天使はその手に斧を持つ

七沢ゆきの@11月新刊発売

天使はその手に斧を持つ

 愛しています。


 たとえば、風になびく髪。

 いくら日に当たっても、赤くなるだけの白い肌。

 とびきりの紅茶のような、優しい色合いの瞳。

 いつも控えめな笑みを浮かべている唇。

 あなたがよく浮かべる、困ったような微笑み。

 甘いクリームのような声。


 でも、いくらそんな言葉を集めても、あなたの本当の価値はわからない。世界中の良いものを集めても、あなたにはならない。


 いいえ。

 

 わかっています。私はすこしおかしいのです。

 あなたは私以外の人間の目には平凡な高校生に映るはずです。

 あなたには、天与の才能があるわけでも、飛び抜けた美貌があるわけでもありません。


 あなたが恐ろしいほど美しく見えているのはきっと私だけです。


 それでも私は焼け付くようにあなたを恋い慕っています。理由など知りません。

 

 第一、愛することに理由などいるのでしょうか?


 初めて出会ったときから、あなたは私が守るべき人だと、そう、これから全霊を傾けて守るべき私のたった一人の人だと、天啓のように感じたのです。それだけで、充分でしょう。


 愛しい愛しいあなた。私の奪われた半身。


 女神。


 私は、愚かな未開人のようにただひたすらにあなたを尊崇するのです。あなたは私の女神なのですから。


 女神の役目は信者と親しむことではなく、高みから見下ろし、信者の供物を傲然と受け取り、ときおり哀れみを与え、そして崇拝されることです。


 私はあなたの守護者。天使。

 神殿の前に立つ戦士の像のように、斧を携え、あなたのために万難を排すもの。


 私はあなたからの愛も優しさもいりません。

 ただ、ほんのすこし、あなたが私を思ってくれれば、それだけで充分なのです。




               ※※※





「まあちゃん、また変な手紙が来たの……」

「また?」


 机に向かい、明日の予習をしていた槇絵は後ろを振り返る。

 そこにいたのは自分と同じ制服を着た、双子の妹の千草だった。

 二卵性双生児のため二人の顔はあまり似ていない。けれど、体型や仕草はそこここに互いの面影があった。


 「高校生になると男も変なのが増えるわね。見せて」

 「うん……」


 千草から手渡された手紙はいつものように「愛しています」から始まっていて、一見論理的なようながら、破綻した恋情が延々とつづられていた。


 この異様なラブレターは、千草が高校に入学してから、几帳面なことに月に一度、必ず送られてきている。


 そしてこれが、6通目。


「仕方ないわね。お父さんとお母さんに話して、また警察に行きましょう」

「でも、警察、何もしてくれない」

「してくれないんじゃなくてできないのよ。この手紙、切手も消印もないし、指紋もない。それに、気持ち悪いけどちいちゃんを脅すようなことは何も書いてない。ちいちゃんに何かあったわけでもない。あの人たちだってパトロールを強化するとしか言えないの」

「切手も消印もないのが余計ヤなの!うちの住所を知ってるってことだよね?この人うちの近所にいるってことだよね?怖いよ、まあちゃん!」


 千草が泣きそうな顔をした。


 二人は双子だったが、その性質はまったく違っていた。

 槇絵が光なら千草は影。

 同じ進学校に進んでも、槇絵は特進クラスの新入生代表として壇上で挨拶をし、千草はそれを一般クラスの席から眺めていた。

 

 槇絵はいつも長い黒髪をゆるくくくり、命を手に入れた彫刻のような超然とした美しい顔であたりを眺めていた。それは、槇絵と目が合った大抵の男が慌てて目をそらすくらいだった。 


 千草は逆に、スイミングクラブに通っていたせいで少しばかり塩素焼けした赤い髪を持ち、クラスの椅子に座ればその三十数名の中に埋もれてしまうような、誰の印象にも残らないような、平凡な顔立ちをしていた。いっそどこか突出している部分があれば醜いなりに心に残るのだろうが、彼女はすべてがどこまでも平均的だった。


 だからこそ千草は毎月の手紙を怖がっていたのだ。

 こんなもの、本来は槇絵が受け取るようなものなのに、どうして自分に?と。


「大丈夫、とか簡単には言えないけど……防犯ベルも催涙スプレーも買ったし、学校はわたしと行けばいいし、そんなに心配しないの」


 槇絵がぽんぽんと千草の頭を叩く。


「だからちいちゃんも一人でどこかに行っちゃダメよ。必ずわたしかお母さんたちと行動すること。いい?」

「うん……」

「早くこの変な人が飽きるといいわね。ま、若い男なんかなんにでもすぐ飽きるから大丈夫よ」

「まあちゃん、おばちゃんぽいよ、それ」


 泣きそうだった千草の顔がすこし明るくなる。

 それを見た槇絵も安堵したように笑って、千草の唇をピン、とはじいた。


「何よ。わたしが励ましてるのにそんなことを言うのはこの口?」

「いたーい。まあちゃん少しは手加減してよ」

「してるからこのくらいなの。

 それよりちいちゃん、制服汚れてるけど、どうしたの?」


 槇絵が問いかけると、途端、明るくなった千草の顔がまた曇った。

 槇絵と同じ紺のブレザーには、人の足跡のようにも見える汚れがついていた。


「ちょっと……転んだの」

「本当?私には嘘ついちゃだめよ。何かあったらなんでも相談に乗るから」


 槇絵はそこに何かを察したようだが、それ以上は強いては聞かなかった。


「うん……」

「私、喧嘩も強いの、知ってるでしょ」

「うん!」


 千草がこくんとうなずく。

 自分に手を出してくる痴漢や変質者の数の多さに業を煮やした槇絵は護身術を習い、今ではそれなりの腕前になっていたのだ。


「ならよーし。じゃあこれを持ってお母さんのところに行こうね」


 槇絵は椅子から立ち上がり、千草の手を取る。


 光と影のような関係なのに、ふたりはとても仲が良かった。

 千草が槇絵に劣等感を抱くことも、槇絵が千草に優越感を抱くこともなかった。

 だって双子だもんね。それが二人の口癖だった。

 ただ、千草は気づかなかったけれど、部屋を出るときに槇絵の目に、ほんの少しだけ、暗い影が走っていた。





                 ※※※






 惨劇の色はモノクローム。

 ただ一色、飛び散る血だけが、鮮やかなテクニカラー。

 斧を振り下ろし、刻み潰し刎ね、立ちふさがるものはみんな殺してしまおう。

 死ね死ね死んでしまえ。

 あの子を苦しめるもの全部。

 おまえに生きている資格などあるものか。


 あの子を泣かせたおまえ。

 おまえには、あの子の涙一粒ほどの価値もない。

 あの子を嘲ったおまえ。口も潰してやる。

 あの子を足蹴にしたおまえ。そんな足は必要ない。

 のたうち回り命乞いをし、許してくださいと言うおまえ。

 五月蝿い。

 そんなことはあの子に言え。


 私はあの子の守護者。


 あの子を傷つけるものを断罪するだけだ。

 屍山血河。柔らかな死体踏み越えて。

 ああなんと心地よい。

 あの子の敵が消えていく。

 笑い、幸せになるあの子。

 それは、想像するだけで胸がじりじりするような喜び。


 斧の鋭い切っ先が、やわやわと肉の中に沈み込む。


 ぶつりと、皮のちぎれる音。そして、ぶつぶつと切り裂かれていく醜い筋肉。

 血の玉が皮膚を滑る。それが始めは栓を閉め忘れた水道のように、そして、夏の日の水浴びに使ったホースの水のように、とろとろと吹き出し始める。


 なにか奴は叫んでいる。


 でも私は頓着しない。

 ちぎれた足をもちあげる。

 奴の目の前にかざす。

 ほらどうだ悔しいだろう。おまえのご自慢の足。


 なんの役にも立たない。もう。


 殺してと叫ぶそれ。


 良いとも。

 だがそれはまだだ。まだ、手も首も残っている。

 まず指を刻もう。


 痛いと泣くか。

 そうか。

 あの子も泣いた。痛いと泣いた。それを笑いながらおまえは見ていただろう。

 なのになぜ泣く。


 笑えばいい。あのときのように、愉快でたまらぬとでも言うように。

 ほら、笑え。

 笑え笑え笑え。

 なんだ、笑えないのか。じゃあ笑わせてやろう。

 唇を切り裂いて、ああ、斧でこんなことをするのは難しいな。うまくいかない。

 無声音でのたうちまわるな。余計に手元が狂う。


 ざりざり、ぷつぷつ。


 引き裂く愉悦。おまえたちの気持ちもわからなくはない。泣き叫ぶものを踏みつけるのは快い。

 私はもとより義憤で動いているのではない。

 そんな安い感情は私にはないし、なにがどうなろうとそれは興味の埒外だ。


 それがあの子でさえなければ。


 奪われた私の半身。

 私より大事な私。


 女神。


 這いずる奴の体を斧で床に縫いつける。

 じたばた。醜く動く手。まるで蟹。

 どこへ行く?

 血を吐いて、臓物を引きずり、それでも逃げようとするのか。

 逃げ場などない。

 あの子を傷つけたものには粛清を。

 死を持って贖えその罪。


 私はわざとゆっくり奴に近づく。

 傷口のせいでにたにたと笑っているような奇妙な絶望の表情を見下ろす。

 足を頭に乗せる。踏みつける。

 ポケットに手を入れ、私はナイフを取り出した。


 斧だけですませようと思ったが、ピンで串刺しにされた芋虫のようなおまえは、芋虫のように扱われるのがふさわしい。


 脇腹にナイフを差し込む。ぐいぐいと腕を動かす。張り切った肉を切り裂く重い手応え。

 大きく開かれたそこに腕を差し込み、中のものを手当たり次第掻き出す。


 これはこれは。

 思ったよりたくさん入っているものだな。


 びくびくはね回る体。解体される魚。ひゅうひゅうと、ため息のように何かを言っている。


 何?

 私は顔を近づける

 何を言っている?

 ……助けて?


 私は思わず吹き出した。

 この期に及んでまだ助かるとでも?

 私に、助ける気があるとでも?

 私は笑った。

 こんな愉快な気分にさせてくれたおまえには、礼をしなければならないな。


 ひたりと奴の首筋にナイフを当てる。


 恐らくはもう、碌な思考力などないであろう顔が、それでも朧気な恐怖に歪んだ。

 どうやら、何をされるのか見当がついたらしい。

 だが、このまま私に刻まれ続けるより、ずっといいだろう?


 私は微笑む。


 ナイフを持つ手に力を込める。一息でかき切る。先刻まで裂いていたものに比べたら、なんと軽い手応え!


 一瞬の静寂の後、濃くて熱い動脈血が勢い良く吹き出す。


 私はそれを浴びながら大笑した。

 爽快な気分だ。

 これであの子の敵は一人消えた。




                   ※※※






「まあちゃん、また来た……」


浮かぬ顔をして千草が封筒を槇絵に渡す。

もう読むのも嫌なようで、それは開封されていなかった。


「開けていい?ちいちゃん」

「うん。お願い」


 愛しています。


 私の女神。女神を穢す人間は私が断罪しています。


 あなたの平和な暮らしを私は作ります。


 千草さん、この手紙をあなたが読むといいと思いながら書いています。私の愛はわかってもらえたと思います。千草さん、あなたの望みはなんですか。すべてかなえます。

 愛しています愛しています愛しています。私を嫌いですか。私はそれでもいいです。あなたが私を嫌いでも私はあなたを愛しています。愛しています愛しています愛しています。


「ちいちゃん、こいつちょっとヤバいかもよ」

「なんで?」


 今までいつも「大丈夫!」と励ましてくれた槇絵の言葉に、千草はもう泣きそうだ。


「言いづらいんだけど……ちいちゃん、いじめられてなかった?」


 真剣な顔で槇絵に問われ、千草はしばらく床を見つめたあと、うなずいた。


「でも、ちょっとだけだよ。藤枝さんとか、江島さんとか……」

「陸上部のでしょう?」

「うん……」

「やっぱり。あいつらね、わたしに陸上部に入れってうるさかったの。だから最後は、たかだか中学生のころの記録がちょっとよかったからってそんな面倒なの入らない。千草と帰宅部してた方がずっとましって言っちゃったのよ……。ごめんね、ちいちゃん、わたしのせい」

「まあちゃんは悪くないよ。変な手紙のヤツがいるから一緒に帰ってくれてるんだもん」

「でもそれでちいちゃんが嫌な目にあったら意味ない。今度からは正直に言って頂戴よ。私のことを信用してね」

「ごめん。わかった」


 こくんとまた、千草がうなずく。


「それで……藤枝さん、通り魔に襲われたでしょ」

「うん。同じクラスだからお葬式に行ったよ」

「こいつ、気取った言い方だけど、要するに、ちいちゃんの敵を殺してるみたいなこと書いてるの。もちろん、本当かはわからない。でも、今までの手紙より頭がおかしくなってるのは確か」

「やだ……っ」


 千草が吐き気を抑えるように口元を抑える。

 槇絵がその肩をそっと抱いた。


「とにかく、お父さんお母さんと警察に行きましょう。もう、パトロールだけってことはないと思うわ。でもその方が逆に安心だから」





  

                 ※※※







「先生、こんなところに呼び出して、何か御用ですか?」


 理科担当の吉村に、理科準備室に呼び出され、槇絵はゆったりと微笑んだ。


「藤枝が殺された」

「ええ。気の毒なことです」

「次の日の君のブレザーの袖口に黒いシミがあった」

「あら、紺の制服なのによく気付かれましたね。見間違いじゃありません?」

「俺の趣味は夜のマラソンだ。塾にも通わず好成績を維持している我が高校の模範生が夜中にテニスバッグを抱えて歩いているのを見たらどう思う?」

「テニスクラブに行った帰りだと思うんじゃないかしら」

「そこが藤枝が殺された場所の近くでも?」

「……先生は何をおっしゃりたいの?」

「藤枝を殺したんだろ?」

「いいえ、そんなくだらないこと」


 蒔絵が優雅に首を振る。黒い髪が、揺れた。


「警察に行ってもいい。あの日の夜中、お前を見たこと」

「それじゃあ先生も同じ立場になりますよ」

「俺はマラソンの合間にコンビニで立ち読みしたりして、最後は彼女の家に泊まってる。調べりゃわかることだ。じゃあテニスクラブなんかないあのあたりでテニスバッグを抱えていた優等生は?」


「……先生は何を要求されているの?」


「さすが、賢いな。卒業までのおまえを。

 我が校の姫君が俺に跪くんだ。たまんねえな」

「正直な方。なら私も正直になりましょう」


 槇絵が制服のリボンタイをゆるめながら、吉村を見据える。


「これ、首輪みたい。息苦しくて大嫌い。ちいちゃんのためにいい子でいたのに台無しね。でも、ちいちゃんが知らないところじゃあたしはいい子なんかじゃない。どうでもいいの、みんな」


 槇絵の腕が吉村へと延びる。


 しなやかなそれはゆるやかに吉村の首にすがり、槇絵は見たこともないような艶めかしい表情を浮かべていた。


「ちいちゃんにさえ知られなければ、みんな、どうでもいいのよ。そのかわり、約束は絶対に守ってよ、センセイ。ちいちゃんと離れるのだけはごめんだわ」


 槇絵の血を啜ったような真っ赤な唇が笑みの形を作る。

 ちらりと見えた尖った犬歯がひどく煽情的だった。


「槇絵……」


 ごくり、と吉村の喉が動く。

 それに「なあに?」と答えて、槇絵は煽るように吉村の胸元に頬をすりつけた。


 吉村の腕が乱暴に槇絵の背に廻された。そして、顔を槇絵の豊かな胸部に埋めようとして____。


 信じられない物を見るような目で上を見上げた。


「ね、ちいちゃん以外、どうでもいいって言ったでしょ」


 槇絵に頸椎にナイフを突き刺され、ヒハヒハと吉村は苦しげに呼吸をする。思い通りにならない喉を掻きむしる。

 そして、床にどさりと倒れた。


「こんなあやしげなお招きに、何も用意せずに来ると思ったのかしら?」

「お……れ……ころ……したら……おまえ……だって……」

「ええ。だから用意をしたと言ったでしょう?」


 槇絵は目立たない場所に隠してあったテニスバッグを持ち上げた。

 ジッパーを開けたそこからは小ぶりだけどよく切れそうな斧が出てくる。


「悔しいのは、もうそばでちいちゃんを守れないことだけだわ」


 そう言って、槇絵はきろりと吉村を見た。


 感情も何もないように見えるくせに、その奥では恐ろしい温度の怒りが燃え立っている目だった。漆黒のはずの瞳が、煮えたぎる溶鉱炉のように赤くなるのさえ、吉村には見えた気がした。


「せっかく、半年もかけて、あの子がわたしだけを頼るようにしたのに。あの子が廻りを怖がって、疑って、わたしだけを慕うようにしたのに。

 とっても可愛いのよ。まあちゃん、まあちゃん、とわたしを呼ぶあの子の顔。 あれはわたしだけの物だったのに」


 槇絵が斧を愛おしむように抱えた。紺サージの制服を着た美しい槇絵がすると、そんな仕草さえ、死の天使がする儀式のように見えた。


 槇絵の瞳が恐ろしいほど澄んでいたのも、それに拍車をかけた。


 迷いのないものはこんなふうに混じりけない澄んだ瞳をする。

 そこには善も悪もない。

 だからこそ天使は、人を滅ぼす黙示録のラッパをあんなにもためらわず高らかに吹けるのだ。


「いいこと?藤枝さんを殺したのは先生。おかしな手紙を送ってきていたのも先生。わたしはちいちゃんと同じように変な手紙が怖くて護身用にナイフを持っていた。そして、わたしを脅してちいちゃんを自分の物にしようとした先生を刺した」


 そこまで言って、槇絵が斧に唇を寄せる。とろりと赤い唇で、その刃に口づける。美と罪の結婚。悪魔と天使がつがえばきっと槇絵が生まれるに違いない。

 比類なく美しい顔と冴え渡った頭脳。

 そして、善も悪も知らない心。


「でもわたしは非力な女。先生の返り討ちにあって死ぬの。藤枝さんを殺したのと同じ斧で」

「そ……ん……うま……く……」

「行くわ。ねえ、このテニスバッグに見覚えはない?体育の中村先生のなのよ。盗難があったってちょっと騒ぎになったでしょ?ほかの教師に罪を着せようとする稚拙な手口、ポケットには今までのものとそっくりなあの手紙、藤枝さんの血の付いた斧、どれについてるのも先生の指紋だけ。趣味は夜のジョギング。少しくらい不審な点があっても、犯人は先生よ」

「……お……まえ……っ……」


「それに、私も死ぬ」


 槇絵が斧を抱きしめたまま笑った。


 吉村は今頃、槇絵がその両手に手袋をはめていたことに気付いた。


 この美しい女を自分の物にできると浮かれていてそんなことまで見落としていた少し前の自分を殴ってやりたかった。


「死者は証言できないわ。わたしはちいちゃんを永久に守る。

 殺人者の妹になんてさせない」




                ※※※





 愛してる。


 たった一人繰り返す言葉。喉がすり切れて言葉の代わりに血がこぼれるくらい。


 伝えたいのはただそれだけ。


 言ってはいけないのもただそれだけ。


 焦げ付く頭の中。わんわんと響くのは意味のない反響。


 手が斧の白刃に吸い付けられる。


 きらめく刃の輝きが私のてのひらを横切る。浮かび上がる赤いラインを抱きしめる。


 私とあなたを繋ぐもの。かなしい、偽物の赤い糸。


 愛してる。


 愛してる。愛してる。愛してる。


 なのに。この斧を振り下ろすことでしか、私はあなたを愛することができない。


 こんなの、歪んでいる。狂っている。してはならない。


 ……わかっている、そんなこと。


 わかっていてもどうにもならないだけで。


 ひたすらに自閉していく心。さらさらと滑り落ちていく思考。


 ゆったりと。


 ゆったりと。


 瓦解していく。


 世界がどろりと色彩を濁らせ、溶解し、ただあなただけが鮮やかな色。


 あなた以外に意味なんてない。


 ねえ、心臓をスプーンに乗せて捧げてもいい?


 言葉が禁忌ならば、私の最後のひとかけらまで、捧げてもいい?


 愛してる。信じて。愛してる。


 あなたを見ると、胸が痛いのに幸せで、幸せなのにとても辛い。


 たくさんの矛盾は私の中に降り積もって、世界を白く染める。私を盲にする。 曖昧な境界線を私はいつか踏み越えていく。


 一秒と少しのセンテンスが言えなくて、私はまるで、隣の家に行くために世界を一回りするよう。


 間違っていると、かすかに私が警告する。


 そんなことは承知だと私は言う。


 何が正しいかなんて、いまさら誰になにが言える?


 正しいのはあなた一人。


 世界でたった一人。


 たった一人のあなた。


 どうしてあなたは妹だったのかしら。ちいちゃん。


 そのせいでこれは恋にもなれない。





               ※※※






 槇絵はまだかすかに息のある吉村の手に斧を握らせ、その刃の上に倒れ込んだ。


 まるで、神に祈る聖女のように。


 床に血が広がる。


 それでも槇絵の顔には笑みが浮かんでいる。             





                  ※※※






          「愛してるわ……ちいちゃん」

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