつもりかもしれないけれど、それでも譲れないものはあるんだよ。


「ダンジョンへ行くのをやめる気はない。それに、もう無理をするつもりもないし、危険なこともしない。でも、一つでも見つけたいんだよ」

「……仇討ちなんて考えてないんだよね」


 コクリと頷くと、じーっと顔を見られた後に、大きなため息をついて、


「梓姉が頑固なのは知ってるけど、可愛い妹のことも考えて貰えると嬉しいかな」

「当たり前だ。伊織は世界一可愛い妹だよ」

「……もう、梓のバカ」


 頬を膨らませてぷいっとそっぽを向いてしまった伊織は、怒っているようにも見えて、嬉しそうで――悲しそうだった。


「じゃあ、世界一可愛い妹は眠れないから、梓姉と一緒に寝たいかな」

「…………わかった。先にベッドにいっててくれ」

「はーい!」


 伊織の我儘は俺にとってはあまり良くないことだと思ったけれど、たまには昔のように一緒に寝るのもいいかもしれない。

 それに、一人だと落ち着かない感じがして、眠れそうになかった。

 元気よく返事をして伊織は自分の部屋へと戻ったのを確認して、俯きがちになりながら呟く。


「……ごめんな、伊織。でも、やらなきゃならないんだ」


 自らの心に燻る黒い感情を表に出さないように、コップに残ったミネラルウォーターを飲み干して、伊織の部屋へと向かうのだった。


 その日は自分でも驚くくらいに熟睡してしまって、朝に寝顔を小一時間ほど伊織に眺められることになったのは、全く計算外だった。

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