㉙【人の散髪を笑うな】
わが身には悲劇、他人には喜劇。
まぁよくある話ではある。
今回の悲劇の主人公は小森君。
結婚したばかりのあたしの旦那である。
〇
まずは順番を追って話していこう。
その時のあたしはちょっとお金に困っていた。
イケメンゲームのイベントが複数進行しており、ちょっと課金をするために、3千円のアイチューンカードが一枚、どうしても必要だったのだ。
だが、どうやりくりしても今月の小遣いでは足りなかった。
プラスアルファの臨時収入がどうしても必要だった。
たとえ二次元でもただのデータでも、イケメンを育てるにはとにかくお金がかかるものなのだ。
それは古今東西、いつの時代でも変わらぬ真実だと思う。
これには賛同してくれる女性・女子も多いと思う。
と、途方に暮れていた時、目の前に小森君がいた。
〇
ちなみに小森君、二次元にはもちろんかなわないが、それなりに整った顔をしている。背が低いことがコンプレックスなのだが、それを除けばなかなかの男っぷりだと思う。
そして今日は日曜日。
彼は盛大に寝癖をつけたぼさぼさ頭でコーヒーを飲んでいた。
「そういえば小森君、髪のびたね」
「ん? ああ、そういえばずいぶん切ってないかも。そろそろ床屋にいってくるかな、日曜日だし」
キラーン! これはいい流れかも。
「そういえばさ、小森君って床屋さんいくらぐらいかかるの?」
「五千円。なんか高いよねぇ。でも昔からお世話になってるから変えられなくて」
〇
ふむふむ。これはいい流れではないだろうか?
なんというか需要と供給がカチッと一致した音が聞こえた。
「ねぇ、あたしが切ってあげよっか?」
「え? 三奈ちゃん散髪もできるんだ!」
実にうれしそうに小森君。なんかすごく感動している。
たぶんそれ、妄信だと思うんだけどね。
「たぶんね。お母さん、ずっとお父さんの髪切ってたからね」
「知らなかった、北乃さんそうだったんだ、てっきり床屋さんで切ってると思ってたよ」
「うまいんだから。あたしもずっとそばで見てきたから切り方はわかってるよ」
「それなら安心だね。ぜひお願いするよ、いや、お願いしますっ!」
〇
この信者っぷりにいろいろと不安になってしまうが、今回はいい方に解釈するとしよう。つまりはあたしに全幅の信頼を置いているということだ。
それより価格交渉だ。ここはきっちり臨時収入を稼ぎたいし。
「ならさ三千円でどう?」
「それじゃ申し訳ないよ、ちゃんと五千円払うよ」
さすが小森君。あたしの旦那さんだけのことはある。
だが逆に値段を吊り上げられたことでプレッシャーが生まれてしまった。
これはちゃんと取り組まねばならなくなった。
お金をもらう以上は、例え『にわか』でも『素人』でも『初心者』でも、プロとしてきっちりと仕事をしなければなるまい。
〇
そんなわけで庭にブルーシートを広げ、そこに椅子を置き、肩掛けを『てるてる坊主』のように巻いた小森君が座った。
あたしは母さんから散髪で使う櫛、ハサミ、電気バリカンを借りてきた。
(さて。どうやってたっけ?)
ここにきて、つまり櫛とハサミを両手に持った時点で、あたしはあんまり覚えていないことに気づいた。
『そばで見てきた』とは言ったが、どうやらまったく見ていなかったことに気が付く。
なんも思い出せない。というか母さんが切っている間は、なんかいつも違うことして遊んでいた気がする。
本読んだりとか、ゲームしてたりとか。
人の散髪って特に興味がなかったし、退屈なだけだった。
そうだった、そうだった。なにも見てなかった。
だがそれを今さら思い出しても仕方がない。
〇
「なんかリクエストとかある?」
リクエストがあったとして応えられるとは思えなかったが、気分を変えたくて一応聞いてみた。
「なんもない。お任せでいいよ」
この答えは予想していたが、ホッと胸をなでおろす。
よし。確かに言質はとった。
完全にあたしに任せると明言した。明言した以上は、一切の文句は受け付けないし、相手もそれに同意したということだ。
だがそれは逆の意味でプレッシャーでもある。
いよいよ、ちゃんと切らないといけなくなった。
やばい。
〇
「じゃ、じゃあ、切りますね!」
なんか緊張してきたらしい。言葉遣いがおかしくなっている。
えっと、まずはどこから切るんだっけ?
うーん、思い出せ、思い出せ……思い出せん。
たぶん、後頭部かな? それとも前髪? いや、サイド?
どこを切って調整していくんだろう?
考えろ考えろ考えろ……思いつかん。
どうしようどうしようどうしよう?
いや、考えるな! ヨーダさんも言ってたじゃない!
感じるのよ、なにも考えないで、感じるままに切ればいいのよ!
どうせ最後には全部切ることになるんだから!
ええぃ、ママよ!
〇
ジャキン。
「やば」
〇
いきなり切りすぎた。
襟足はすっぱり消失した。
かなり切った。
このペースで切っていくとえらいことになる。
かといってもう修正は効かない。
坊主にするわけにはいかないし、でもここまで切ってしまったら……
(……ツーブロック……)
神の声が聞こえた!
そう、若者の間で流行ってるアレだ!
サイドから後頭部までカリカリに刈り上げて、天辺をフワッと残すアレだ!
そうだ。ゲームでもけっこうそんな髪型してるキャラが多かった!
アレならなんとなくわかる、切れそうな気がする!
〇
「なんか『やば』っていった?」
お前の耳はデビルイヤーかっ!
いやいや、落ち着こう。
「なにも言ってないよ?」
それ以上言うな、って感じで冷静に答える。
「そ、そっか! なんか変なふうに聞こえちゃったみたいだ」
「大丈夫よ。ちゃんと似合うように切ってあげるから」
そう。最終的に似合うように切ればいいのだ。
それだけの話だ。
〇
よし。バリカンスイッチオン。
ちょっと襟足からスッと刈り上げてみる。
なんだ! ハサミより簡単じゃん!
そういえば母さん、アタッチメントをつけてやっていた。
うんうん。これなら一定の長さで切れるじゃん!
超簡単じゃん!
なんだ最初からこうればよかったんじゃん!
こうなれば後は楽勝だった。
ジージーっと心地のいいモーターの振動音。
襟足から後頭部にかけて、下から上に、ジージーっと刈り上げていく。
〇
よし。ここまではよし。
我ながらいい出来。
というか初めてとは思えない完璧な出来だった。
ちょっと撫でてみると、ジョリッという感触が気持ちよかった。
後ろもサイドもきっちり同じように切れた。というか剃れた。
あとは前髪と頭頂部を適当に同じ長さにしてやればいい。
しかし悲劇はこの後起こる。
〇
それは前髪に手を付けた時のこと。
確かに軽い気持ちになっていたのは認めよう。
これまでの重責から解放されて、ちょっとテンションも軽くなっていた。
ジョキ。
ちょっと切りすぎたみたい。
しかも斜め。
でも大丈夫。
まだ挽回可能。
ジョキ。
またちょっと斜めだった。
右と左のバランスをとるのは結構難しいようだ。
ジョキ。
うーん、まだ少し斜めな気がする。
どうやらあたしは平衡感覚が少しおかしいのかもしれない。
ジョキ。
おしい。
まだ完璧な平衡とはいかない。
それとも小森君の眉が並行ではなかったのだろうか?
ジョキ。
やっぱり納得いかない。
小森君の眉はやっぱり平行じゃない気がする。
ジョキン。
やった。ついに完璧な平行で切れた。
切れたけど……
(……バンカイフカノウ……)
神様がそっと囁いた。
〇
笑っちゃダメ笑っちゃダメ笑っちゃダメだ!
前髪がなかった。
なんだろう、何に例えればいいんだろう?
フランケンシュタイン? まことちゃん? ロナウド? 大五郎?
だめだ。前髪がないだけなのに。
笑っちゃダメ笑っちゃダメ笑っちゃダメだ!
「三奈ちゃんどうかしたの?」
やめて。前髪のないその顔で話しかけないで!
そのおでこを光らせるのやめて!
「ん? な、なんでもないよ?」
笑っちゃダメ笑っちゃダメ笑っちゃダメだ!
ああ、小森君のいい顔が台無し。
しかも笑える顔になるなんて!
前髪がないだけなのに。
〇
「なんか笑ってない?」
また真面目そうな顔で、前髪がないのにそんなこと言わないでぇぇぇ!
やめてやめてやめて、こっち見ないで! てか、見んな!
前髪が、おでこが、なんでそんなに主張するのよ!
ああ、目が離せなくなってる! つい見ちゃう! てかそれしか見えない!
「わ、笑ってないよ」
「なんか失敗してない?」
「してない、してない」
笑っちゃダメ笑っちゃダメ笑っちゃダメだ!
そんな顔でこっち見ないで!
もう気がおかしくなりそう!
〇
「なんかおでこがスースーする気が……」
そう言いかけたところで一陣の風が吹き、小森君のあるかなきかの前髪を揺らしたとき、あたしの我慢は限界に達した。
(……もうヤルしかないデス……)
神様もそう言ってる!
もうこれ以上は無理!
(……バリカンで全て剃りまショウ……)
あたしはハサミを捨て、バリカンを手に取り、一気に前髪から頭頂部まで一直線に刈り上げた。
もう後戻りはできない!
ここは地獄への一方通行。
そのまま頭頂部を刈り込み、残していた髪をすべて刈り上げた。
〇
出来上がったのはただの坊主頭だった。
最初から悩む必要のないシンプルな髪形。
もはや風のいたずらに前髪がなびくこともない。
笑いの嵐も過ぎ去った。
こうしてあたしの戦いは終わった。
「小森君、やっぱりお金は要らない。とれないよ、夫婦だもん」
「三奈ちゃん……」
〇
もちろん真面目にやっていたことはわかっていただけたと思う。
ただただ小森君には悲劇。
あたしには喜劇だっただけなのである。
おしまい
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