⑯【おうち時間とかいしゃ時間】

『ウィルスが人の世界をガラリ変えた』


 まるでSF映画みたいなキャッチだけど、これは現実の話。

 2020年から2021年にかけて人類に襲いかかったあのウィルスの話だ。


 あれから世界はずいぶんと変わったが、当初の混乱は忘れようもない。


 といってもまぁ、大きな話ではない。

 本当に小さなエピソードだ。

 それをこれから披露しようと思う。


   〇


 ついでに言うとわざわざその小さなエピソードを披露しようと思ったのにはワケがある。


 結論から言うと『どんな時でも感謝の気持ちを持ちましょうね』ということを言いたいのだ。


 それが分かっているなら、この先は読まなくて結構。


 何を言ってるんだ? と思ったなら続きをどうぞ。


   〇


 さて、悪夢の始まりは『リモートワーク』だった。


 ウィルスの感染予防のためにと始まった在宅勤務。

 インターネットを使ったハイテク時代ならではの勤務形態。


 それが『リモートワーク』である。

 ネットを使った『ネットワーク』ではなく、電話を使用する『テレワーク』ともいう。

 まぁ固定電話でなく携帯電話『スマホ』を使うので『スマホワーク』と呼びたいくらいだが。


 そして業種に関わらず、会社のヒエラルキーに関わらず、ほとんどの社員が『テレワーク』で働くようになった。


   〇


 たしかに良い点は多い。

 なにより感染のリスクを減らせる。

 通勤時間がなくなり、会社も定期代を圧縮できた。

 自分の部屋がオフィスになって快適に過ごせて、会社はオフィスを縮小することができた。


 はやりのWIN-WINという奴だった。

 みんなが喜ぶいい制度というわけだ。


 だが私はその波には乗れなかった。


   〇


 私の朝はいつも通り。


 通勤電車に2時間あまりも揺られてオフィスに向かう。

 以前は30分の距離だったのだが、オフィスが都心を離れて郊外に移動したせいだった。

 たしかに家賃は安そうだった。

 周りは田んぼと畑ばかりだった。


 それから事務所を掃除し、全社員10名のパソコンを起動する。


 もう朝礼はない。

 ちょっとインスタントコーヒーを飲んで一息つくと電話が鳴りだす。


   ○


「あー、北乃さん、おはようございます。営業の奥森っス」

「おはよう、奥森君。ずいぶん早いね」

「実はカタログを大至急送ってほしいんですよ」

「なんだっけ? ピーデーエフで送ってなかった?」

「それが紙じゃなきゃだけなんですって。ということでナルハヤでお願いしゃっス。宛先はメールで送っときます」


   ○


 配送係じゃないんだけどねぇ、と思いつつもまぁ仕方ない。

 分厚いカタログを引っ張り出して、梱包して……


 と、また電話だ。


   ○


「良かった! 北乃さん、お願いがあるんです!」

「えっと……」

「広報の黒須ですよ。北乃さん、ズーム開いてくださいよ」

「ごめんね黒須さん、どうもアレ出来なくてさ」


 ホントは出来る。

 でもそれやると、一斉に頼み事されるの分かってるからね。


「……まぁいいです。実はプレス向けの原稿をファックスして欲しくて」

「難しいのはできないよ?」

「簡単です。今、そちらに原稿データ送りますから、吐き出して一斉送信かけてください」


 なんでそれパソコンで出来ないの?

 とは思うが、それをいうと面倒なので黙っとく。


   ○


 と、向かった先でちょうどファックスが流れてきた。

 中身を見ると注文票。


 もちろん私以外は無人のオフィス。

 私がいなければ誰も対応できなかっただろう。

 しかも大口の注文。


「やれやれ、在庫はあったかな?」

 すっかり慣れた独り言をつぶやきながら、となりの資材部屋へ。

 この数じゃかなりの時間がとられそうだ。


   ○


 そんなこんなで私はみんなのリモート操作に従って働く。

 

 そう。

 リモートワークの本質とは、別の社員を自宅から遠隔操作することなのだ。

 操作する側とされる側。

 

 しかもなぜだか操作する方が偉いと思われている。

 汗水流しているのはこっちなのに。


   ○


 それでも定時になると仕事依頼は来なくなる。

 もうみんなが定時でパソコンを切っちゃうからだ。


 でも私の仕事、というか頼まれた仕事はまだ終わってない。


   ○


「ああ、奥森君?」

「あ、北乃さんっスか。もう定時過ぎてますけど」

「時間外にすまないんだけどカタログの宛先がまだ来てないんだよね」

「え? すんません。うっかりしてました。すぐ送ります」

「ナルハヤでね」


   ○


「黒須さん?」

「ああ、北乃さん。なんです? なんかトラブルですか?」

「いや、そうじゃないんだけど、一斉送信、一つだけ送信不能でね」

「あ。忘れてました。番号変わったとこあったんですよ。変更してもらえますかね」


 そういう彼女の背後では子供たちの楽しそうな声が聞こえる。

 もう家族団らんの時間なのだろう。


   ○

 

 そういえばすっかり陽も暮れている。

 もう帰りたいなぁ。

 とは思ったけれど、仕事を途中で放り出すのはどうにもできないのだ。


   ○


 と。


「……北乃さん、いつもありがとうございます、なんか無理ばっかり言ってすいません」


 黒須さんからそんな言葉が出てくる。


「いいって、それが私の仕事だからね」


「でも北乃さん、本当はいろいろ大変でしょう? 事務所勤めは一人だし、いろいろ頼まれごとして」


   ○


 まぁ大変だ。


 でも私はこういう事にはけっこう慣れてるのだ。


 そのせいだろうか、あまり苦にはならないのだ。


   ○


 それから私は二時間をかけて家に帰る。


 時刻は9時を回っている。

 

   ○


「おかえりなさい、あなた」

「おかえりなさい、かな子」


 私たちは共働きの夫婦。

 彼女は介護関係の仕事をしていて、私同様に使われる方の仕事なのだ。


「今日はあなたが作ったチャーハンが食べたいなぁ」

「いいよ、じゃあ君が皿洗いだね」

「洗濯はどうする?」

「それはキミかな。ボクは風呂を掃除する」


   ○


 まぁ生活していくのは大変なこと。


 でも二人とも魔法の言葉を知っている。


   ○


「いつもありがとう、あなた」


「こちらこそありがとう、かな子」


   ○


 それだけで大抵の苦労なんて飛んでいくものなのだ。






 終わり

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