序章「ボーイ・ミーツ・ボーイ」2
若根裕輝は駅までの道をぼんやりと歩いていた。裕輝は部活動に所属していないので、いつも授業が終わるとすぐに荷物をまとめて帰宅する。イヤホンを耳にしながら考えていたのは、今日何度か襲われた奇妙な感覚についてだ。
「第六感ってやつかな」
裕輝はスマホを取り出すと検索サイトに“第六感”と打ち込んだ。するとオカルティックな検索結果がずらずらと表示された。
「類義語、勘・インスピレーション・霊感……ESP? 何だこれ? 超能力の一種……」
若根裕輝は第六感に関するどうでもいい知識を吸収するのに夢中になった。イヤホンを耳にしてスマホを食い入るように見ながら歩いている。典型的な歩きスマホだ。
おかげで前から近づいてくる男の存在に気がつかなかった。そのまま裕輝はその男にぶつかってしまう。
「あ、すみませ……」
「動くな」
「は?」
裕輝は正面の男を見た。三十代半ばと思しきスーツ姿の普通の男性だ。ただ一つ普通とは言えない箇所がある。右手だ。正確には右手に握られた不気味に光るナイフだ。それを左手に持つカバンと身体で隠しながら刃を裕輝に向けている。
「……え」
突然のことに驚いた裕輝は声を上げるのも忘れてナイフを見ていた。人間本当に驚いた時には声も出ないのだと学んだ。
「そのまま振り向いて、俺の指示通りに動け。騒いだら殺す」
耳元でそう囁かれた裕輝は首肯して、男の指示通りに人気のない方へと歩いていく。そして雑居ビルの間にある狭い路地に入ったところで足を止めた。
ここが僕の死に場所か、と諦めるには早かった。何とかして活路を見出さんと裕輝の頭はかつてないほどの回転を見せていた。どうにかしてこの死地を切り抜けねば、こんな場所で殺される意味も分からぬまま死ぬのは御免だと本能が訴えていた。
「すみません……質問してもいいですか?」
男は数秒の間をおいて「何だ?」と口を開いた。背中に押し付けられているナイフに力が入るのがわかった。裕輝は零れそうになる悲鳴を噛み殺しながら問いかけた。
「その、僕はなぜあなたにナイフを向けられているのでしょう」
「決まっている。お前は『飼い犬』だろう?」
飼い犬? 彼の目には僕が犬に映っているのだろうか。どうしよう、意味がわからない。もしや頭が火星に吹っ飛んでいる類の人だろうか。だとしたら交渉なんて無理だろう。
今日一日ツイていたのに終わりがこれでは全て帳消しだ。よく幸運の後には不幸が訪れるという幸福量保存の法則がまことしやかに囁かれているが、これはその法則からも外れている。明らかに不幸の方が大きすぎると、裕輝は涙目になった。
打開策の思いつかない裕輝はとりあえず「飼い犬?」と聞き返してみた。
「とぼけているのか? お前が『天使の飼い犬』だということはその『光』を見れば一目瞭然だ」
「……」
裕輝は何も言えなかった。「天使」も「飼い犬」も「光」も言葉は知っているが、男がどういう意味で使っているのか皆目見当もつかないからだ。今の言葉から推測できるのは男が悪質な宗教関係者か何かだろうか、というものでおよそ事態を打開するには至らない。
裕輝は八方塞がりな状況に天を仰いだ。
すると後ろから突然伸びてきた男の手が裕輝の口に当てられた。口の中に錠剤ほどの大きさの何かが滑り込んできた。突然のことに驚いた裕輝は男が「飲め」というが早いか何だかわからないそれを飲み込んでしまっていた。咳き込んだが時すでに遅し。飲み込んだ何かが出てくることはなかった。
すると不思議なことに男はナイフを折りたたんでポケットにしまった。裕輝はこれ幸いと振り向いて男と距離をとった。逃げ出さなかったのは飲み込んだものが何かわからなかったからだ。その正体を突き止めておかないと後で詰む恐れがある。
男は余裕の笑みを浮かべたままポケットから鍵を取り出した。
「ナイフは趣味じゃないんでな。コレでお前を殺してやる」
「鍵?」
あまりにも突拍子もない宣言に裕輝は面食らったが、男はその方法を説明し始めた。
「これはお前が今飲み込んだものだ」
裕輝は吐き気を覚えた。誰が好き好んで誰ともわからない人間が触った鍵を飲み込まなければならないのか。しかし、それは今さしたる問題ではない。妙なのは裕輝が飲み込んだ鍵が錠剤程度の大きさであったということだ。男が手に持つそれとは大きさがまるで違う。そもそもどのようにして鍵で人を殺すのか。それらの疑問は全て男が手に持つ鍵が払拭してくれた。男の手の中で鍵がみるみると小さくなっていったのだ。錠剤程度の大きさまで。
思わず裕輝は「おお!」と感嘆の声を上げていた。
男は得意げな顔をしてポケットからもう一つ別の鍵を取り出した。今度は鍵がみるみると大きくなる。遂にはちょうどよく振り回せる木刀ほどの大きさになった。
「これが俺の『権能』だ」
そう言って男は大きくなった鍵を放り投げた。ガシャンという大きな音とともに鍵は捨てられているゴミ袋を押しつぶした。
「もし逃げ出したら、さっき飲み込んだものが腹を突き破って出てくるぞ」
裕輝は悟った。自分がこの男から逃げ出すことは不可能だということを。彼の脳内では家族と過ごした楽しい日々が走馬灯のように廻っていた。さながら人が死ぬ間際に見るというそれのように。「ああ、こんなことならもっと自由にやりたいことをやればよかった」なんて後悔も後の祭り。彼にはそんな猶予は残されていないのだから。
「さて」
男が裕輝の方へ歩いてくる。すぐにでも殺されると思った裕輝は「ここまでか」と全てを諦めた。
「お前には聞きたいことが——
男が何かを言いかけたがそれを裕輝が聞き終えることはなかった。
男が爆発したのだ。比喩表現ではなく、文字通り男の身体が大きな爆発音とともに燃え上がった。
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