3 静か

 朝食どころか、昼が過ぎ夕方近くまでヴェンツェルは戻って来なかった。

「罠に獲物が何もかかってなくて。捕まえようとしたんだが、無理だった。ドゥマの実とハーブしかなくてごめん」


 聞くと、石に紐を巻きつけて飛び道具を作ったり色々試行錯誤したようだが、仕掛けた罠もお粗末すぎて、これでは誰もだまされてくれなくて当然である。


「一日ほったらかしておいてなんだが、トイレは平気だったか?」

「平気なわけないだろう。這って行った。戻ってきて垂れ流してたらどうするつもりだったんだ」

 正確には伝い歩きだが、大げさに言ってやる。


「そんなことで今更見捨てたりしないから安心しろ。ちゃんと掃除するし、体だって拭いてやるさ。動けたなら良かったじゃないか」

「そういう問題じゃない。なにが安心しろだ」


 完全に八つ当たりしている。自由に動けない苛立ちをヴェンツェルも分かっているのだろう。

「悪かったよ」


 それ以上は言い訳せず、ドゥマの実の硬い殻を石で叩いて割り始めた。察しが良いのも、それはそれでムカつくものだ。

 手の平にザッと乗せられた実を口に入れる。実も硬いが、よく噛むと油分と甘みが滲み出てくる。


 静かだった。雪のせいではない。他人と一緒で声がせず、こんなに静かなことは久しくなかった。

 こいつは何も考えていないのかと思ったが、そうではない。

 自分の汚さを隠さないし、取り繕わないのだ。まるでこの世界に二人しかいないようだった。


 ハーブを煮出した熱い茶をすする。あの濁ったオレンジ色のいかがわしい薬草とは違い、すっきりした味にほんのり花のような香りがする。


「これは何に効く薬草だ?」

「別に。ただのリラックス効果だ。私の故郷じゃ、よく飲んでた」


「…二度と帰らない家か」

「なぜわかる?」

 当たり前の問いかけとして、ヴェンツェルは聞いた。


「俺には、人や物の記憶が異界テングスを通して見えたり、聞こえる」

 ぽかんとしたヴェンツェルの顔。


「こいつマジか、頭おかしいのか。そう思ってるだろ」

「うん」

「おまえ、忘れられない男がいるな。名はイーヴ。歳上だな。なぜ別れた?」


 ヴェンツェルの顔色が変わる。言葉が出るまで時間を要した。

っどろいた、本当なんだな! …そうか、私はあいつのことそんな風に思っていたのか」

 白い歯を見せ、少しはにかんだようだった。


「同じ傭兵団にいたけど、一年前にイーヴは先に独立したんだ。だからもう会うことはないと、しまいこんで忘れたつもりだったんだが、自分のことはわからないものだな。あんたに言われるまで気づかなかった」


 言葉を失ったのはヨハンの方だ。

 記憶を読まれていると知って、あんな顔をされたのは初めてだった。


 なぜ人の記憶を、心を読めるなどと簡単に話してしまったのだろうか。それはヴェンツェルがどんな顔をするのか見てみたかったから。そして静かなまま受け入れてくれるのではないか。そんな期待をしてしまっていた自分に激しく狼狽ろうばいした。


「よわったな、あんたの前じゃ隠し事ができないのか。でも、知ろうとしなくても知ってしまうのか? それはつらいものだな」

 そう言ってくれた人はこれで二人目だ。


 言葉を取り戻して、ヨハンは白い息とともに吐いた。

「つらいという感覚はもう忘れた」

 やはり、洞穴の中は静かなままだった。


「戦闘でも、次に相手がどう動くつもりか見えたり聞こえたりするのか?」

「そうだ」

「それって、あんたを倒すにはどうしたらいいんだ?」

「教えると思うか」


 先が読めることと、それに対処すべく体を動かすことは全く別物である。体がついていけなければ相手の動きが分かったところで何の意味も無い。

「神に授けられし力だけじゃないってことか。『孤狼のヨハン』でも鍛錬するんだな。動けるようになったら手合わせしてみたいけど、私なんかじゃ瞬殺か?」


 翠狼グリファとの戦いぶりを見れば、ヴェンツェルが幼年時代から鍛えられてきたのは明らかだ。肝の太さが何よりの証拠だし、動きには目を見張るものがある。

「かもな」


「あんた、短期間で傭兵団を渡り歩いているんだよな。元の仲間や傭兵団長クロムだろうと平気で殺すって噂だけど…。なるほど、そういうことか」


 単発契約の場合やよほどのトラブルがない限り、傭兵団長クロムの鞍替えはしないものである。しかしヨハンは何の前触れもなくそれを繰り返してきた。ゆえに『ツラの皮の下は嘘と裏切りまみれの汚ねえ奴』『人の心を持たぬ非道な異界テングス人』と言われている。


 一方で強さゆえ契約の依頼は絶えない。ニコニコ笑顔で高額な契約金を提示してくる傭兵団長クロムの蔑むや団員の疎むを聞きながら、実力だけでこれまでやってきた。


「それは生きにくいだろうな」

 ヴェンツェルは一人で納得し、ヨハンは答えないので沈黙が広がる。

 それでいて居心地の悪さは感じず、不思議な安心感があった。


「寒いな」

 火のそばだが、ヴェンツェルが膝を抱いて震えた。洞窟の外はまた雪が降り始めて、冷気が忍び寄ってくる。


「食ってないからな。天気を見て、明日から下山を始めよう」

「あれ、這って外に出たんじゃないのか?」

「明日には良くなってる」


 言いながら、ヨハンは掛けていた毛皮を少し持ち上げる。ヴェンツェルはちょっと躊躇ちゅうちょしたが、目が合うと身を寄せてきた。上から包んで、くっついて寝転がる。


「なあ、あんたの話を聞かせてくれないか。私の過去ばかり知られてちゃ、割に合わないからな」

「面白い話は無いぞ。ずっと人を避けてきたからな」


「そうは言っても、あんたにだって忘れられない人の一人くらいはいるだろう?」

「『雷帝クヌード』は強かったな」

「って女じゃなくて男の話? 雷帝と戦ったことがあるのか?」


 『雷帝クヌード』はマリウス・クヌード団という一万人規模の傭兵団長クロムで、傭兵界最強と言われる男だ。


「戦ったこともあるし、クヌード団にいたこともある」

「すごいな! 雷帝ってどんな男なんだ?」

「そうだな、」


 見た目はどこにでもいる普通の男で、と考えていると、胸に置かれたヴェンツェルの手が心臓の鼓動に合わせてそっとリズムを刻む。別れた男にもこうしていたのだろうか。ふとそんなことを思った。


 静けさを求めて来たはずの冷たい里山に、温もりなど不要だった。けれども今、ヨハンのそばに常にあるはずの異界テングスは姿をくらませ声も聞こえない。こんなことは今まで無かった。


 まるで新雪に覆われた真っ白な景色のように、汚れて異質な存在もやさしく包み込んでくれるようだ。

 一つに溶け合った体温が心地良く、いつのまにかヨハンは眠りについていた。

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