6 本番は、どうぞよろしくお願いします。
何人かの生徒が下駄箱の前で、外の様子を頻りに伺っていた。
どうやら、降り続ける雨に、帰るのを躊躇っているようだ。由香は自分の下駄箱から、下足を取り出し、上履きをしまった。横では、汐織が可愛らしい長靴を奈緒美に自慢していた。
「由香、ピアノやれそう?」
奈緒美は、珍しく心配そうに声をかける。どうやら、文化祭のクラス実行員として気にかけてくれているようだ。
「どうだろう、長らく触ってないからね……」
最後にピアノに触れたのは、いつのことだろう。コンクールだったか、音楽の時間だったか、それとも中学で合唱の伴奏をした時だっただろうか。
由香は、自分の指先をじっと見つめた。小さく華奢な手からは、五本ずつ細い指が伸びる。なめらかにそれぞれの指を動かしてみせた。頭の中に白と黒の鍵盤をイメージする。音の出ない鍵盤が、指の動きの通りに沈んでいく。
うーん。動かす指を止め、由香はうねり声を上げた。自らが描くそのイメージに納得がいかなかった。
「私、楽しみやわぁ」
この件の確信犯である汐織が、うっとりとした目で由香の方を見つめた。その可愛らしい瞳に見られると、なんだか恥ずかしい気持ちになり、由香は思わず頬を赤く染めた。
「私、由香ちゃんが、昔ピアノやってたって聞いて、一回聞いてみたかってん」
やはり、先生に由香を売ったのは、汐織らしい。ただ、汐織は「聞いた」とはっきり言った。もちろん、由香自身は、汐織にピアノをやっていたことを話した覚えは一度もない。それならば、由香のピアノのことを伝えたのは誰なのだろうか。もしかして、と後ろにいる奈緒美の方を見ると、彼女はバツ悪そうに目を反らしていた。
「いやぁ。ほら、私が代役をやってって頼んでも、由香絶対断るやん?」
白々しい双眸が、こちらをチラッ、と見つめる。問い詰めてもいないのに自供を始めた。
由香は、鋭い眼で奈緒美を威嚇するように見つめる。ははは、とかすれた声で奈緒美は笑い誤魔化した。その態度に、由香は呆れたように肩を落とした。
奈緒美とは、中学校から同じクラスだ。由香が、ピアノの教室に行っていた事を知っていた。
「そりゃまぁ。久慈さんが受験で弾けないのは仕方ないよ。仕方ないけどさ…… もう、ちょっとやり方あったんじゃない? ちゃんと、頼まれれば引き受けたよ」
「ほんとに?」
「た、たぶん」
強く出た言葉の反面、自信はない。由香は、バツ悪そうに口を尖らせ顎を引く。視線の先には、いくつかの水たまりが出口付近のコンクリートの上に出来ていた。
覚悟を決めた何人かの生徒が、神妙な面持ちで水たまりを弾いていく。少し、強い風が吹けば傘など意味などを簡単に無くしてしまうほど強い雨脚だ。
そんな雨に濡れる決意などないまま、勢いで引き受けてしまった。本当に、自分は役割を果たせるだろうか、と心の中で考えながら、由香は革靴の踵を直す。
「由香ちゃん。楽譜は、もう貰ったん?」
汐織が由香の肩のあたりに手をかける。華奢な体躯を、由香の背中に預けるが、それほど重さは感じなかった。肩から掛けたカバンから、五線譜を取り出す。
「さっき、久慈さんから貰ったよ。すっごく申し訳なさそうにしてたけどね」
目一杯細めた目で、奈緒美を捉える。まぁまぁ、となだめるように、奈緒美は手を前に差し出した。
呆れた様子で、由香はページを捲る。しっとりとした綺麗な紙が、由香の指にすいついてきた。五線譜の中に、黒いオタマジャクシが並ぶ。そんな光景を、久しく由香は見ていない。
由香の目の前が急に暗くなった。同時に、ふんわりと甘い匂いが漂う。背中にあったはずの感触が、気づかないうちに無くなっていた。
長くしなやかな髪を靡かせた頭部が、ちょうど、由香の顔のあたりに来る。楽譜と由香の間に、汐織が小さな体を押し込み覗き込んでいた。
「どう?難しい?」
小さな頭が反転し、由香の顔の方を向く。同じ人間とは思えないほど、その頭部は小さい。
「うーん。難しくはないけど……」
「難しくないけど?」
コクリと汐織の首が横に傾く。艷やかな汐織の髪が、それの動きに合わせて繊細な仕草で揺れる。由香のわずかな吐息が、その規則正しい動きを乱した。
「弾いてみないとわかんないかなぁ。合唱って演奏の技術だけじゃないし」
由香は、素直に答えた。歌っている集団を相手に合わせて弾くというのも、独奏とは異なるテクニックを要するのだ。
「でも、由香ちゃんってコンクールで賞を貰ったりもしてたんやろ?」
「そうだけど、それは、小学生とか中学生の頃の話で……」
「私は、由香ちゃんならきっとやれると思う!」
汐織が由香に抱きつく。ぐっと押し寄せる甘い匂いに、少し頭がクラクラしてしまう。柔らかな少女の温もりが、胸の辺りを刺激する。背徳的な感情が、由香に襲いかかってきた。
「何を根拠にそんな……」
頼まれてすぐに出来れば良いのだけれど、あいにく自分にそこまでの腕があるとは思えない。
弱気な声を出しながら、由香は思わず汐織の頭を撫でていた。
ふと、視線を上げると、微笑ましそうにこちらを見つめる奈緒美と目が合った。思わず汐織から離れる。
汐織は、突き放されたことを不服そうにしながらも、撫でられた頭を抑えながら表情を緩ませた。どうやら、やぶさかではないらしい。
「では、由香さん。本番は、どうぞよろしくお願いします」
奈緒美が、口を一文字にして敬礼をした。わざとらしいその動きに、思わず由香は眉をひそめる。由香のその表情を見ると、奈緒美の口端は、満足げに釣りがあった。踵を返し、傘を勢いよく広げる。
わずかに残った今朝の雨滴が、すでに十分すぎるほど湿った廊下に弾ける。
奈緒美が一歩外へと出ると、広げられたビニール傘に、強く雨が打ちつけた。
二人があとを追う。由香が空を見上げると、透明なビニール傘越しにどんよりとした暗い雲が広がっていた。
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