未知の海原
ス々月帶爲
作品に登場する人物や艦等の説明
登場人物
実在する人物で、この作品に登場させていただいた方々を紹介しようと思います。
・大日本帝国海軍連合艦隊司令長官
山本五十六元帥海軍大将(最終階級)
日本海海戦等に参加した、軍人。子供の頃から海軍の話を聞かされていたため、海軍兵学校を志望し、200人中2位で入学した。真珠湾攻撃の案を何年も前から構想していたりする、策士であったがアメリカと開戦状態になるのは反対であった。最期は、1943年4月18日、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空の一式陸上攻撃機機内で迎えた。前線偵察のため、搭乗していたという。
・大日本帝国海軍連合艦隊第一航空艦隊旗艦赤城艦長(当時)
長谷川喜一海軍大佐(最終階級は海軍中将)
『龍驤』の艦長や数々の航空隊、航空戦隊の司令官を経験した軍人。埼玉県生まれで、海軍水雷学校高等科で学んだ。最期は、1944年3月29日、トラック諸島で三号爆弾を載せたトラックに同乗中、爆発事故が発生したことによる。
・大日本帝国海軍連合艦隊第一航空艦隊司令長官
南雲忠一海軍中将(最終階級は海軍大将)
海軍兵学校を卒業後、海軍砲術学校、海軍雷術学校、海軍大学校等に在籍。『那珂』、『高雄』、『山城』等の艦長を経験後、第一航空艦隊司令長官の座に就いた。その後は、第三艦隊や第一艦隊等の司令長官、佐世保鎮守府の司令長官を務めた。南雲大将は、「水雷戦術の第一人者」とも言われるほど雷撃戦が得意であったため、複数の航空艦隊を指揮した経験を持つ彼は現代では「悲劇の提督」等と言われたりする。最期は、マリアナ諸島サイパン島で1944年6月15日に発生したサイパンの戦い。1944年7月6日に自決した。
・大日本帝国海軍聯合艦隊第一航空艦隊航空参謀
希望していた海軍兵学校に入学、上位の成績で卒業。その後、海軍砲術学校普通科学生となり、在学中に航空関係の技術を学んだ。砲術学校、水雷学校を卒業した。1928年に霞ヶ浦海軍飛行隊(教育のための隊)に入隊することとなった。着陸の失敗により一年程トラウマになったそうだが、第19期飛行学生を首席で修了し、パイロットとして赤城の乗員となった。戦前より、航空主兵論を唱えたり、急降下爆撃機の必要性等を解いたりしていた。また、源田サーカス(空中サーカス)が精巧な飛行でかなり評価されていた。パイロットでありながら頭が回る。その点を見抜かれ、早いうちから大本営に引き抜かれたため実戦でのパイロット経験は無い。戦後は、航空自衛隊にも関わり、初代航空総隊司令を務め、第3代航空幕僚長をも務めた。ブルーインパルス創設者でもある。赤十字飛行隊の初代飛行隊長。航空自衛隊、いや戦後日本の航空業界の根幹を作ったと言っても過言ではない。参議院議員に当選し、政治家としても活躍。戦後に登場した戦闘機はほぼ操縦した。前日に戦死した部下の名前を読み上げ、読経していた。戦死した部下の名前や死没日等をまとめ上げた書物、遺書などを大切に保管していた。1989年8月15日、脳血栓で都内の病院で亡くなった。部下を大切に想い、飛行機を愛していたのが源田實さんである。これでも、まだ書ききれていない項目がある。様々な会長、役職を務め、戦後日本の復興を支えた第一人者である。
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