ジャン=ジュールの鉄砲玉

猫田芳仁

ふたつの毒杯 上

 ジャン=ジュール・ボワモルティエは、鉄砲玉が要り様だった。


 さて、賢明なる読者諸君には最早お分かりのことと存じ上げるが、ここで言及されている鉄砲玉とは勿論ピストルの弾丸を指すのではなく、健康体で指示は聞けるがそれに疑問を持てないくらいには頭が悪く、揉め事を起こして死んでしまってもさして大ごとにはならなさそうな、そんな便利な人間のことである。

 そんな物騒なものを所望するくらいであるからして、このジャン=ジュール本人も、大層物騒な男であった。歳の頃は40の半ば、どこもかしこもがっしりと太く、面構えはあくまで獰猛である。このいでたちによく似合う性格を思い浮かべていただきたい。だいたい合っている。そうとも、そんな奴だ。ただし読者諸君の想像よりも幾許か、ジャン=ジュールは知的な男であることを申し添えておこう。

 さて、彼のご所望の品は、残念ながら市場に行って贖えるものではない。ジャン=ジュールは商人である。裏街道にも顔が利く類の。そんな彼であるからして、人間ひとりを特別のつてから買い付けることもできなくはないが、ジャン=ジュールは兎にも角にも商人である。些事にそこまで金をかけちゃあいられないと知っている。

 そんな訳で、彼は相場よりなるべく安く鉄砲玉を買い叩くべく、普段なら洟もひっかけない、小汚い酒場に足を向けたのであった。

 その判断はすべきではなかったと、はじめジャン=ジュールは思った。その安酒場は悪夢のような喧噪で溢れかえっており、彼は1歩踏み込むなり踵を返そうかと思った程である。その衝動を、目的意識でどうにかこうにか捻じ伏せて、どことなく不潔そうな椅子に仕方なく腰かけ、彼は1杯のワインを給仕に所望した。やがて席に届けられたそれは濁り、底には滓が沈んでいる。絶対に口をつけないでおこう。そう胸に誓って、ジャン=ジュールは品定めに移った。

 やはりここに来たのは間違っていたかと、ジャン=ジュールは嘆息した。確かに、鉄砲玉は程良く馬鹿が良い。しかしこの酒場には程の良くないただの馬鹿しかいないようであった。酒場であることを差っ引いても、ここの客層はいかにも野蛮だ。早々に家路に就こうか。早くもジャン=ジュールがそう決めかけたとき、その声は聞こえてきた。


「控えろよ! オレはロタン家の者だぜ!」


 内容よりも、声そのものがまずジャン=ジュールの気を惹いた。その声に訛りはなく、澄んでいて、酔っ払いの怒号にはもったいないくらいだった。自然、ジャン=ジュールは声の持ち主を目で探す。探しながら内容を思い出す。ロタン。知っているなんてものじゃない。緊急ではないのだが、近々何とかしたい問題がロタン家とジャン=ジュールの間にはある。

 声の主はすぐに見つかった。奥のテーブルに手をついて立ち上がっている。少年の面差しが色濃い、若い男で、緩く束ねた輝くばかりの金髪が目を引いた。

 ジャン=ジュールは席を立ち、金髪の酔っ払いに向かって歩き出した。青年とは正反対の意味で人目を引く容貌のジャン=ジュールに、向こうもすぐに気が付いた。眉を寄せ、熱っぽい酔眼に胡乱な色と敵意をたっぷり垂らして見返してくる。金モールで彩られた紺色のコートは、仕立てこそ確かだが、よく見るとだいぶ着古しているのが見て取れた。

 ロタン家のことは嫌というほど知っている。うだつの上がらない、下の上程度の歴史だけある家だが利用価値は十二分だ。そしてロタンを名乗るこの若輩についても、ある程度のことは知っている。ちょうどロタン家のことで頭の痛い悩みがあるジャン=ジュールは、この小倅をうまいこと使えないものかと算段し始めた。


「いま、ロタン家とおっしゃいましたか?」

「あぁ、おっしゃったぜ」


 斜に構えてロタンの若造がメンチを切る。すぐ傍で見ると、彼はいっそう子供であった。ジャン=ジュールとさして変わらないであろう長身と、丸眼鏡が歳を押し上げていただけだ。声にも幼げな甘さが残っている。

 彼と言い争っていた連中はジャン=ジュールに何か感じるものがあったのか、おとなしくなるか席を離れるかしてしまった。実に賢い選択だと言えよう。ロタンの若造だけが、度胸があるのか馬鹿なのか、単に適切な判断ができぬほど聞し召しているのか、仁王立ちでジャン=ジュールをねめつけていた。


「わたくし、ロタン家の当主様を多少存じておりますが……失礼ながら、貴方のような親戚はいらっしゃらなかったように思います」

「あぁ? オレはなぁ、ロタンの家督を継ぐかもしれねぇ男だぜ!」


 少年といっていい年頃の酔っ払いは、グラスの残りを一息に煽り、音を立ててテーブルに置いた。完全に目が据わっている。ジャン=ジュールは顎に指を当てて考え込むふりをする。少々からかってやろうという腹である。 


「はて……跡継ぎであるジョゼフ=フランソワ・ド・ロタン氏は当主様に似て、亜麻色の髪で気品のある好男子だったと記憶しております。下品で粗野な貴方とは似ても似つきませんな」

「てめぇ……」

「嗚呼、思い出しましたよ。妾腹の三男坊が金髪碧眼の長身で、アポロンもかくやという美少年、しかしいいところは見てくればかりのごくつぶしだと聞いたことがあります。貴方ですね」

「……おぉよ。オレがその、ごくつぶしの三男坊さぁ。ジョゼフの兄貴がいなきゃあロタン家の跡取りになってたはずの、な。どうだ、噂通りツラだけは綺麗だろぉ」

「ジョゼフ様がいなければ? もう1人、お兄様がいらっしゃるのでは?」

「け、ルイの兄貴なんぞほっときゃおっ死ぬさ」


 確かにロタン家の次男は病弱で、滅多に表に出てこない。ジャン=ジュールは彼のための薬を当主に都合してやったことはあれど、本人の顔は1度も見たことがない。本当に「ほっとけば死ぬ」ほど容体が悪いのか、この酔っ払いの希望的観測なのかは、今必要なことではないので置いておく。


「おおっと、何やら物騒な話になってきましたな。大声で怒鳴り立てるには向かないでしょう。店主、この店に個室はないか」


 なければないで、自分とロタンの若造以外、客を追い出してしまえばいい。それをしてなお釣りの来るほどの金が、いまジャン=ジュールの懐に入っている。幸い店には懺悔室みたいに窮屈な物置があり、そこを使うことを許された。追加料金はいらないという。親切な店である。ジャン=ジュールの名前か顔かに恐怖を覚えた可能性も、無きにしも非ずではあるが。

 部屋に入ってすぐ、ジャン=ジュールは行動に出た。少年の顔を真正面から見据えて、本題に入る。


「つまり、貴方は」ここでジャン=ジュールは声音をぐうっと落とした。「お兄様を、ジョゼフ=フランソワを亡き者にしたい……ということで、お間違いない?」

「あぁ、お間違いないぞ。それはさておきさぁ。そろそろお前の名前をオレに教えろよぉ、無礼者!」


 ご丁寧に満たしてから持って来た酒のグラスに舌を這わせ、この状況がわかっているのかいないのか、いとけない酔っ払いは不機嫌そうに目を細めた。


「わたくしも、貴方のお名前を頂戴してはおりませんよ」

「お前のせいで余計にめんどっちくなったんだしさあ。そこはお前が先だろぉ。オレ、店に戻ったらきっと質問攻めだぜ! 嗚呼、厭だなぁ」


 ロタンの若造は、得体の知れぬ透明な酒を、舌先で舐め取るようにちびちび呑んだ。この所作、この薄暗い部屋、自称するだけはある美貌。たとえ少年と知っていても、変な気を起こす奴が出そうだ。幸か不幸か我らがジャン=ジュールには、分不相応に酔っぱらったクソガキの醜態としか見えていないのだが。

 そのクソガキに寛大な対応をしてやるのも、大人の務め……というのは建前で、なるべく多くのネタを引っ張るための、撒き餌のつもりでジャン=ジュールは素直に名乗った。


「……わたくしはジャン。ジャン=ジュールと申します。普段はしがない商人をやっております」

「普段は、ね……。気軽に家名を出さないのも用心ってやつかい? オレはどうせ全部ばれているとは思うけど、ジャン=シャルル・ド・ロタン。……うん? なんて偶然だ、オレもお前も”ジャン”から始まる名前じゃあないか!」


 酔っ払いの無遠慮さと幼さゆえの怖いもの知らずでもって、偶然の一致を天啓の如く振りかざし、ジャン=シャルルはジャン=ジュールにずずいと詰め寄った。酔いで潤んだ瞳がジャン=ジュールを無遠慮に眺めまわす。


「なぁ、ジャン」

「……はい」

「オレのこともジャンって呼べよ」

「はぁ」

「お前がやらなくても、オレはお前のことジャンって呼ぶからな。なんかそういうの……恰好いいと思わねぇ?」

「わたくしにはそれがわかりかねます、ジャン」

「お! いいねぇ!」


 少年よりは少女の屈託なさで、ジャン=シャルルはぴょんと跳んだ。グラスの中身を零さぬ小器用さでもって。ひとしきり飛び跳ね終えるとその碧い瞳はジャン=ジュールを捕まえるように見据えた。酔眼でなおこのありさまなのだから、素面であれば殆どの人々がこの眼に見つめられたがることだろう。彼が口を開かない限りは。


「それで、無礼者のジャン。随分物騒な話にしてくれたけども、なんだってそう首を突っ込む? ウチみたいな古いだけの家、当主と懇ろになってもまるで旨み、ないぜぇ」

「それがですね、クソガキのジャン。子供の貴方には知る由もないでしょうが、わたくし、ジャンのお父様には懇意にしていただいております」

「……ははン。なんとなく、わかってきた……」


 現在の当主、つまりジャン=シャルルの父親は、思うように事が運ぶのなら手段を択ばないほうである。しかし自分で汚れ仕事をするだけのつても度胸も持ち合わせてはいないので、ジャン=ジュールのような者が金と引き換えに手を汚して差し上げるのだ。そして素人の詰めの甘さで、父親がよくないことをしていると、息子たちにもなんとなく伝わっている。そんなところだろう。


「ジャンのお兄様は、潔癖に過ぎますね。なのでわたくしとしては、あの方が当主になると餌場をひとつ、無くすことになります」

「あぁ、だろうねぇ。親父は長患いだから、いつ死んでもおかしくないし、その前に自分の息がかかった当主を用意して利用し倒そうって腹かい? 悪い奴」

「おっしゃる通りでございます」


 どちらともなく、小爆発みたいに笑った。


「オレがお前の使いやすい当主になるか、わからないぜぇ。なのに手を貸してくれるのか? いったいどういう風の吹きまわしなんだ」

「わかりますとも。ジャン、貴方はいささか頭が悪くていらっしゃる。使う側としてはそのほうが好都合です」

「言ってくれるなぁ、ジャン! 確かにオレは頭が悪いよ。あれ? じゃあルイの兄貴も始末するのか?」

「何か問題でも?」

「……間は開けろよぉ。オレが怪しまれるからな」

「その程度の頭はあるんですね」

「まあな。あんま舐めんじゃないぜぇ」


 足がもつれたと見えて、ジャン=シャルルは何歩か後退し、埃っぽい壁に細い背中を預けた。眼を細めてグラスの中身を口に含む。そのままグラスの縁を齧り始めた。したたか酔っている。そろそろ話を切り上げようかとジャン=ジュールが思ったころ、ジャン=シャルルは自分から口火を切った。


「……そろそろ帰るわ。ちぃっと呑みすぎたみたいだ」

「でしょうね。ご連絡はどちらにすれば?」

「オレ、離れに住んでるからさぁ。ウチの。そっちに手紙でも頂戴。あ、でも親父にばれたらやばいかな」

「手紙なら大丈夫でしょう。お父様とは『ジャン=ジュール』ではない名前でお取引きさせていただいております」

「いひひっ、周到なこったな。じゃあなジャン、また会おうぜぇ」

「ええ、ジャン。また」


 危なっかしい足取りで、ジャン=シャルルはふらふらと部屋を出る。その背中を見送るジャン=ジュールは、まともな酒がふいに恋しくなった。

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