碧眼の怪物
曼珠沙華
第0話
そこは偶然見つけた、暗くて静かな裏路地だった。僕以外にここを通る人を、未だに一人として見かけたことがない。
「――
軋むように、痺れるような痛みが右目に響く。反射的にその場にしゃがみこんで、眼帯越しに右目を手で覆った。
「大丈夫、大丈夫だから……。今日もきっと大丈夫だから……」
呪いのように、自分に言い聞かせる。
僕は恐れていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
完全に痛みが引く頃には、息が上がってしまっていた。
この瞳を完璧に治療する方法はない。痛みを薬で緩和することもできるが、何度も使うと耐性がついて使えなくなってしまう。もはや本末転倒な存在になってしまっていた。
佐々木栞。高校一年生女子。それが僕のパラメータ。
二年前はどこにでもいるような、普通の女の子だった。過去形なのは、さっきまでの醜態を見ていれば理解してもらえるだろうか。
中学二年の夏、交通事故で両親を亡くした。僕自身も一ヶ月近く生死の境を彷徨ったらしく、次に目を覚ました時、腕や足を動かす筋力は残っていなかった。
正直な話、今でもまだ両親が亡くなった事実を受け入れられていない。いや、理解はしている。それでも荒唐無稽というか、どうにも何を信じていいのやら、はっきりとわからない。
僕からすれば、長い間眠っていただけだった。その間に両親がいなくなった。その程度の事実としてしか、現実を認識できていない。あまりにも突然な話だったのだ。
精神科の先生には
一年間の休学を経て、リハビリに勤しんだ。自分の体を自分の思うように動かせないことは、精神的にも身体的にも疲労と苦痛が襲い続けた。
結果として腕や足は満足に動かせるようになり、特に身体に麻痺が残ることもなく体調は回復した。
しかし右目には大きな大きな後遺症が残った。
まず視力の低下。くっきりと見える左目に対して、右目は常にもやがかかったような景色が映るばかりだった。
そして黒い瞳は碧色に変色した。虹彩異色症、世間一般的にはオッドアイと呼ばれる症状だ。これが一番辛かった。
いままで気にすることなく付き合ってきた右目だけが、突如異変に侵された気持ち悪さは例えようがない。碧色は僕の心に異物として突き刺さり、他人に見せることは憚られた。
事故の代償は高校生になっても響き続けた。
他人に触れることを避けるように、両親の遺産を元に一人暮らしを始めた。施設の人は誰もが僕の瞳を知っていて、なじられることこそなかったが、僕の方から他人に接することがどうしてもできなかったからだ。
そして友達はできなかった。事情を知らなければ「年上の同級生」というレッテルはマイナスポイントになるし、何より眼帯は気持ち悪がられた。もっと事故のことについて話せばよかったと、今更後悔してもあまりにも遅すぎた。
もっとも、話すことを恐れた僕自身に責任がある。
もはや出会いなどなく、僕の人生から色彩は失われつつあった。
ただ死のうとは思わない。それはもったいない気がするから。けれど強く生きる実感もわかない。
吉田松陰の「生きながら死んでいる者がいる」とは、今の僕にふさわしい言葉なのだろう。
路地裏の空気は、春先なのも手伝って冷え込んでいた。
足音は反響して、一人分が何人もいるかのように重複していく。立ち止まれば一点して静寂が流れ、僕の荒々しい吐息だけが残る。
ここには、誰もいない。
「また、か……」
それは二度目の痛みだった。ぶり返すことは稀ではない。休憩時間を設けられているような気がするから、どうかと聞かれれば大嫌いだ。
しかもさっきのと比べて、今度の痛みは一回り以上大きいらしい。
「あぁ、あああああっ、あぁっ……!」
痛みに耐えきれずに、唸り声をあげながら食いしばる。
それでも頭の中は、一見すれば冷静なままだ。心を落ち着かせなければ痛みは治らない。心因性の痛みというものは、心が病んでいるときほど悪くなりやすいからだ。二年の付き合いで脳は完全に覚えてしまった。
それでも痛みに耐性がついたわけではない。痛いものは痛いだけだ。そこから容易に逃れる術があるわけではない。
「はーっ、はーっ……ふーっ!」
だめだ、これは耐えられない時の痛みだ。なんとなくだが感覚でわかる。
耐えられないというのは、痛みが治まるまでに時間がかかりすぎるような状態のことだ。こういう場合は薬を飲まないと、時間がかかりすぎて仕方がない。
なにより何十分、何時間と激痛に耐えられるほど、まだ僕の精神は治りきっていない。
……見えない。痛みで涙が溢れて、何も見えない!
ここまでの激痛に襲われるのは久々だ。非常にまずい状態になった。
カバンの中に腕を入れて、手探りで錠剤を探すが見つからない。プラスチックのケースにいれているものなのだが、筆箱やクリアファイルと感触が似通っていて、うまく判別がつかないのだ。
誰か人が通れば――そう考えてハッとする。人が通らないことを目論んで、裏路地を通って家に帰っていたことを思い出したからだ。
失敗した。
「はぁっ、はぁっ、うぅぅっ……!」
指先は未だ、ピルケースを探し当てるには至らない。
焦れば焦るほど、精神は消耗していく。つまりは痛みが長引くだけだ。しかし急がなければ痛みは緩和されない。一体どうすれば……。とにかく探すしか方法は――
「大丈夫ですか?」
それは女の子の声だった。
「すみません、薬を探していて。緑色のピルケースなんですけど、探してもらえませんか?」
息を切らさず、明瞭に。最後まではっきりと伝えることを意識してなんとか言葉を綴る。
これほどまでに苦労したのも久しぶりのことだ。入院中はしょっちゅう看護師さんに手伝ってもらった、苦い記憶が脳裏に浮かび上がる。
「薬ですか、お任せ下さい」
女の子もカバンの中に腕を入れたようで、ちょうど僕の腕とぶつかった。それを機に、邪魔しないよう自分の腕は引っ込める。
「ありました。一回ぶんですよね」
1分と経たないうちに女の子は探し出す。
「ありがとう、ございます……」
左手を前に出すと、確かに薬を乗せられた感覚が伝わってきた。ここまでくればもう安心だ。
勢いよく錠剤を飲み込んで、痛みに耐えるためにその場にうずくまった。
薬といっても1、2分程度ですぐに痛みが治まるわけではない。それに今回はいつもとは違う、鈍い痛みだった。
その分の時間が遅れたのか、痛みで時間感覚が狂っていたのか。それは明確ではないが痛みが治まるまでには、薬を飲んでから体感で10分以上経過するのを待たなければならなかった。
痛みは徐々に収まってくるので、5分くらいが経過した頃にはかなり気も落ち着いていた。それもこれも、快く薬を探してくれた女の子のおかげだ。
痛みであふれた涙をぬぐい、顔を上げる。
待っていてくれていたのか、少女はすぐ目の前で僕の目線に合わせるように、膝をつけていた。
「すみません、ありがとうございます。本当に助かりました」
「いえいえ、お気になさらないでください。私はたまたま通りがかっただけですから」
涙がきちんと晴れ、ようやく少女の姿がはっきりと左目に映る。
なんとも可愛らしい顔立ちで、もし僕が男なら惚れていたかもしれない。そのくらいの美少女だ。アイドルグループに混ざっても目立ちそうなくらい。
それとはまた別に、大正時代の女学校を思わせる、まるでタイムスリップしてきたかのような服装も印象的だ。
総括すると、一昔前の時代にいそうな美人といったところか。
唐突に我に帰る。完璧に見とれてしまっていたようだ。
「お名前をお聞きしてよろしいですか?」
「私ですか?私はですね――」
直後、僕はその名前に驚愕させられることになる。その名は現代にまで語り継がれ続け、伝説の一つとして君臨するものだったからだ。
そしてなによりもまず、荒唐無稽だった。
「沖田総司です」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます