いいか

OKAYAMA

いいか

 ーー頭が痛い。痛いというよりは重い、というべきか。頭の疲れというのは、頭そのものの疲れではなく、頭を支える首の筋肉に疲労が溜まることによるものらしい。そういう意味では、朝からずっとデスクワークをしている僕が、頭の重さを感じるのも、当然といえば当然だった。


 筋肉を労るように首を回しながら、定時を過ぎたオフィスをざっと見渡すと、未だ半分程度の人が残っているようだった。僕はというと、さして重要な仕事を任されているわけでもないこともあって、別段残業をする必要はなかった。いつまでもこのままでよいのだろうか、という思いもあった。例えば、もう少し残って作業を進め、空いた時間を活用して、新たな仕事を見つけ出してこなすようになれば、そんな状況も変わるだろう。実際、同期の何人かはそうやって出世もしている。確かに疲労は感じているが、それだって首を回すストレッチでいくらか軽減する程度のものだった。


 けれども、僕はパソコンをシャットダウンした。


 ーーまあ、いいか。


 早く帰って何をするでもないが、別段お金を稼ぎたいわけでもない。結婚の予定もなければ、マイホームもいらないし、車をほしいと思ったこともない。服や食事にも無頓着だし、酒もタバコも好きじゃない。ただなんとなく幸せなら、僕はそれで充分だった。


 暮れなずむオフィス街は、たくさんの人で溢れている。それでも歩きにくいとは思わない。それは、僕らが雑踏に慣れているからなのか、全員が同じ駅に向かっているからなのか。ともかく、歩き慣れた道を行き、もう間もなく駅に着こうかという、その時だった。僕は、人波に懐かしい顔を見た。いや、見ていないかもしれなかった。それは、ほんの一瞬見えただけで、またすぐに人波に紛れてしまったし、その人の顔を僕はよく覚えていなかった。そもそも僕の記憶にあるその人の顔は、ずっと昔のままで止まっている。だから、僕が今見た顔が中学生のときにできた、僕の初めての恋人であったかどうかは、分からなかった。一瞬、ほんの逡巡、追いかけようかと、声をかけようかと思った。


 しかし、


 ーーまあ、いいか。


 と、僕はすぐにその考えを捨てた。この人波を掻き分けて、見失った相手を追いかけるのは無理があるし、仮に追いついたとして果たしてどんな声を掛ければ、何を話せば良いのか分からなかった。なにしろ、中学生のときから会っていないのである。それに、そもそも今見かけた相手が果たしてその人であるか、分からなかったのだ。そう思って、次の瞬間には、僕の中で、追いかけようか、という気持ちはきれいさっぱりなくなっていた。


 しかし、思いがけず懐かしいことを思い出すこととなった。もっとも、自分に恋人がいたことを忘れていたわけではないから、思い出すというのは少し違うのかも知れないが。


 たしか、このくらいの夕暮れ時だったと思う。僕があの子に呼び出されたのは。週に一度、職員会議か何かのために、部活動がない日があった。その日に僕は、あの子に呼び出された。その日に僕は、あの子に想いを告げられた。その時僕には、とても気になっている女の子がいたのも覚えている。想いを告げられた僕は、少しの間、その子のことを考えていたが、やがて、


 ーーまあ、いいか。


 と、その子への気持ちに目を背けて、頷いた。いささか不誠実な気持ちがするが、たぶん僕に限らずよくあることだろう。それに、まっすぐ想いを告げられる衝撃は、強い。その場にいない誰かへの想いなど、比較にならないほどに。嫌な言い方をすれば妥協の一つだけれど、その妥協なくては社会は成り立たないのも事実に思えた。

 かくして恋人同士となった後に、この日の決断を後悔したことはなかった。そうしてはじまった関係だが、終わりは呆気なかった。おたがいが高校受験を控え、遊んでばかりいられる雰囲気でないから、と向こうから別れを切り出してきた。一緒にいるのは楽しかったし、僕は別段受験勉強などするつもりもなかったので、ほんの少し迷ったけれど、すぐに


 ーーまあ、いいか。


 と思い、別れることとなった。


 彼女が別れを切り出してきた理由が本当に受験であったのかは分からないけれど、特に問いただしたり、話し合ったりすることなく、別れたのだった。その頃には周りも受験を意識しはじめるようになっていた。僕は自分の進路にさして興味を抱いたことはない。どの高校を受けるか、なんてことも考えたりはしたけれど、最終的には、


 ーーまあ、いいか。


 と、家から近い自転車で通える高校を選んだ。


 その後にしたって、そうだった。例えば、大学を受験するにあたっては、一度、音楽の勉強をしたいと思い、色々調べたりもしたけれど、結局のところ、


 ーーまあ、いいか。


 と、推薦枠の余っていた経済学部に進学した。


 考えてみれば、今の会社だってそうだった。音楽に関わる仕事をしようか、などと考えたことあったが、


 ーーまあ、いいか。


 と、特に興味もないメーカーに勤務している。


 そんなふうにボサッと考え事をしていたら、家に着いていた。玄関を開け、靴を脱ぐ。部屋の奥にあるソファに荷物をおいて、風呂のお湯を張りに行ったところで、玄関の鍵を締め忘れたことに気づいたが、


 ーーまあ、いいか。


 と、構わず、スマートフォンでSNSなどを何となく見ながら、風呂のお湯を張りはじめたその時だった。


 誰かが勢いよく部屋に入ってきた音がした。音につられるようにして、廊下に出て、玄関の方を見やる。すると、果物ナイフを持った見知らぬ男が部屋に入ってきていた。顔立ちはフードに隠れて窺えないが、僕よりも上背があるようだった。男は大股で僕に歩み寄ると、躊躇なく持っていた果物ナイフで僕の右脇腹を、刺した。味わったことのない痛みと、それから冷たさを感じた。


 僕は、驚きと痛みのあまり、膝をついて倒れた。意識が遠のいていく。


 男は室内を一頻り漁ると、部屋から出ていった。僕は薄れゆく意識のなかでぼんやりとそれを認識した。右脇腹からの出血が止まらなかった。そんな状態ではあったが、気がついた。風呂場にいけばスマートフォンがある。歯を食いしばって、死にものぐるいで風呂場までいき、救急車を呼ぶことができれば、死にはしないだろう。なんとか風呂場まで這っていくことができれば、救急車が呼べる。僕は、それで生き残れる。生き残れるのだが……。


 ーーまあ、いいか。

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