日常、時々、先輩

菜央実

第1話 8月某日土曜日朝の話(1)

 ぎらつく太陽の日差しを出来るだけ避けるように歩いたものの、農学部6号棟の玄関にたどり着く頃には汗が背中を伝っていた。


 夏期休暇中お盆前の土曜日、しかも朝の7時という時間に一般の学生の姿などあるはずがない。辺りは蝉の声がひっきりなしに聞こえるだけだ。ふと、子供の頃、普段より随分早起きした時のような孤独感を覚える。


 セキュリティロックを解除して重い扉を開けた。冷たく、にごった空気に思わず顔をしかめる。

 靴音の響く階段を上がり、三階の『動物管理学第二教室』のプレートの前に立つ。まずは、乱れた息を整えた。


 ガチャ


 ドアを開け、教室の奥にある自分の机に向かう。机、机、それから、この教室だけに置かれている簡易ベット。わずか3メートルの途中に見える光景をあえて意識から外す。肩に掛けたバックを置くと、ほっと一息ついた。


「……はよ」

「おはようございます」


 僅かな物音で、しっかり目を覚ましてしまったらしい。眠そうな眼差しが私を見上げる。タオルケットに包まる女性に頭を下げた。


「今日は知代ちよちゃんが当番?」

「今日というか、正確には今日からお盆も含めて五日間です」

「うわぁ、それって酷くない?」

「特に予定もなかったので」

「それでもさぁ」


 自分の事のように不満げな表情を見せる女性に、曖昧な笑みを返した。更衣室の鍵を開け、中に入ろうとすると、後ろから現れた手にドアを引かれる。


「待って待って」

「先輩も行くんですか?」

「一人よりも二人の方が早く終わるでしょう?」


 返事を待たずにシャツを脱ぎ出す姿に、自分もブラウスに手を掛ける。無言の時間が気まずくて、仕方なく口を開いた。


「先輩は予定とかないんですか?」

「ないねぇ」


 会話はすぐに終わった。大学の四年生ともなれば卒論に多忙なはずで、だからこそ私たち三年生が就職活動の合間をぬって、夏期休暇中の当番をこなさなければならない。それなのにこの先輩からは一度だって『不在』の連絡を聞いたことがなかった。


「まあ、来年もいるのは確定だしね。今更焦る必要なんてないよ」

「……はは」


 上手い言い回しについ笑ったが、俗にいう『留年』という言葉を置き換えたに過ぎない。だからこそ焦らなければならないと思うのだが、知り合って数ヶ月の先輩にそこまで言える度胸は無かった。

 半袖のシャツとツナギを身につけ、余った袖をベルトにして腰に巻く。タオルを首に巻いて、両手に軍手をすれば、いかにも農業系女子の完成だ。


「行こっか」


 着替えを終えた先輩がドアを開けた。 二人並んで階段を下り、照りつく日差しの元へ戻る。


「うわ、暑っ」


 地下から出てきたゾンビの様な呻き声に思わず笑う。そんな私の反応に気を良くしたらしい、笑顔がこぼれた。明るい表情が眩しすぎて、さりげなく視線を逸らす。農場へ行くまでの間、気まずさを誤魔化すよう、再び話題を探す。


「先輩、そのTシャツ作ったんですか?」

「ああ、これ?」


 先輩のシャツには中央に牛のシルエット、それを囲むように『Animal management』の文字がプリントされている。


「去年ゼミに入ったときに皆で作ったの。

 今の三年生はそういう話、出てないの?」

「出てないです……」


 同級生と会話はするものの、揃いのシャツを作るほど仲が良いわけでもない。先輩もそんな雰囲気を感じたのか「そんな学年もあるよね」とフォローを入れてくれた。


 やがて目的地の飼育棟が現れ、生き物特有の生臭さが鼻につく。


 ふと、隣で先輩が手を振っている事に気づいた。どうやら視線は、外付けの柵から私たちを見ている牛に向かっているらしい。その表情は親しい友人に会ったときのように明るい。


 そんな先輩の姿に見なかったふりをして、飼育棟の入り口をくぐった。

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