7 おばちゃん
「ただいま」
濡れた制服をタオルで拭きながら、由香はリビングの扉を開いた。
「おかえり、濡れたでしょ?」
「まぁね」
未だ降り続いている雨は、電車に乗っている途中で、いっそう強さを増した。ビショビショになったスカートを、由香はリビングに脱ぎ捨てた。
「お行儀が悪い」
カウンターキッチンの奥から、鍋の煮込む音と一緒に母の声が聞こえた。
はーい、と適当に相槌を打ち、手に持ったジャージに足を通す。
由香は、机に置かれたテレビのリモコンを手に取ると、もたれかかるようにソファーに腰掛けた。外の雨模様とは打って変わり、紅葉の見頃を知らせるニュースが流れていた。
「お母さんお茶ー」
お母さんはお茶じゃありません、という母の戯言が飛んでくる。関東人も在住が長くなれば、関西のおばちゃんになってしまうのだな、と由香は感心する。カバンの中から楽譜を取り出し、ガラスの机に広げた。
東京から
「あら、楽譜? 由香、ピアノ弾くの?」
こちらに来た母が机の上の楽譜に気づいた。手には、麦茶の入ったコップが握られている。
「うーん。文化祭で頼まれちゃって……」
「あら、それならカメラ持って見に行かなきゃ」
「別に来なくていいよぉ……」
ありがとう、と由香は母から麦茶を受け取ると、すぐに口に含み二回ほど喉を鳴らす。
「でも由香がピアノを弾くなんて何年ぶりかしら」
「どうなんだろう」
一体自分が最後にピアノを触ったのがいつだったか、由香にも思い出せない。
「嬉しいわ。由香、ピアノ嫌いになったのかと思ってたから」
母がホッとした具合に肩を落とす。そんな母の様子に、何をそんなに心配していたのだろう、と由香は顔をほころばせる。それと同時に、妙な胸の引っかかりを由香は感じた。チクリと針で刺されたような。わずかだが、確かな痛みが左胸の奥をヒリヒリとさせた。
辞めたいからやめただけだ。ピアノを辞めたことに深い意味は無かった、自分の中で確かめるように由香はそう唱えた。
「それじゃ、練習しないとダメね」
「そうなんだよ。でも、うちにもうピアノないからね」
由香の家にあった電子ピアノは、由香が辞めてしまったあと、すぐに捨てられてしまった。少し強い拒否反応をしたせいだろう。見かねた両親が、すぐに処分した。思えば、そういうところで心配をかけていたのかもしれない。
「それなら、
母から実に懐かしい名前が出た。
宮本先生は、伊丹に引っ越してきてから、ずっと通っていたピアノ教室にいた先生の名だ。
「あー宮本先生か。元気かな」
「まだ、あの教室にいるはずよ。ちょっとくらいピアノ触るだけなら、タダでやらせてくれるんじゃない」
まったくこの人は、関西人の図々しさが完全に感染ってしまったんだな、と思いつつ、由香は呆れながらコップに残った麦茶を一気に飲み干した。
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