番外編
孤狼の爪
1 群青色の傭兵
冬が好きではなかった。特に雪は、静けさを際立たせる。
静けさの中では人の声が余計に響いて、だから毎年人里離れた山の中で過ごすことにしているのだが、今年も戻って呆然とした。
斜面の下に街道が切り拓かれていたのだ。去年ここを発った後に着工したのだろう。木と木の間をぬいながら、向こうまでずっと続いている。
確かにブレア国西部の
とはいえ、この季節に往来は多くはないだろう。
針葉樹に覆われたこの山は、冬でも緑が深い。
馬に載せてきた荷物を下ろし、早速ヨハンは取り掛かる。慣れた手つきで低木に雨よけを渡し、覆いを作った。焚火を起こし、食糧と毛皮の敷物と寝具は洞穴の奥に隠す。
ゴツゴツした斜面の中腹に、わずかに開けた平坦な所だった。鞍を外してやった馬は近くで草を食んでいる。
新しい街道を挟んだ向こうには沢があり、せせらぎの音が絶えず耳に入る。それもここを気に入っている理由の一つだった。
その夜は持ってきた干し肉に、道中で採取した青菜やキノコを加えて鍋を作った。小麦粉を水で練った団子も入れてある。
雲行きが怪しいと思っていたら、夜半から本降りの凍える雨になった。夜が明けても弱まるどころか、辺りが白むほどの土砂降りだ。
午後になると雨は弱まり、昨日仕掛けておいた罠にかかっていたウサギを
「隊商か」
荷台が全部で八台に、人が乗る馬車が二台。ダインへ向かう毛皮商だろう。
ぬかるみに車輪がはまったようで、せーので馬が曳き後ろから人が押している。
隊商には護衛の傭兵がついており、一緒になって押して引くが一向に抜けない。
不意に、ヨハンの馬がぴくりと反応する。———いるのだ。
「大丈夫だ」
首筋を撫でて落ち着かせる。
辺りに目を凝らし体内の波を鎮める。自分の鼓動すら感じなくなる。すると裏側の世界———
現実には、そこには何もいない。今ヨハンが見たものは
「ここは彼女らの縄張りだ」
群れで生活するのは
三年前からこの山に住みついている。ヨハンは群れのボスを負かしたことがあり、手なづけるまではいかないが、互いに敵ではないと認識するまで距離を縮めている。
つまり、翠狼が狙っているのはこちらではなく隊商の方だ。ウサギの血に引き寄せられたなら殺気をみなぎらせてではなく、分けてちょうだいなとしずしずやって来るはずだった。
「獲物か仔を奪ったか」
標的にされる理由はそれしかない。
かつて衝動的に戦ってみたいと思ったヨハンは、わざと横取りしたのだった。
「そうと知らずに捕えたのか」
黒と見紛うような濃い艶緑色の翠狼の毛皮は高値で取引されるし、仔は肉まで上質である。
奪われたものを取り返すまで、たとえ群れが壊滅してもその攻撃は執拗に繰り返される。
「あの傭兵たちが耐えられるか」
戦争オフシーズンのバイトで寄せ集めの傭兵だろう。翠狼の戦い方を知らねば、勝ち目はない。
その時、黒い艶緑の毛並みが木々の間からヨハンの側を次々と走り抜けていく。
「狼だ! 狼の群れだぞ!」
既に先頭の
十頭が一斉に襲いかかる。
「だが翠狼からは積極的には攻めない」
人を捕食するのが目的ではないからだ。そして攻撃されると必ず二頭ないし三頭の連携で反撃する。
それがあまりに見事なので、人の方は常に二頭以上を相手にしている感覚にさせられ、全部で三十頭いると錯覚してしまう。それが翠狼の戦術だった。
ヨハンはその中の一頭に目を止めた。荷台を狙っている。
「———彼女がボスだ」
攻撃をせずに荷台の匂いを嗅いで探している
傭兵の一人がボスに向かって斬りかかる。しかしかわされ、代わりに跳んできた別の翠狼に腕を噛みつかれる。それをものともせずに腕を大きく振り、ボスに向け叩きつけた。
この動きは翠狼にとっても予想外だったのだろう、狼同士ぶつかる直前まで唖然として、ようやく体をひねって散った。しかし傭兵の方はそれを許さず、迷うことなくボスの方を追う。
「翠狼の特性を知っているのか、とっさに今悟ったのか」
どちらにしろまず頭をやるという判断は正しく、見た目はどれも同じ翠狼が入り乱れる中、頭を見極めたのは大したものだ。
傭兵の体は小さい。まだ少年といってもいい年頃に見えた。
「珍しい色だな」
それはうつりゆく夜空をまとったような、群青色の髪だった。
今度は二頭の翠狼が、ボスへ近づけさせまいと群青の髪の傭兵に攻撃を仕掛ける。一頭が跳びかかる間に背後からもう一頭が襲う。腕、足と噛みつかれるが、傭兵は何度やられてもこたえる様子がない。
「あいつ人間か?」
疑うほど頑丈な奴だ。
そして、荷台からボスが二頭の小さな仔を咥えて出てきた。二頭とも動かないので、もう死んでいるのかもしれない。
それでも目的を達成した
馬がやられていた。荷台は横転し、修理しなければ動けない。負傷者もいるため、一行はそこで野営することにしたようだ。
ヨハンは治療器具を持ち馬の
「負傷者がいるのか、手当をしよう」
普段なら知らんふりをするところである。ましてや冷たい雨の中だ。
しかしどうしても気になった。手当を始めながら、群青色の髪の少年を探す。
隊商には家族らしき女子供もいて、ケガはなさそうだが、恐怖と寒さに泣いている。その近くで雨除けを渡している中に少年はいた。
見たところ、彼の
雨除けが完成して彼が一人になったところで、声をかけてみる。
「おい、傷を見せてみろ」
「…いい。平気だ」
「やせ我慢するな。かなり噛みつかれてただろう」
「あんた、見てたのか?」
合羽を着ていても冷たい雨に頭のてっぺんから爪先まで冷たく濡れて、気持ちはすっかり萎えてなお、その瞳は輝いていた。
「俺はヨハン。傭兵だ。名は」
「
「
「独立したてだ。悪いか」
「いや。すまなかった。傷を」
ヴェンツェルは渋々袖をまくり上げ、右腕を出す。ヨハンは目を疑った。
噛まれた跡は確かにある。が、傷ついているのは表皮だけなのだ。狼に本気で噛まれてこんなはずはない。
思わず腕を取ると、女のようにすんなりした見た目とは裏腹に、ドライフルーツやナッツがぎっしり詰まった重たいシュトーレンのようだった。
「だから言っただろう、平気だと」
「…消毒はしておいた方がいい。ラガの葉だ」
「ありがとう」
ラガの葉の汁には消毒効果があるが、とにかくしみるのだ。ヴェンツェルは葉をよく揉んで傷に当てると、ギュッと目を閉じた。
「おまえには
「翠狼の生態を学んだことがあったから」
生態を学ぶ。識字率すらまだ高くないこの国では、大学にでも行かない限りそんな経験はあり得ない。大学に行けるような教育など、それなりの社会的身分を持つごく一部の人間だけの特権だ。
こいつ、一体何者だ。
その時ただならぬ何かを感じて、ヨハンは辺りを探った。すぐに悲鳴が上がる。
はっとした時には沢がせり上がり、茶色の濁流が何もかも飲み込みながら迫ってきていた。
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