第40話 進むべき道

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 五体に見える無数の傷跡が壮絶な修羅場を想起させた。見た目には寸刻前よりも回復している。眠る顔も穏やかであった。だが状況は差し迫る。真子の抱える問題は彼女自身の治癒力に即したものではない。力の枯渇によるものであった。まさに今、真神の姫が消えようとしていた。


「……真子、ごめんよ。僕が不甲斐ないばかりに」

 獣の頭を撫でる。そこにはまだ、いつもと変わらぬ温もりがあった。

 ハルは悔やんでいた。己を責めていた。

 これまで幾度も危機に晒されることはあったが、その多くは自分の視界の中で起きていた。


 ――だから予期できなかったと言い訳をするのか。……そんなこと、傷ついた真子を見て言えるはずも無いだろう。


 奥歯に力が籠もる。

 心の何処かで部外者を装っていた。当事者として渦中にいたにもかかわらず。

 ここに至り、それが責任からの逃避でしかなかったことを知る。起こりうる事態は想像できたはずである。たとえ定めを押しつけられた者だったとしても、ハルはその立場で出来事の推移を見てきたのだから。

 半端な心構えでいたからこうして悲劇は起きたのだ。全て、自分の仕業なのだ。

 見えなければいけなかった。見なければいけなかった。

 ハルは己の狭量を悔やむ。助かって欲しい……。助けたい……。


「ハ、ハル様……」

 真子が薄らと瞼を開く。


「真子!  気が付いたか」

「ハル様、申し訳ございませんでした。私……」

「真子、もういいから。喋らなくていい、傷を癒やすことだけ考えて」

「……い、今ならば分かります。私に教えたのは、やはりハル様でございました」

 虚ろな目に喜びを浮かべる。真子が言う「教えた」というのは、彼女が以前出会った雨に縁のある者のことを指すのだろう。確か、約束の地と約束の時を教えたということだったが……。

 真子はその人物のことをやはり、と確信するが、無論のことハルは過去に真子に出会ってはいない。

 ――いったい何者のだろうか……。その者が最後のキーマンとなるのだろうか。

 重要なファクターには違いない。だが、切迫しているこの状況でその人物を探している余裕など無い。今夜訪れる事態にはもう間に合わないだろう。


「……真子。そうかもしれないね、いや、きっとそうだよ」

「ふふ」

 真子が消え入りそうになりながら安堵を見せる。


「真子、しっかりするんだよ。僕が助けるから、きっと助けるから頑張って」

「――ハル様、自分のことは自分が一番よく分かるのです。私はもう」

「ダメだ真子……そんなことを言ってはダメだよ」

「本当に、あなた様は本当にお優しい。……しかしハル様、今は私などに構っておる場合ではないのです。すぐに備えてくださいませ。奴らが来ます」

「奴ら? どういうこと? ……真子、もしかして君をこんな目に遭わせたのは」

「……申し訳ございません。私としたことがお役に立てず……。一大事の前に、しくじってしまうなどと……」

 真子の健気な振る舞いを見て胸に漣が立つ。心に湧いたこの感情は怒りなのだろう。しかしその鋭い気持ちが何処を向いているのか分からない。真子を酷い目に遭わせた敵に向かっているのか、はたまた真子に危険な行動を取らせてしまった自分に向いているのか。


「……真子」

「や、奴らの狙いは、真神と狛神の消滅、そして雨の陰陽師の抹殺です。奴らは気付いたのです。太刀を手にしたハル様の存在に。お気を付け下さい。奴らが来ます。ここに、ハル様を殺すために。犬神と野狐を従えて、どうかお気を付け――」

 細くなる声を振り絞るようにして訴えるが、末期の言葉は音にはならなかった。

 力尽き口を噤んだ真子の身体が徐々に透き通るようにして消えていく。その最後の最後に真子はハルに向かって満面の笑みを見せた。

 固く目を閉じ俯くハルの肩が震える。握った拳の中で爪が掌に食い込んだ。


「まだだ。まだ終わりじゃない。真子はまだ完全には消えていない。消えさせない」

 目を見開いたハルは尚仁に向かって手を出した。応えて尚仁が鏡を渡す。

 ハルは手に取った鏡を見つめた。丸く厚みがあるそれは古代の鏡。青く錆びていて鏡面には既に光はない。裏を向けると中央に宝珠が填まり込んでいて、その周囲には宝珠を守るようにして二頭の獣が鋳出されていた。おそらくそれが真神と狛神を示しているのだろう。


「応えろよ」ハルは強い気持ちを込めて語りかけた。「雲華、お前の役割は何だ。どうしてお前はここにいる。意味があるのだろう、ならば教えろよ、教えてくれよ」

 沈黙が場を重くする。尚仁は悲痛を見せながら眉根を寄せる。茜は言葉に迷うよう唇を震わせ顔を背けた。


「――そうか」

 ポツリと零す。

 ハルは顔上げ「紫陽」と名を呼び命じた。その意をくみ取って太刀は頷く。そうしてハルは自分の膝の前に置いた鏡の上に拳を突き出した。


「何をする気だ? ハルちゃん? 待て! 何を!」

 茜の驚きの声にも制止されることはない。ハルは迷うこと無く行動に移る。

 放り出された鏡の上にハルの鮮血が注がれた。畳の上で青銅色の神器が血に染まっていく。尚仁はハルと鏡の様子を難しい顔をして見ていた。

 

「止めて! ハルちゃん、そんなことしても――」

「大丈夫だよ、茜ちゃん。死ぬつもりなんて無いから心配しないで」

「で、でも!」

 今にもこちらに飛び出して来ようとする茜を片手で制し、ハルは再び鏡に訴えた。


「雲華よ、僕の血を吸え。命を吸え。そして彼らを救え」

 注ぐ血を受ける神器に命じる。


「まったく。面白いことをするじゃないか。ハル、君はいったい何をするつもりなんだい?」

 尚仁が尋ねた。茜は訳が分からぬと困惑していた。

 鏡に鋳出された獣と中央の宝珠に血が行き渡るのを見てから、ハルは切られた手首に目を向けた。傷口が塞がっていく。傷の治癒、それが紫陽のおかげなのか、鏡の力なのかは分からなかった。だがこの時、ハルには理解出来ていた。雲華の水鏡と自分の間に何らかの絆が生まれたというこを。


「別に目的などありませんよ。こいつが血を渡せというから与えたまでです」

「ほほう」

「しかしこれで一つだけ、あなた方には残念なことを伝えなくてはならなくなった」

「残念? それは」

「これでもう『雨の陰陽師』は現れません」

「な、ハルちゃん! それは、それでは」

「いや、茜ちゃん、僕は『雨』ではないよ」

「え?」

「なるほどね」

「ちょ、ちょっと、尚仁さん! それに……ハルちゃんも」

 茜は、ハルと尚仁の顔を比べるように見て落ち着かない様子を見せる。


「ハル。それらの事は、その鏡に教えられた。ということでいいのかな?」

「そう、ですね。はっきりとした言葉ではありませんが意思は受け取りました」

「そうか、ならばもう何も言うまい」

「いいんですか! 尚仁さん。雨が現れないということは、私達も雨との縁を失うということなのですよ!」

「茜、それでいいんだ。『雨』など、どうせ諡号でしかないのだから。『雨』とは彼の者の死後、手向けに送られた名でしかないのだから」

「尚仁さん……」

「茜、我らのお役目はどうやらここまでのようだ。こうなってしまった以上、我らにはもうやることは無い」

 尚仁は胸の前で腕組みをしたまま唸った。


「尚仁さん、まだ終わった気になってもらっては困ります」

 いってハルは薄らと笑みを浮かべる尚仁を見た。視線を受け取った尚仁は眉をちょこんと上げ、ハルに先の言葉を促した。


「協力して頂けませんか?」

「協力ねぇ。しかしこの際だ。何を、とは聞くまい。だが一つだけ教えて欲しい。ハル、君は全てを知った。鏡に全てを教えられたということでいいのかな?」

「いや、尚仁さん。そのように都合良くはなっていません。ただ」

「ただ?」

「どうやら僕は、その鏡と話すことが出来るようになったらしい。そしてもう一つ」

「もう一つ?」

「これで、真神と狛神の消滅は無くなるはずです。今のことで雨によって結ばれていた鏡と神獣達の縁は切れたはずです。ならば、真子もただの真神に戻り里で皆と一緒に復活出来るはずだ」

「ほう。だとすればここで聞いておきたいのだが、ハル、今の行動の意味を教えてはくれまいか。鏡と何らかの繋がりを持った君に、雨では無いと断言されるわ、この後もう雨は現れないと言われるわ。それでは我々もちょっと困ったことになるのだが」

「意味なんて、分かりません」

「分からないって、それじゃ私達は」

「ごめんね茜ちゃん、でも本当に何も分からないんだ。とりあえず、鏡との意思の疎通は叶った。協力も得られると思う。だけど今後、正式に契約が結ばれるのかは分からない」

「やれやれ、どうにもこれは一筋縄ではいかないことらしいな」

「尚仁さん……」

「とにかく、鏡がもう探さないと言うのだから仕方が無いのです。僕だって呆れているんです。なんで鏡がへそを曲げているのか……」

「な、ハルちゃん、へそを曲げるって、なんだってそんなふざけたことに」

「そんなこと聞かれても分かんないよ。訳も分からず鏡が拗ねて心を閉ざしてしまったんだ」

「拗ねてって、そんなことしている場合かよ」

「そうだよね。本当にそう思うよ。でもそれを問いただしている時間は無い。今は、目先の問題を一つ一つ片付ける方が先だ」

「目先のこと……それは呪いの事件のこと?」

「そうだね。だから協力して欲しいとお願いしているんだ」

 間もなく訪花がやってくる。その上に、真子が言っていた敵もいつここに来るか分からない。複数の事態に対して同時に応じることなど出来ない。やれる自信など無い。それならば出来る事から片付けるしかないとハルは思案を巡らせていた。


「で、俺達は何をすればいい?」

 尚仁が尋ねた。


「もうすぐここに玉置訪花が来ます。彼女を狙っている仙里様もこの寺の何処かで満を持しているはずです。まずはこれを片付けてきます」

「片付けてくるって、そんな簡単に言うけど」

「大丈夫だよ、茜ちゃん。僕にはもう紫陽がいる。そして雲華も」

「で、でも……」

「茜、ハルが大丈夫だと言ってるんだ。ここは任せようじゃないか」

「……尚仁さん」

 心配する茜の肩にそっと手を乗せて尚仁はニコリと笑う。


「尚仁さん、千三百年前の化け物の事はさておき、やらねばならないことがあります。僕はもう確信しています。敵は、左方の赤鬼達だ」

 ハルの視線に尚仁は頷く。

「雨の死後、その権勢を我が物としてきた彼らを止めねばなりません」

「そうだな」

「彼らの罪は重い。彼らは自分達の都合で黒鬼達を滅ぼし、今また真神と狛神を陥れた」

「ああ」

「彼らの魔手がここに迫るというのならば迎え撃ちます。これだけの不幸を生んできた元凶を僕は許せない。あなた方が何故に彼らを野放しにしてきたのかを、今は問いません。そこにはきっと何か理由もあるのでしょう。それでも協力してもらいたい。今夜、なるべく速やかに呪いの事件を解決します。仙里様の事も目処はついています。だが、奴らがいつ来るか分からない。僕の事件が片付くまで、奴らを近づけさせないようにして欲しいのです。それから、宮本さんと桐島さんを守って欲しい。お願い出来ませんか?」

 どの口が言っているのかと思う。舞台に上がった自分を遠くから俯瞰して見ているような感覚だった。覚悟が出来たわけでも、戦う理由を見出したわけもはない。それでも、これは自分が成さねばならぬことなのだという自覚はあった。


「問題ないよ。承知した」

 尚仁の了解の声がハルの意識を現場へと戻す。ハッとするが口を引き締めた。

 内心は揺れていた。快諾を得られたことに安堵の気持ちを抱くがその反面で、後戻りが出来なくなったということに息苦さも覚えている。

 これまでも何も出来なかった自分である。自信などない。それでも事実上は雨を背負ってしまっている。だがそれは成り行きでしかなく、英雄譚を標榜するほどの自覚など持ちようもない。力が無いことも分かりきったことだった。それでも……


「茜ちゃんも、頼めるかい?」

 自己矛盾を抱えながらハルは上面で気概を見せた。


「あ、ああ、いいだろう。引き受けるよ」


 ――僕はまだ、どこかで迷っている。……ダメだ。そんなことではダメだ。やるんだ。僕は成し遂げなければならない。

 弱気を振り切り己を鼓舞する。強い意志を二人に見せハルはその場を立った。

 

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