第166幕 例え死ぬ事になろうとも

 俺はもう一本のナイフの方も、自身の手が傷つかないように二本の指で抑えるように挟み、身体強化の魔方陣をエセルカよりも多く展開する。


 向こうはその軽い体重を精一杯使った上で強化してきている。

 こっちはたかだか二本の指で抑えてるだけなのだからはっきり不利だと言えるだろう。


 その事がわかっているからか、エセルカは更に魔方陣を展開して……一種の戦いになってしまっている。

 が、流石にここで引くことは出来ない。


 いくら俺でも、心臓にナイフを突き刺されてしまったら死んでしまうからだ。


「くっ、う……なんで……なんで!」

「エセルカ、諦めろ。

 お前じゃ俺は殺せない」

「いやっ!」


 さっきまでの喜びに満ちた表情とは違い、どこか必死ささえ感じる焦りと悲しみに溢れた顔。

 歯を食いしばって荒い息を吐く彼女は、祈るようでもあった。


「エセルカ――」

「だって! アンヒュルの……魔人の国に行ったらグレリアくん、またどっかに行っちゃう!

 私、もう一人だよ? お母さんは私の事、忘れてた!

 お父さんに知らない子だって言われた!! もう……君しかいないの……!

 だから、一緒にいてよ! 一緒に……死んでよ……」


 泣き叫びながら、心が、魂が悲しみ、絶望に身を引き裂かれそうな程の嘆きと切望が、俺に降り注いできた。


 ……今のエセルカは、両親に会ったのか。

 いや、それもわかる気がする。


 ジパーニグに元々彼女の居場所は多くなかった。

 それに、連行されて帰ってきたということは、両親がどんな目に遭わされているのか不安を覚えるのには十分だろう。


 そして結果……家族はエセルカの事を何も覚えておらず、彼女は心に深い傷を負ってしまった。

 恐らく、俺もセイルも親兄弟に会ったところで誰も覚えてはいないだろう。


 エセルカを絶望させるためだけにそんな事をしたとは思えないからだ。

 確かに、こういう事になる覚悟はしていた。


 いや、むしろもっと最悪な事になっていた可能性だって十分にあった。

 俺にとってその結果は、産んでくれた二人が危険な目に遭うことはないだろうと安堵に繋がったのだから、まだ優しい方だろう。


 記憶を消すだけで留めた――ということは、相手にも無闇に誰かを殺めるような事を避けている者がいる……ということになるからだ。


 だけど、それは俺に限った話だ。

 肉親が自分の事を忘れ、笑みを浮かべている光景――それは耐え難いことだろう。


「エセルカ……辛かったな」

「グレリアくん……」

「でもな、俺は今死ぬわけにはいかない」


 互いに感情を押し合うように力を込め続ける。

 孤独になり、依存し、共に死ぬことで永遠の繋がりを求めるエセルカ。

 それを冷静に受け止め、彼女の感情を否定せず、行為を否定する俺。


「なんで……」

「俺にはやらなければならないことがある。

 だから、やり遂げるまで死ぬわけには行かない」


 何を企んでいるのかはわからないが、人々の記憶を消し、思うままに操る者たちを……俺は許してはならない。

 例えそれがどのような巨悪であったとしても……俺は戦い続けるつもりだ。


「そんなの、そんなの知らない!」

「……エセルカ、聞け」


 駄々をこねるように頭を左右に振って、涙を流しながらナイフを持つ手に余計に力を込める。

 俺の方もなんとか抑え込みながら、なるべく言い聞かせるような、優しい声音を努めることにした。


「お前が望むなら、ずっと一緒にいよう。

 事が済んだ後なら、お前に殺されてもいい」


 エセルカはきょとんとした表情でじっと俺の事を見つめていた。

 そこには暗い笑顔を浮かべていた時と違って、本当に何を言っているのか理解できていない顔だった。


「……本当? 本当に、ずっと一緒にいてくれる?

 私、他の子と仲良くされるのは嫌だよ? 傷つけちゃうかもしれないよ?」

「それなら俺が止めてやる。

 お前が道を外れるというのなら、何度でも俺が呼び戻してやる。

 お前が離れたくないのなら、俺もお前を離さない」


 それは俺がエセルカを元に戻さない選択をした時に決めた、覚悟のようなものでもあった。

 俺の決意がしっかりと伝わったのか、エセルカはナイフを持つ手を緩め、徐々に魔方陣を解除していった。


「グレリアくんって、そういう事さらっと言うから、ずるいよね……。

 本当に実行してくれるってわかるから、何も言えなくなっちゃうよ」


 エセルカはナイフから手を離して、そのまま俺の上から降りてしまった。

 そこにはさきほどの苛烈さは一切なくなってしまい、どこかしおらしささえ感じる程だ。


「責任、取ってくれるんでしょ?

 絶対に、逃さないからね」

「ああ、逃げも隠れもしねぇよ」

「ふふっ、嫉妬深いんだからね? 丁寧に扱ってよね」


 軽く微笑んだエセルカは久しぶりに以前の彼女の笑顔を浮かべていた。


 彼女は着崩れた服を元に戻した後、隣に潜り込んで横になって俺の顔を見上げていた。


「あ、今襲っても良いんだよ?」

「せめてもう少し大人になってから言うんだな」

「……もう十分大人だもん」



 少しぶすくれた後、軽くあくびをして……そのまま眠ってしまった。

 確かに、以前のエセルカと比べたらかなり変わってしまったところもあるだろう。


 でもこんな彼女にもまた違った魅力がある。

 なら俺に出来る事は、元に戻せる時が来るまで面倒を見てやる事だろう。

 例えそれで……死ぬ事になろうとも。

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