10 燃えるような恋なんかじゃない

 楽譜をピアノ教室に忘れて来たと気づいたのは、週が明けた月曜日の放課後だった。

 教室で帰り支度を整えている時、ふいにカバンの中に楽譜が入っていないことに気がついた。

 

「なんか今日の由香ちゃん、やけにご機嫌やんな」


 実に怪しい、と言いたげに汐織が由香の顔を覗き込む。その綺麗に生えた眉が、深く皺を寄せていた。「そうかな」、と由香は目をそらす。

 

 どこからか漂ってきたイチョウの香りが、由香の鼻をかすめる。校庭の木々も徐々に、秋色に衣替えをはじめ、肌を撫でる風は本格的な冷たさを帯び始めていた。


 学校からの帰り道、由香は再度、予備校用のカバンの中を確認した。楽譜を入れていたのは、こっちのカバンだったはず。放課後直接行けるように、予備校がある日はスクールバックとともに学校まで持って来ていた。一緒に入っているはずの楽譜が見当たらない。


「おぉ、もしや、これは進展ありですか? 由香さん」


 上機嫌に奈緒美がスマホをマイクみたいに近づけてきた。いつまで芸能レポーターのつもりなのか、と呆れながら由香は口元に向けられたスマホを手で退ける。


「なんでそうなるの」


 勘が鋭い、と思いつつ、バレないようにそっぽを向く。柵の向こうでは、運動部が大きな声をはり上げて練習していた。傾いた日差しが、無数の影をグランドに落とす。どの部活も三年生はみな引退をしていて、見しれた顔は一人もいない。


「でも汐織の言う通り、確かになんか嬉しそうなんよな」


 奈緒美の顔が由香に迫る。疑わしい、と言いたげに細められた双眸に、長いまつげがかかり、パチパチと瞬きをするたびにその毛が彼女の大きな瞳を強調した。由香は、ふいに鳴りそうになる喉を抑えようとゴクリと固唾を飲んだ。


「進展ってまさか……」


 由香を見つめる汐織の頬が、真っ赤に染まっていく。夕陽を吸い込んだみたいに艷やかなその頬が、少し熱を孕んだようだった。


「由香ちゃん、キッスをしたん?!」


 汐織の大きな声が響いた。運動部にも負けおじしないその声量は、周りの人の注意を引くのに十分だった。下校中の何人かの生徒が、こちらを向きヒソヒソと会話をしている。自分で言っておいて恥ずかしかったのか、彼女の小さな両手がその顔を覆った。


「なんでわざわざ大きな声で言うの」


 由香は、汐織の口を手で覆う。小さな彼女の体躯を抱え込むようにして、無理やり人通りの少ない路地へと逃げ込んだ。


「こっち遠回りなんやけど」


 奈緒美が、不満そうに頬をふくらませる。


「仕方ないじゃん、あんなに見られちゃ歩けないよ」


 汐織が苦しそうに短い手足をバタバタとさせた。由香は、ごめん、と謝りながらその手を離す。


「由香ちゃん!」


 汐織が由香の手を握る。その手は、由香よりずっと小さく、そして温かった。


「今日の由香ちゃんは、とってもかわいい! いや、いっつもかわいいんやけどね。それよりもずっとかわいい! きっといいことあったやろ?」


 汐織の目は、真っ直ぐ由香を捉えていた。アーモンドに似たその瞳に、自分の顔が映し出されている。素直とは、ほど遠いそいつの顔を見て、由香は深くため息をついた。彼女に見られると不思議な気持ちになる。つい、大事なことも話してしまうのだ。

 由香は、駅への迂回ルートを歩き出しながら、昨日の出来事を話し始めた。


 ――――――――


「まさかの二人っきりやな」


 奈緒美が感心したように腕を組む。大きな彼女の胸は、その腕にずっしりと乗っていた。


「もう恥ずかしくて、恥ずかしくて……」


 思い出しただけで、胸がいっぱいになった。肺の中に溜まった何かを、吐き出してしまいたい気持ちになる。


「やっぱり由香ちゃん、恋してるんやな」


 汐織が、うっとりとした目で羨ましそうにこちらを見つめた。その彼女の言葉を、由香は否定できなかった。自分が必死に、ニヤけ顔をごまかそうとしていることを自覚していたからだ。


「でも、今思えばなんだけど、どうして私の名前知ってたのかな」


 話題を変えて、誤魔化したかったワケではない。純粋に気になった。彼の去り際の言葉を思い浮かべる。


「立花さんも文化祭頑張って――」


 確かに、彼はそう言った。どうして、由香の名前を知りえたのか。宮本先生が、立花という女の子が部屋にいると教えたのだろうか。それならば、帰り際に先生からなにか一言ありそうなものだ。挨拶をしたが、特に何も知らされなかった。


「その人も教室に通ってたなら、昔に会ってるんとちゃう?」


 奈緒美が、いつの間にか買っていた缶ジュースのプルタブを開ける。彼女の細くしなやかな指に弾かれて、シュッとした心地よい音をたてながら炭酸が抜けた。


「うーん。でも、それはあるかも知れない。つかしんで聴いた時、演奏に聞き覚えがあったんだよね。随分前に聞いた気がする。でも、」


 そう言って、由香は口ごもる。ショッピングモールでの演奏の時、彼の演奏に聞き覚えがあった。だが、由香は教室に通っていた当時にあんなに上手な人がいた記憶はない。そもそも、あまり他の生徒とは関わりはなかったはず。


「でも?」


「中学のときだったら、さすがに覚えてると思うだよね。あれだけピアノが上手だったら教室内でも一目置かれてたはずだし。私が教室に入った時には、個人レッスンに切り替えてたんじゃないかな」


 そう、あんなに上手なピアノを忘れるはずがない。由香の中に漠然とひしめく懐かしさが、それはずっと昔のことなんだ、と告げているようだった。


「ええなぁ、恋の悩み。うちも燃え上がるような恋をしたいわ」


 手を胸の前に組みながら、汐織が天に向かい仰々しく祈りを捧げる。細く小柄な彼女のその姿は、天使のようだった。


「別に、燃え上がるような恋はしてないから」


「恋してることは否定せんのやね」


 汐織がニンマリと笑みを浮かべた。由香は、しまった、と豆鉄砲を食らったように目を開く。


「素直にならんとね、うち応援してるで」


 くるり、と汐織が踵を返す。背中のあたりまで伸びた真っ直ぐで綺麗な黒い髪が、サラサラと翻る。しなやかなその毛が、ふわりとシャンプーの香りを撒き散らした。

 その笑みに、どこか切実さを感じる。ノー天気に見える彼女だが、常に他人の気持ちを推し量っていのだ。青春を素直に生きる大切さ、それを彼女は確かに知っている。


 汐織がいなければ、きっと自分の気持ちを、恋だと捉えることはなかった。ただ演奏に惹かれただけ、そう片づけていただろう。大人ぶって本当の気持ちを胸の奥で押しつぶしていたことだろう。彼女が、随分と大人に見えた。この幼気な少女は、しっかりとした考えを持っているのだ。


「それじゃ応援も兼ねて、みんなで甘い物でも食べに行こう」


 多分。無邪気にはしゃぐ汐織の背中を見ながら、由香は心の中でそう付け足した。


「ごめん、うち予備校前に用事あるから先帰るな」


 奈緒美が、申し訳なさそうに手を合わせ、頭を下げる。


 用事なら仕方がない、と由香が汐織の方に視線を向ける。彼女はすごく怪訝な顔をして、随分と拗ねた口調で言った。


「えー。それなら仕方ないな。由香ちゃん二人でいこか」


「二人でも行くんだ」


 汐織は、当たり前やん? と言わんばかりの表情を浮かべる。憎たらしいが、これも実に可愛らしい。


「それじゃ、由香はまた予備校で。汐織はまた明日な」


 奈緒美は、改札のある階段の方に向かいながら手を振った。それに手を大きく振り返しながら、汐織が「また明日なぁ」と猫なで声を出す。

 阪急西宮北口にしのみやきたぐち駅の北出口は、この時間、学生たちでごった返していた。由香は、手を振り返しながら、駅前の広場に立つ緑色の時計台を眺めた。


「あと、予備校まで一時間くらいだ。食べに行くなら早くいこう」


 わーい、と汐織が小さな体躯を目一杯広げながら喜んだ。

 予備校に行く前、楽譜を取りにピアノ教室に寄るつもりだったが、叶いそうになかった。


 明日もバイトがある。いつ取りに行こうか。そんなことを考えながら、駅の反対側にある大型の複合ショッピング施設に向かった。

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