ふくしゃねつ


「なあセル、「フクスイボンニカエラズ」って言葉を知ってる?」


じめっとした森に流れていた静寂を、旅人の声が破った。その言葉はおそらく、旅人を乗せて進む生物に向けられたものだが、旅人を乗せた生物はほんの少しだけ主人に目線を向けると、何事もなかった顔で正面を向いた。明らかに主人の投げかけを無視している態度だが、主人はそんなことを気にも留めていない様子で続ける。


「昔どっかで習った言葉なんだけど、「一度やってしまったことは取り返しがつかないよ」って意味だってさ」


もちろんその言葉にも返事はない。景色は相も変わらず表面に苔の生えた木々と、湿った土が続いてる。旅人はよいせと仰向けになると、空が見えない景色を眺めた。


「まるで今のぼくたちみたいだよねえ」


へらりと、旅人が呑気に笑う。しかし旅人を乗せていた生物は、主人の言葉に明らかな嫌悪を示し、主人をその身体から振り落とそうと身体を揺らした。旅人は慌ててその身体に縋りつくと、ブンブンと振り回されながら謝罪の言葉を述べた。6往復ほど攻防を続けた後、その生物はやっと主人の謝罪を聞き入れたのか、その動きを止めた。


「まったく!君はいっつも気に入らないことがあるとそうやってぼくを落とそうとするよね!たしかに今回、やろうと提案して、実際にやったのもぼくだけど、きみだってぼくを止めなかったじゃないか!」


旅人は自身を乗せている生物にぷりぷりと小言を言うが、当の生物はどこ吹く風で先を進む。


セントベルを出てから、旅人はまずどこに向かうかを考えた。

これまでは滞在していた街を出る際に、周辺の情報をもらってから出ていたのだが、今回ばかりはそうするわけにもいかなかった。トンボを連れたオカマの情報も収穫がなく、とりあえずは次の街を目指すべきなのだがいかんせんその情報もない。


困り果てた旅人は、とある暴挙に出た。木の枝を地面に立て、手を離したときに棒が倒れた方向に進むことにしたのだ。

からん、と棒が音を立て、向かう方向が決まったのは良かったのだが、もうかれこれ二ヶ月は森を彷徨っている。ここまで進んでまったく街に出くわさないことを考えると、旅人の暴挙は完全に失錯であったと言わざるを得ない。


「やめろよ、わかってる。わかってるよ。あのやり方はさすがに無謀だった。…でももう二月ふたつきもまっすぐ進んできたんだ。さすがにそろそろ何かには当たるはずだよ!それにさっきから、前方の地面が暖かくなってきてるの、きみも気付いているだろ」


セントベル周辺を包んでいた春の陽気は、二月ふたつき進む間にじわじわと気温が上がり、日光が遮られた森は、現在じめっとした生暖かい空気を孕んでいる。この自然がつくりあげた天然サウナをもうひと月半は進んでいるが、ここのところは少しずつ森の湿度が下がり、日の光もわずかにだが入り始めてきた。このまま進んだ先にきっと開けた空間-森の切れ目があるだろう。それだけを希望に、旅人は森の道を進む。


「きみもぼくも、そろそろ限界なのは同じだ。なんなら、むしろきみはぼくを糧にしてるんだから、実質つらいのはぼくだけじゃないか」


旅人は自身を乗せて運ぶ生物に言うが、やはり答えはない。その明らかな反抗に、これ以上無駄な体力を消耗するのを諦めた旅人は、黙って生物に背中を預ると、現実をシャットダウンするかのように目を閉じた。

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