第8話 夏だ、夏です、夏でした…
7月も下旬に入り、今は夏休み真っ只中。蝉の鳴き声をBGMに燦々と太陽が飽きもせずに照っている。
「白い壁、白い天井、白い床、家だー!暇だー!」
床に寝転がり意味もなくゴロゴロと転がる。うちの家って白ばっかだな。
「何やってんのさ、お兄ちゃん?」
妹の汐菜が片手で麦茶を注ぎながら怪訝そうな顔で僕を見つめる。
「全身で暇を体現してる。あ、僕にも一杯お茶頂戴」
汐菜は何か哀しいモノを見るかのように僕を見下ろした。新手の性癖に目覚めそうだぜ☆
「暇、暇って彼女はどうしたの?夏休み入ってずっとそうやってるけど」
そう、僕と水薙は夏休みに入ってから一度も会っていなかった。SNSでのやり取りこそあれどデートなどという青春エピソードはゼロなのだ。
「水薙は水泳部のエースだし、夏休みは殆ど部活なんだよ。部活をサボらせるわけにはいかないし」
水薙は夏休み入ってから今日までずっと部活らしいのだ。というか、夏休み入る前からずっと部活だったらしい。水薙は再試に受かるまで部活参加禁止になっていただけで部活はずっとあったみたいだ。これが世に言うブラック部活か。嘆かわしい。
「それ、お兄ちゃんが避けられてるだけじゃないの?別の男ができたとかで」
な、恐ろしいことを汐菜は興味なさそうに言った。覚えとけ、例えそれが真実じゃくても言葉というものには一定の殺傷力があるんだぞ!
「違うもん。その証拠に毎日夕方あたりになると、部活が終わったことを伝える自撮りが届くもん。練習の水着のままで濡れててちょっとエッチな感じの自撮り届くもん」
会えない分これで元気になってくださいね、とかメッセが添えられたのが届くんだよな。そりゃ元気になりますとも。
「ちょっと気持ち悪い」
若干引き気味で蔑んだ目で汐菜は僕の方を見る。いいよ、その視線、ちょっと目覚めてきたよ!
「とにかく僕は暇なんだよ!遊ぼうZE!」
この数日で1人でできることは大抵やったぞ。もう1人は嫌なんだ。
「いや、私これから遊びに行くんだけど」
「じゃあ、ついてく」
「友だちと遊びに行くんだけど」
「現役JCか、楽しみだな」
「死ね」
凍てつくような冷たい視線が僕に降り注ぐ。ああ、興奮するな。今の僕、無敵じゃない?
「ああ、もう、何が夏休みだ、何がサマーバケーションだ。夏休みなんて滅んじゃえ。毎日がスクールデイズ希望。これでいいじゃん。実際、リアルだとこれ投稿したときもう9月でしょ」
注釈:本日の僕は夏の暑さと暇と水薙に会えてないのでテンションがだいぶおかしくなってます。
「今お兄ちゃんは全国の学生を敵に回したよ。じゃあ、行ってくるね」
なんやかんや言っても会話のキャッチボールに最後まで付き合ってくれる汐菜は難しい年頃にしてはできた子だと思う。
「これで僕もまた一人か」
今度は誰も返事をしてくれなかった。これからどうしよう。男友達に連絡しようにも僕が水薙と付き合い始めてからみんな付き合い悪いしな。
「家にいても仕方ないし僕も外に出るか」
本当に用事が何もないのでとりあえず学校近くにあるデパートにでも行って適当にウィドウショッピングでもするか。
汐菜から遅れること30分、僕は身支度を整えて家を出た。水薙と登校するときは健康的に歩いて行くが今日はめんどくさいので地下鉄を使う。定期も使わないともったいないしな。
最寄りの地下鉄の駅から電車に乗る。家から駅まで1分もかからない距離しかないのだがこの気温だとややしんどい。車内の空調がとても心地いい。2駅分しかないので座るのもアレなので吊革につかまる。あ、という間に次の駅に着く。普段はうちの学校の生徒くらいしか使わない駅だが近くで何かのイベントがあったのか似たような服を着た人たちが大勢乗り込んでくる。中途半端な時間で人がまちまちだった車内は途端に満員となった。どうせ次の駅で降りるし特に気にしてなかったがこの満員電車はそう簡単に降ろしてくれなかった。
「はい。現在、先を行く電車と小動物がぶつかった影響で、はい、一旦停止しました、はい。お急ぎのところ申し訳ございませんがしばらくそのままでお待ちください、はい」
定期的に何かを肯定する謎のアナウンスで電車が止まったことが告げられた。
「マジか」
思わず声が漏れてしまった。地下鉄に小動物がぶつかるもんなのか。僕が落胆して肩を落としているとその肩に誰かがぶつかった。
「すいません」
ぶつかったのは隣の吊革につかまっていた少女だった。少女はお腹を抱えて中腰でうずくまっていた。
「大丈夫ですか?」
見るからに体調が悪そうだ。何か深刻な体調不良を起こしていたら大変だ。
「大丈夫です、ただの陣痛ですから」
顔を苦痛に歪ませながらも少女はこちらに心配をかけまいかと笑みを浮かべて答える。
「いや、それ大変じゃないですか⁉︎」
産まれるの?電車内で?何、この中にお医者様はいらっしゃいませんかとか言った方がいいの?
「すいません、間違えました、ただの腹痛です」
「そんな間違えする⁉︎」
いや、腹痛でも容態によっては大変だけどさ。
「もしかしたら、朝食べた桃がいけなかったのかもですね。丸かじりしたんですよ」
少女は便意を治めるためか虚空を見つめながら語り始めた。
「いや、もしかしたら今朝食べたのは桃じゃかったかもしれない。桃に似た何か説があります」
ちょっと不思議な子なのだろうか?
「そうなんですか」
とりあえず相打ちを打っておく。少女はポケットからスマホを取り出しネットを開き「桃 似た 何か」で検索を始めた。多分、何かは入れなくてよかった。
「わかりました。ワッサーです。くそ、ワッサーにやられました。やばいですね、ワッサー」
「いや、別にワッサーはやばくないと思いますよ」
僕も少し気になって調べてみるとワッサーとは桃の小型版みたいな果物らしい。当然、腹痛などの作用はない。
「く、私の中でワッサーが荒ぶってます。う、ワッサー。よくもワッサー」
「ワッサー言いたいだけですよね」
その時、ギュルルルという音が横から聞こえた。
「これは本格的にやばいですね」
少女の顔は真っ青だ。
「えーと、頑張ってください」
こんな時ってどうしたらいいんでしょうね。地下鉄の電車にトイレが備え付けられるとは思えないし。
「私思うんです。人はみんな便意と戦う勇者なんだなって」
少女はだいぶ錯乱しているのかよくわからないことを言い始めた。
「私たち勇者は決して便意という悪には屈しません。…あれ?これってアレっぽくないですか?薄い本のオークなんかに屈するものか系の姫騎士みたくないですか?便意には勝てなかったよパターンですか?」
「何言ってるの⁉︎ちょっと落ち着いて」
僕は初対面の少女と何を話してるんでしょうね。
「私、この戦いが終わって家に帰ったら残りのワッサー食べるんだ」
「ちょっとフラグっぽいからやめて!てか、それまたお腹痛くなるやつ」
早く電車が動かないとこれはまずいぞ。
「あのー、一つお聞きしたいのですが私みたいな年頃の少女が公衆の場で脱糞したら需要ってありますかね?」
少女は何かを諦めたような顔をしていた。
「そんなマニアな需要に応えようとしないで‼︎」
聞いてる僕まで辛くなってくる。そんな時、やっと復旧のアナウンスが流れた。
「はい、線路内の安全が、はい、充分に確保できた為、はい、電車が復旧します。はい、少し揺れますのでご注意下さい、はい」
このアナウンスは何をこんなにも肯定しているのだろうか?
「よかったですね。もうすぐですよ」
ガタンと大きく揺れると電車は走り出した。にもかかわらず少女の顔は絶望に染まっていた。
「覚えておいて下さい。安易な救いは逆に苦しみを助長するだけなんです」
少女の声色は完全に死んでいた。まじか。確かに今の揺れはきつかったかもな。
「希望の傍にはいつだって絶望が待機しているのです」
電車が目的の駅に着いた時、僕と少女の間には気まずい空気が流れていた。幸いにも匂いは流れていなかった。
「では、失礼します」
電車のドアが開くと同時に僕は逃げ出すようにホームへと駆けた。改札まで出ると僕は名前も知らない少女にそっと黙祷を捧げた。南無。
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