ジゴロ探偵の甘美な嘘2〜仮面の恋〜

涼森巳王(東堂薫)

仮面の恋

一章

一章 1

https://kakuyomu.jp/users/kaoru-todo/news/16816927859337530703表紙



 その日の始まりは最悪だった。


 朝、ワレスは自宅のベッドで目をさました。

 ヒマをもてあました貴婦人の、夜の相手をすることが商売のジゴロのワレスとしては、すこぶる珍しい。

 厚いカーテンをとざした薄暗い室内で、心地よく惰眠だみんをむさぼっていた。


 なのに、階段をかけあがる騒々しい音がしたと思うと、乱暴にドアがあけはなたれた。


「顔を見せてごらんなさい! ワレス!」


 二日酔いの頭に金切り声がつきささる。ワレスの眠気はふきとんだ。せまくるしい借家のベッドで、一生涯、聞くはずのない声だったからだ。


 目をあけると、戸口に、貧乏所帯に不似合いな豪華絢爛ごうかけんらんな宝石を数々、身につけた貴婦人が立っている。愛人で後見人の女侯爵、ジョスリーヌだ。


 なぜ、こんなところにジョスリーヌがいるのか?


 ジゴロという商売に理解があり、気前のいいジョスリーヌを、ワレスはただの金づる以上に愛していた。だが、気のあう友人以上には思っていない。

 したがって、このささやかな牙城がじょうの住所を、ジョスにはナイショにしていたのだ。


 ジョスリーヌの大邸宅にくらべれば、たとえ犬小屋にも劣るとはいえ、ワレスにとっては、ここがゆいいつ、完全に一人になれる大切な場所だ。


 ジゴロにだって、たまには孤独を愛したいときがある。

 そのくらいの自由は許されるべきではないだろうか?

 いくら、ワレスの全生活が、ジョスのばくだいな財産のうちのほんの一部で、まかなわれているからと言っても。


 ワレスは怒って、とびおきようとした。が、それより早く、ジョスリーヌが闘牛のようにベッドにつっこんできた。ワレスを押し倒し、馬乗りになる。


「顔はッ? 顔は大丈夫なの? あなたのキレイな顔は——」


 がっちり両手でワレスの頭をはさみ、のぞきこんでくる。あまりの剣幕に、ワレスの怒声もひっこんだ。


「……なんだよ? おれの顔が、どうしたって?」

「あなたのキレイな顔が、メチャクチャになったって聞いたのよ。前歯が全部おれて、鼻を骨折したって。青い目が見えないくらい、はれあがったって」


 薄暗がりのなか、高慢な貴婦人のあわてふためいた表情が見えた。同時に怒りは、すとんとおさまった。

 この人のワガママに、いちいち腹を立てていては、きりがない。それも、ワレスの身を案じてのことなら、なおさら。


「誰がそんなデタラメを言ったんだ? おおかた、昨日のケンカのことを聞いたんだろうが」

「ロディーから聞いたのよ。あなたがカフェで酔客とケンカして、顔をメチャクチャにされたって……」


 よほど心配したらしい。

 小娘みたいに涙ぐんでいるジョスリーヌを初めて見た。


「ロディーの言うことなんか本気にするなよ。あいつは商売がたきのおれをきらってるんだからな。見てのとおり、おれの顔はなんにも変わってない。相手の男は鼻血をながしてたが、骨までは折ってないだろう。前歯を折ったのは、カフェに花売りに来てた小僧だしな。もともと乳歯がグラついてたんだ」


 酔っぱらいが花売り小僧の足を、わざとひっかけて泣かしたので、ワレスは自分の長い足を男の足元にさしだしてやった。

 花売り小僧が、いかにも、みすぼらしく、みじめったらしかったので、なんとなく見すごすことができなかった。


「なんだって、そんなことに?」

「なんでもいいよ。たいしたことじゃない」


 ワレスはジョスリーヌを安心させるために、ベッドから手をのばして、カーテンをひらいた。明るい光が室内にまぶしく差しこんでくる。


 ワレスの顔を見て、ジョスリーヌはホッと安堵の吐息をもらした。とたんに、とり乱したことを後悔したらしい。急にとりすました冷たい口調になる。


「なんでもないならいいわ。あなたの価値は顔だけなんですからね。以後、気をつけなさい」


 ワレスの上に馬乗りになったまま、威厳をたもとうとしている。おかしくなって、ワレスは笑った。


「なぐりあいのケンカなんて、これまでも何度もしてるよ。あんたに会う前は、半分、アル中みたいなもんだったからな。毎日、酔ってケンカしたものさ」


 ジョスリーヌの顔色が、また青くなった。

 ワレスも言いすぎたと自認した。これはジョスリーヌの前では禁句だった。


 ジョスリーヌと出会って五年になる。彼女にひろわれた当時、何をしていたのか聞かれるのがイヤで、それ以前のことは、ずっと秘密にしていたのだ。ワレスには誰にも言いたくない過去がある。


 ワレスはジョスリーヌの顔色をうかがった。

 ありがたいことに、ジョスの関心は別のことに向いてくれた。ただし向かった方向が、またメンドウだったが。


「すねなくていいのよ。よく考えたら、あなたにはキレイな顔以外にも、素晴らしい才能があるじゃない。あなたは頭のいい人よ」


 ワレスはイヤな予感がした。ジョスリーヌがワレスの頭脳の出来を、あれこれ言いだすときは要注意だ。


「イヤだね。おれはあんたの言うとおり、顔しか取り柄がないダメ男だ。おとなしく家にこもってるから帰ってくれ。こんなボロ屋でも、おれの家なんだ」


「あらあら。どうして、そんなに卑下するのかしら? ねえ、ワレス。あなたには才能がある。わたくし、あなたを尊敬していてよ。あなたには、犯人を見つけて事件を解決するっていう、立派な才能があるじゃない」

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