9 ラブソング

 由香は、重たい鍵盤の蓋を持ち上げた。中には、白と黒の鍵盤が綺麗に並んでいる。いつもよりその幅が広く、壮大に見えた。自分がこの鍵盤で音を紡ぐイメージを浮かべる。想像の中の自分は、思うほど上手くは弾けない。



 黒い椅子に腰掛け、宮本から受けとった譜面を譜面盤の上に置いた。



 大きく息を吸い込むと、由香の小さな胸が膨らむ。これくらい大きければ、と一瞬考えて、一息で肺に貯めた空気を吐いた。

 膨らんだ胸が萎んでいく、それと同時に譜面が少し揺れた。楽譜の出だしのお玉杓子を睨む。その音を確かめ、由香は、鍵盤へとゆっくり手を伸ばした。



 こうやってピアノに構えるのは、ものすごく久々に感じる。実際、数年触っていないのだからしかたないが、あれほど毎日、弾いていたものが遠いものになっていたのだ、と由香は改めて実感した。



 鍵盤に据えた指先に力を込める。決して固くなりすぎないように加減して、緩やかに降ろされた指が鍵盤を弾く。それにつられ、ピアノの中でハンマーが弦を叩く。美しく綺麗な音が、防音設備の備わった部屋に響いた。



 由香は、唇を噛んだ。少しだけイメージしていたものと違う。もっと繊細でしなやかな音。中学時代は出ていたはずだ。そう思い、深く呼吸を整え、もう一度鍵盤を弾く。


 今度は、イメージに近い音が出た。これならイケるかもしれない、と大げさに頷き、もう一度大きく息を吸い込むと、流れるように演奏を始めた。



 由香のイメージは、膨らんでいった。そのイメージする音を一つひとつ拾っていく。当時の感覚が、徐々に自分の中に溶け込んでいくのが分かる。大きなホール、そのスポットライトが当たったステージの上で演奏をしていた。

 緊張が支配する胸を抑えながら、舞台の袖から真っ直ぐピアノへ向かっていく。客席にお辞儀をして、椅子に座る。ドレスが折れないように丁寧に。柔らかくした手を鍵盤の前に構え、腕を下ろす。それから続く自分ひとりのステージ。静かなホールに自分が奏でる音が響き渡る。誰も除魔できないその世界の終わりには、客席からの拍手が待っている――。



 演奏が途切れた。知らず知らずのうちに、肩で息をしていた。どれくらい弾いていたのだろう。額には、わずかに汗が滲んでいるのが分かった。

 いつ以来だろうか、こんなに楽しくピアノが弾けたのは。ただ、最後の方で、大きくイメージが崩れた。もやもやとした感覚が記憶をぼかす。一瞬、蘇る暗い感情が、興奮した胸の鼓動を抑え込んでいく。



 どうして、ピアノを嫌いになったんだろう。そう思った瞬間、由香の背中から拍手が聞こえてきた。




 パチパチパチ――。




 慌てて振り返ると、黒いカーディガンを羽織った男の子が扉にもたれていた。紺色のネクタイが、細いその首元に巻き付いている。爽やかな程度に伸びた黒い髪が、窓からの光でほんの少し茶色がかっていた。



「へ?」



 また由香の妙な声が漏れる。そこにいたのは、あの日、つかしんで演奏していた彼だった。どうして彼がここにいるのか? 由香の頭は混乱しパニックを起こす。



「上手だね」



 彼は、とても柔らかく朗らかな笑みを浮かべた。緩んだ口端から、白く透明感のある歯がわずかに見える。腕には、どこかの学校の制服だろうか。紺色のブレザーが下げられていた。



「なんでいるんですか?」



 驚きのあまり由香は立ち上がった。ガチャン、と音を立て椅子が引かれる。衝撃で楽譜が床に散らばった。


「勝手に入っちゃまずかった?」



 彼は、少し怪訝な顔をした。その表情は、随分と素直で申し訳無さと可愛らしさが混在していた。

 慌てて由香は、首を横に振る。



「いえ、そうじゃなくて。どうして、このピアノ教室にいるんですか?」



「ここは、僕の母校だからね」



 彼が不思議そうな顔をして肩をすくめる。確かに、ピアノをやっている彼がピアノ教室にいるのは道理だな、と由香は納得した。ただ、由香が聞きたいことはそういうことではない。



「そうでなくて…… なんで。あぁそうですよね、母校だからですよね……」


 自分の聞きたいことの答えが、結局、母校だからという言い分で片付けれることに気づく。あの日、由香が演奏を聞いていたことなど、彼が知る由もない。



「普段は、家で個人レッスンを受けているんだけど、たまにここに来るんだ。演奏に迷った時にね。楽しく弾いていた頃を思いだせるから」



 彼の真っ黒な瞳が、ほんの少し曇ったのが分かった。由香から逸らされた視線は、ここじゃない遠くを見ている。掴めないものを求めるような色合いの瞳は、懐かしい日々を思い出しているようだった。



「そんなことないですよ。この間のつかしんの演奏とっても良かったです」



 思わずそんな言葉をかけた。由香には、一昨日の彼の演奏から迷いなど感じられなかったから。思わず、両手に力が込められる。ぐっ、と握りしめた手に熱く血が通うのを感じる。



 彼は、目を丸まるに見開いた。男性にしては長いまつ毛が、その双眸を綺麗に縁取る。ほんの一瞬、彼の瞳がキラリと光った気がした。ただ、彼はその瞼を閉じて、すぐに顔を綻ばせる。



「ありがとう。一昨日、来てくれてたんだね? 君のドビュッシーもなかなか良かったよ」



 気づかないうちに彼と同じ曲を演奏していたらしい、由香は、自分の頬が赤くなっていくのがわかった。落とした視線の先では、自分の手がワンピースの裾をギュッと握っていた。


「迷ってるんですか?」



 瞳だけ彼の方に向ける。上目気味になった視線は、前髪の隙間からほんの少し緩んだ彼の表情を捉える。



「ちょっとね、でも大丈夫。今日、いいものが聞けたから」


「え? 私の演奏ですか? 私の演奏なんて別に、」



 上手だったよ。そう言ってくれる彼の柔い笑みに、ただただ頭がクラクラしていく。溶け出してしまいそうな脳みそを、固形に保つ手段を知らなくて、由香は熱を持った頬を両手で抑え込んだ。


 ふと時計に目をやる。短針が四の数字を越えていた。気づかないうちに数時間は、弾き続けていたらしい。溶けかけていた脳みそが、急速に固まっていく。


 ようやく、彼がこの教室を次に使う予定であることに気がついた。



「ごめんなさい、時間ですよね? すぐに出る準備します、とんだご迷惑を……」



 慌てふためきながら、床に散らばった楽譜を拾い集める。



「もう少し演奏していても大丈夫だよ。予約を入れていたのは、五時からだから。僕が少し早く来すぎただけだよ」



 そう言うと彼は、由香の隣にあった講師用の座椅子にジャケットを掛けた。


 由香が拾い集めていた楽譜に目をやる。



「その楽譜は?」


「学校の文化祭で合唱するものです。今日は、これの練習をしようと思って、」



 彼がふいに手を差し出した。由香は反射的に、差し伸べられた手に楽譜を手渡す。手渡された楽譜を彼が真剣見つめる。その表情は、由香の視線より少し高い位置にあった。



「『ダンシングクイーン』か。楽しくて明るい曲だね。文化祭の合唱にピッタリだよ」



 学校コンクールの時、知っておいた方が良いと歌詞の訳を奈緒美が教えてくれた。恋をする少女に、青春の後押しをする曲。踊りだしたい気持ちは、今の由香にはなんとなく分かる。



「でも簡単…… ではないね。合唱の伴奏は、単純に思えるけど、歌っている集団に常に合わせなくちゃいけない」



 彼は、楽譜盤に楽譜を並べると、椅子に腰掛けた。ちょっと見ててね。彼は、そう言いながら、鍵盤に触れる。すると、驚くほど柔らかな音の粒がピアノから溢れ出てきた。本当に同じ人間が弾いているのだろうか、と由香は疑いたくなる。

 さっきまで、自分が弾いていたものと比べ物にならない。彼の奏でる音は、一つひとつが鮮明に浮かび上がり、教室中へと弾け飛んでいく。その粒に満たされて、まるで音の海にこの教室が沈んでしまったような感覚に由香は陥った。



「さあ、一度、弾いてみて」



 彼が演奏をやめると、音の水が、サーっと部屋から引いていく。静けさを思い出した教室に、由香の「はい」という強張った声が響いた。



 彼に席を変わってもらい、由香が鍵盤に構える。思ったように手が動かない、しなやかだった手に力が入り固くなってしまっている。



「緊張しなくても大丈夫だよ」



 彼の言葉に、由香は大きく息を吸い込んだ。由香の背中を、彼のしなやかで細くそれでもほんのりと厚みのある手が、ぽんと叩く。一気に吐き出された空気が、部屋中を包み込み、由香の緊張を解いた。



  先ほどの彼の演奏を思い出しながら、由香は鍵盤を弾く。彼の出した音を粒に重ね合わせるようなイメージで音を紡いでいく。



「どうですか?」



 椅子に座ったまま、由香は振り返った。


「悪くないよ、もう少しこの辺りに気をつければ」



 彼が楽譜を指差す。由香の顔の近くまで、彼の胸元が接近した。彼の甘い香りが鼻を刺激する。顔から火が出そうとは良く言ったものだ、倒れてしまいそうなくらい体温が上がっていく。


「ここのピアニッシモにも気をつけて、それから――」



 彼のアドバイスが耳に入って来ない。脳内がじんわりと、甘い何かに包まれていくようだった。由香は、左手で隠すように自分の脇腹をつねった。

 チクリとした痛みが、由香をしっかり現実へと連れ戻してくれる。



「それじゃもう一度、弾いてみて」



 教室にまた、由香のピアノが響いた。窓から漏れる秋めいた西日が、二人を包み込む。小さな陽だまりなんかより、ずっと確かな彼の温もりを背に、由香は音符を繋いだ。流れていく時間が妬ましい。どうかこの曲が、この演奏が、終わらないで。跳ねるメロディにそんな願いを込める。


「いい感じだね」



 彼が朗らかな笑みを浮かべる。窓の向こうで、薄明るい光が、地平線の彼方に最後の輝きを放っているのが見えた。

 気がつけば、すっかりは陽が沈む時間になっていた。由香は、思わず立ち上がり時計を見た。


「こんなに長くすいません。お時間大丈夫でしたか?」



「こっちこそ、付き合わせちゃったかな」



 彼の眉が持ち上がる。少しおどけたようなその笑みに、由香の頬がまたひっそりと赤らんだ。



「あの。今日は、ありがとうございました。すっごく楽しかったです。それと、練習がんばってください」


 由香はお辞儀をすると、そそくさと床に置いていたカバンを手に取った。



さんも文化祭、頑張ってね」



「ありがとうございます」



 彼の言葉を受け、火照った表情を隠しながら、由香はまた深くお辞儀をすると、扉の方へと向かった。出る間際にもう一度、彼に向かい頭を下げる。彼は、優しく手を振っていた。かすかな窓からの陽が、彼の輪郭を鮮明に浮かび上がらせていた。

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