第11話 ひと時の宝物

 ――バフォォォォォォン



 やっぱり夜の海は……怖いな。


 水上バイクは非常に不安定な乗り物で、一度小さな波に乗り上げれば、転覆てんぷくこそ免れたとしても、簡単に操縦者が落水してしまう。


 しかも、小型船舶は夜間航行禁止。


 元々、まともな照明ライトすら装備されていないんだ。



「ダニエラさん、大丈夫? ちゃんと捕まっててね」 



「はいっ」



 僕の耳元で発せられた、彼女の何気ない一言。


 その瞬間、僕は体中の血液が全て沸騰し、耳鼻から一気に噴き出すのでは無いかと思ってしまう。


 今彼女の左手は僕の腰へ、そして右手は大ぶりの懐中電灯を抱え、水上バイクの前方を照らしてくれている。



 ついさっき、ケンちゃんのスマホに入った電話。


 それは、ケンちゃんの彼女である早紀ちゃん達の乗ったボートが転覆した、という知らせだったんだ。


 どうやら全員三人とも無事ではある様で、今は転覆してしまったボートにしがみ付いて助けを待っているらしい。


 始めは僕とケンちゃんが助けに行くはずだったんだけど、ダニエラさんが『私が参ります』って、言ってくれたのさ。


 ケンちゃんは、かなりお酒が入っていたし、それに、聞けばダニエラさんったらライフセーバーの資格まで持ってるそうなんだよ。


 これは心強い。


 それを聞いてさすがのケンちゃんも、『お願いしますっ! 早紀を助けてやって下さい』って言ってたっけ。


 今日は風も弱く、波も穏やか。


 釣り用のイカダからマリーナまでは少し遠いけど、逆に漁港近くにある防波堤付近の砂浜であれば、さほどの距離は無いはず。


 女性でも十分、ボートで行ける距離なのだけど。



「吉田さん、すみません。もう少し沖の方へ行ってみましょう。先程のお話しですと、もっと沖の方へ流されている様に思われます」



「あっ、あぁ、分かった」



 僕はダニエラさんに言われるがまま、沖合の方へとハンドルを切ったんだ。



「吉田さん」



「はっ、はいっ!」



 もう一度彼女に呼び掛けられ、僕は何かミスをしたのでは無いかと、思わず全身の筋肉を硬直させてしまう。



「吉田さん、小型船舶は夜間航行禁止のはずですが、この後どうやって帰るつもりだったのですか?」



「え? あっ、あぁ。実はケンちゃんのお父さんが漁師さんでね。あの釣り用のイカダもケンちゃん家の持ち物なんだよ。それで、帰りは花火大会が終わった頃に、ケンちゃん家の漁船が迎えに来てくれる事になってたんだ」



「な~るほど。常識人と思われる吉田さんが、小型船舶の夜間航行などと言う違法行為を黙認するとは考えられませんでしたので、もしや、わたくしたちは、このままイカダの上で朝を迎える事になるのかと考えておりました」



「いやいや、ダニエラさん。流石にそれは無いよ。だって、女の子達もいるしね。昔は男子ばかりで夜釣りとかもやった事はあるけどね」



 あはは。ダニエラさんって、変わった事を心配するんだな。



「それを聞いて安心いたしました。私たち女子供おんなこどもが自力でりくへと帰れないのを良い事に、てっきり、吉田さんを含む男性諸氏が結託けったくし、乱暴狼藉らんぼうろうぜき酒池肉林しゅちにくりんたくらんでおられるのではないかと……」



「なっ!!」



「いえいえ、私も未成年ではございますが、子供ではございません。殿方に迫られた際、どのように振る舞うべきかなど、十分承知しているつもりでございます。いささか、私のを迎える場所が、この様な所になろうとは思いもよらず、少しも心残りが無いのか? と問われれば、それは「否」と答えねばなりません。いえいえ、私がどのような事になろうとも構いません。吉田さんのご要望であれば、出来うる限りお応えさせて頂く所存では御座いました。ただ、慶太坊っちゃんや、アルちゃんはまだ子供。ここは一つ、吉田さんのご温情にすがる事で、なんとか子供達だけでも見逃しては頂けないか? と、考えていた次第で御座います」



 こっ、この娘、突然なにを言い出すのっ!?



「だっ、ダニエラさん! いつ僕がそんな事をっ!」



 思わず僕は振り向き様に、大声を上げてしまったのさ。


 するとそこには、にっこりと微笑む彼女の顔が。



「ふふっ、冗談ジョークでございます」



「……え?」


 

「余りにも緊張されているご様子でしたので、少々場を和ませる為、大人の冗談ジョークを交えてみました。いかがでしょうか?」



 いっ、如何いかがも何も無いよっ!


 そんな冷淡な声で大人の冗談ジョークを言われても、全く笑えないよっ!



「はて? お気に召しませんでしたか?」



 そっと、僕の顔を覗き込んでくる彼女。



「いっ、いやぁ。お気に召すも何も……」



「あぁ、吉田さん。運転する時はちゃんと前方を見て下さい。緊急事態とは言え、夜間航行は違法の上に非常に危険です。この時間、他の船舶はいないにせよ、どの様な障害物が浮遊しているかわかりませんので」



「いやいや、君が突然ビックリする様な事を言うものだからさぁ」



「はいはい。前前っ、前を向いて下さい」



 言い訳がましく言い募る僕を、事も無げに軽くあしらうダニエラさん。


 もう、どっちが年上なんだか、分らないよ。


 ん?


 そう言えば、ダニエラさんて、一体いくつぐらいなんだろう。


 素朴な疑問が頭をよぎる。



「ねぇ、ダニエラさん」



「はい、何でしょう」



「あのぉ、ダニエラさんって、おいくつなんですか?」



「……」



 急に黙り込むダニエラさん。



 ……はうっ!


 そう聞いてしまった後で、ようやく自分のしでかしたあやまちに気付く僕。


 もうその頃には、全身が急激な血圧の低下に見舞われ、言い様の無い悪寒に僕はさいなまれはじめていたのさ。



 あぁ、やばい! やばいっ! 失敗したっ!


 女性に歳を聞くなんてっ! 


 なんて、馬鹿なんだ僕はっ!


 ちょっとダニエラさんが冗談を言ってくれたもんだから、ついつい、調子に乗ってしまったっ!


 本当にごめんなさい。


 僕が野暮でしたっ! 大馬鹿野郎でしたっ!


 あぁぁ、時間を戻したいっ、めっちゃ時間を戻したいっ!


 そんな僕の想いを知ってか知らずか。


 待てど暮らせど、一言も発しないダニエラさん。


 すると、いままで僕の腰に回されていた手がそっと外されたんだ。



 うわっちゃー。ダニエラさん、怒ってる。多分、めっちゃ怒ってる。どうしよう、どうしよう。



 ――ポンポン。



 突然、誰かが僕の肩を叩いたよ。


 誰?


 うわぁぁん、そんなもん、後ろにはダニエラさんしか居ないんだから、ダニエラさんに決まってるよ。そんなの、彼女に決まってるじゃんっ!


 分かり切った当たり前の事を千回ぐらい頭の中で反芻はんすうした後、僕は人生を捨てた廃人の様な顔つきで、再び後ろへとゆっくり振り返ったんだ。



 ――ムニュ。



「あがっ?」



 僕の頬に突き刺さる人差し指。



「ふふっ、肩を叩かれて振り向く際は、十分注意しないといけませんね。それから他人に物を訊ねる際は、まず自分から話すのが礼儀かと思いますよ。まぁ、これまで色々ご配慮いただきました吉田さんです。今更その様な片ぐるしい事を申し上げるのもいかがかとは思われ、かつ、先程は大人の冗談ジョークがあまりお気に召さなかったご様子ではございましたので、今回はこの様な子供のを選択させて頂きました。如何でございましょう? 緊張はほぐれましたか? ちなみに私は高校三年生でございます。吉田さんは大学生ぐらいのお歳であるとお見受け致しますが、本当はおいくつなのですか?」



「ぐっ、ぐゅぅぅく、れふ」



 僕はほっぺにダニエラさんの人差し指が突き刺さったままの状態で、そう答えたんだ。



「あぁ、十九歳なんですね」



 ……良く分かったな。言ってる本人すら聞き取れなかったのに。



「と言う事は、達と同じ大学なんですか?」



 ようやくここでダニエラさんは僕のほっぺから人差し指を退けてくれたんだ。


 でも……なんだかちょっと残念。



「あぁ、いや。僕、海外の大学に進もうと思って、色々とバイトしながらお金を貯めてるんだ。えへへ。実は、もうじき最終面接なんだけどね。かなり学費も高くてさ。あちこち奨学金とか申請してはいるんだけど、なかなかねぇ」



「ははぁ、そうでございますか。そのお話しは、また後で十分お聞きいたしましょう」



「あぁ、ごめんね。変な話ししちゃって、こんな話、全然面白く無いよね」



 あぁ、僕、なに話してるんだろ。 なんで年下の女の子にこんな話ししちゃうかなぁ。



「いえいえ、そうではございません。それよりも、早紀さん達を発見致しました」



「ええっ!」



 急いで前方を見てみると、月明かりに照らされた水平線の彼方から、何かがこちらの方へと近づいて来てるじゃ無いか。



「魚……か?」



 いや違う。


 魚があんな動きをする訳が無い。イルカか何か。そう、あれは哺乳類ほにゅうるいの動きだ。


 それは、時折海上へと飛び出すと、放物線を描いてまた海の中へと帰って行く。


 泳いでいる、と言うよりは、楽しく飛び跳ねて遊んでいる、と言った印象だ。


 やがて近付くにつれ、その朧気おぼろげであったシルエットが、確かなものへと変わって行ったんだ。



「人?……いっ、いや、人魚かっ!」



 いやマジかっ!


 この時に、人魚発見しちゃったよっ。


 こんなビーチの近くで、人魚発見するなんて、どういう事だよっ!


 どうする、どうする!? 捕まえる? 捕まえる?!



 ――ザパァァン



 ひと際高く、空へと飛び上がる人魚。


 うぅぅわぁぁ、シルエットだから良く見えなかったけど、めっちゃ。めっちゃだわぁぁ。


 やっぱり、人魚って、すんごいプロポーションなんだねぇ。


 長い髪に、豊満なボディ。くびれた腰つきに、スラリとのびた足。



 ……ん? 足?



 人魚って、足、あったっけ?



「アルちゃん! 遊んでないで、早く見つけた所に連れてって!」



「はーい!」



「にっ、人魚がしゃべった!」



「人魚?」



 背後からダニエラさんの不思議そうな声が聞こえる。



「吉田さん、あれは人魚ではありませんよ。あれは、ウチのアルちゃんです。彼女、水泳が得意なので、先にボートを追い越して、探しに行ってもらってたんですよ」



 えぇぇぇ? マジか? 水上バイクより早いって、どう言う事?


 まぁ確かに夜間走行だと、水上バイクってあんまりスピード出せないからなぁ。


 って言うか、あれ、完全に人魚でしょ? もう、完全に人では無いでしょ?



「ぷはぁ、ダニちゃん、もうちょっと先の所で見つけたがよぉ」



 水上バイクの横合いとなる海面から、突然顔を出す中学生ぐらいの少女。


 栗色の髪に碧眼。しかも、しっかりなまってる。


 確かに、さっきダニエラさんの隣にいた少女に間違いない。



「それじゃあ吉田さん、アルちゃんの後をゆっくりと付いて行ってください。私はにお電話致しますので」



「あぁ、わかった!」



 そのまま彼女アルちゃんの後をゆっくり付いて行くと、確かに裏返ったボートの縁に掴まる、三人の人影が見えてきたんだ。



「早紀さんっ! 助けに来ましたっ! 大丈夫ですか!」



「あぁぁん、コーヘー、早く助けてぇぇぇ! 死ぬぅぅ、もう、死んじゃうぅぅ!」



 泣きながらそう叫ぶ早紀さん。


 まぁ、ここまで元気があれば問題無いか。



「コーヘー、ありがとー。さっきはごめんねー。でもね、でもね。ケンちゃんがさぁ、あんまりあのを可愛い、可愛いって繰り返し言うもんだからさぁ、そりゃあ菩薩様のようなアタシだって、癇癪かんしゃくの一つも起こしたくなるってぇ。それから、アタシは大丈夫だから、他の二人を早く助けてあげ……あぁぁぁあ!」



 早紀さんたら、僕の後ろに乗ってるダニエラさんを見つけて、突然の絶叫!



「あんたっ! アンタの所為だからねっ! アンタがあんまり可愛いから、アタシがケンちゃんに叱られるし、友達がゲロ吐くし、それを介抱してたらバランス崩して、海に落ちるしっ! ぜんぶ、ぜーんぶ可愛いアンタの所為なんだからねっ!」



 うぅぅぅん、早紀さん。


 言ってる事は分るけど、ダニエラさんをけなしてんのか、褒めてんのか、どっちかにした方が良いと思うよ。



「早紀さん、何となくではございますが、お気持ち理解致しました。また、今回の件、私の所為である事も十分承知しております。ただ、あえて申し上げれば、お友達のについては、私との因果関係はかなり希薄であると言わざるを得ません。まぁ、その部分は許容範囲ではございますので、一旦置いておきましょう。と言う事で、改めて罪滅ぼしの気持ちも込めまして、今から早速救助を開始させて頂きます。何卒ご了承くださいます様、お願い申し上げます」



 水上バイクの上で、ペコリと頭を下げるダニエラさん。



「では失礼して……」



 そこからダニエラさんの対応は早かった……


 と言うのも、救助活動の実際の現場を僕は見ていないのさ。


 なにしろダニエラさんから、最初にこう言われたんだよ。



「これから私は助けに赴きますが、吉田さんには暫く向こうを向いていて頂けないでしょうか? と言うのも、私、現在浴衣を着用しておりまして、このまま海の中に入ると言うのは、いささか問題がございます。その為、一旦ここで浴衣を脱がせて頂こうと考えている次第です。もちろん、浴衣の下には下着などは着用しておりません。いくら暗がりとは言え、全裸の状態をおいそれとお見せする訳にも行かず……。と言う事で、吉田さんには、私が『良し』と言うまで、こちらを見ないで頂ければと思う次第でございます」



「あっ、あぁ、分かったよ」



「あぁ、ちなみに……」



「ちっ、ちなみに?」



「ちなみに、もし、万が一にも吉田さんと私の目が合う様な事があれば、恐らく明日の朝刊に『某浪人生、人命救助の際に誤って死亡』と言う記事が小さく載る事になるでしょう。しかも、何故だかは分りかねますが、その浪人生の両目は何者かによってえぐり取られていたと書かれるかもしれません。警察は事件、事故の両面で捜査を行うでしょうが、何しろ人命救助の際の不慮の事故。目撃者も多数居る訳でございますので、恐らくそれ以上の追求は無いでしょう。まぁ、何にせよ、若干十九歳で人生の幕を閉じる事の無い様、吉田さんには振り向かないと言う選択が最善であるかと愚考致します」



「そっ……そうですか……」



 こっ、この、突然何を言い出すの?


 これって、殺人予告だよね。


 しかも彼女、全然笑って無いんだよ。これ、冗談だよね。ねぇ、冗談だって、誰か言って!


 その後、僕の肩越しに伸びる白い腕。



「暫く、預かって下さいね」



 そう言って手渡されたのは、彼女がたった今まで来ていた風鈴柄の青い浴衣。


 まだほんのりと彼女の温もりが感じられる。


 はうはうはう!


 どうしよう。これ、どうしよう!


 ちょっと……ちょっとだけなら、嗅いでも良いかな。



 ――クンクン



 あぁぁ、って言うか、もう香りが立ち昇って来たよ。鼻を近づけなくても、香りの方からご丁寧にやって来てくれたよっ。


 だって、それは僕の手の中にあるんだもの。


 ほっかりしたヤツが、この手の中にあるんだものぉ。


 そりゃあ、香りも立ち昇って来るってもんだよね。


 うわぁぁ、めっちゃ良い香り、めちゃめちゃ良い香りっ!



 ――クンカクンカ



「あら? 風邪ですか? 鼻を鳴らしたりなんかして?」



「えっ?」



 またもや肩越しから伸びる白い腕。


 その腕は、容赦なく僕のを奪い去って行く。



「あっ、あぁぁぁ……」



 どうやら、僕が妄想の海へと漕ぎ出しているウチに、すっかり救助が終わってたみたいだ。

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