4 恋なんかじゃない

 次の日も、雨は静かに、街に降り続いていた。


 教室内を見渡すと、紺色のセーラー服や学ランを着た生徒の割合が増えた気がした。夏休みの明けた今月の上旬まで、下敷きやノートを団扇代わりに仰いでいたというのに。自身の手首まで伸びた紺色の制服を掴みながら、由香は時間の過ぎる早さに恐怖を覚えた。


 雲の向こう側では、太陽がてっぺんにたどり着いているだろう時間。由香は、ぼんやりと窓側の席で、外のどんよりとしたネズミ色の雲を見つめていた。


「由香ちゃんー、お昼やでー」


 声のする方に顔を向けると、可愛らしい小さなお弁当箱を両手で抱えた可憐な少女、汐織しおりが立っていた。


 彼女の背は小さく、座っている由香の視線と、あまり変わらない。彼女の胸元ほどまで伸びた真っ直ぐ艶のある黒い髪がさらりと揺れる。

 綺麗に揃えられた前髪が、彼女の小さな瞳を少しだけ隠していた。その襟元から、白く透明な肌が少し覗いている。この目の前の美少女は、自分と同じ高校三年生なのだ。毎度、その事実に驚かされる。


 もしかすれば、どこかの中学校から迷い込んで来たのかもしれない。大丈夫? と頭をなでて愛でながら世話をしてやりたい衝動に駆られた。


「はいはい、お行儀よく座って食べましょうね」


 汐織の小さな頭の上に、コツンと黄色いお弁当袋が乗った。スラリと褐色のいい肌が伸びている。その腕を辿れば、真っ白のセーラー服が、胸の辺りで膨らみをつくり赤いリボンが窮屈そうにしていた。

 贅肉のないシャープな顎のラインを見せびらかすように、後ろで束ねられたポニーテールが揺れている。奈緒美だ。


「痛い、何すんの!」


 汐織の華奢な声が響く。両手に力を込め、顔を膨らませている。かわいらしい小動物のようだ。奈緒美は、慣れた手付きで汐織の頭を撫でる。


「由香。お弁当は? 今日は食堂?」


「ううん、持ってきてるよ」


 奈緒美に問われ、由香は慌てて机の横にかけているスクールバックから弁当箱を取り出した。


 そっか、と奈緒美は由香の前の席を反転させると、腰掛けた。汐織は、隣のイスを拝借したらしく、二人の間に、言われた通りお行儀よく座った。


 いただきまーす。汐織が元気よく手を合わせる。それを見て、二人も手を合わせた。


「奈緒美ちゃんのお弁当いっつも美味しそうやんなぁ、ママさん料理上手やねんな」


 汐織が、奈緒美の弁当を羨ましそうに覗きながら、舌鼓を打つ。


「ううん、自分で作ってるで」


「そうなの?」


「まぁね」


 初耳のことに、由香は驚く。彼女が料理上手なことは知っていたが、わざわざ、早起きして料理をすることが理解出来なかった。


「朝早くて、大変じゃない?」


「ついでやしね」


「ついで?」


「いや、ほら、前まで部活で早よう起きてたから」


 ふーん。少しはぐらかされたのを、由香は特に気に止めず、真っ赤なプチトマトをギザギザの線が入った箸で上手く掬い上げる。廊下から、抜ける湿気を帯びた風が、教室にどんよりとした雨の匂いを漂わせた。


「それより、由香ちゃん。さっきは、なんでぼーっとしてたん?」


 汐織の首がコクリと横に傾く。ピンクのお弁当箱から、可愛らしく切られたリンゴのうさぎがこちらを覗いていた。


「へ? うーん。いや、特になにもないよ」


 あはは、と由香は笑って誤魔化す。箸からこぼれたプチトマトが、上手く弁当箱へと帰って行った。



 そんな由香を奈緒美は見逃さない。



「由香なぁ、実は、昨日……」



 汐織の小さな耳に、奈緒美の口元が近づいた。彼女の吐息が、綺麗に頬の輪郭に張り付いた汐織の髪を揺らす。透き通るような真っ白な肌が、少しだけ朱色に赤らんだ。

 何やら耳打ちをしているらしい。由香は、ぶっきら棒に卵焼きを赤い箸で掴むと、口の中へと放り込んだ。


「えぇ! 由香ちゃん! それって恋やん!」


 手の平で机を強く叩きつけ、汐織が立ち上がった。驚きで、飲み込んだ卵焼きが喉につっかえそうになる。思わず、胸の辺りを拳で叩く。響わたった汐織の声に、クラス中の生徒が由香たち三人の方に目をやった。


「なんで大きな声出すの」


 由香は、汐織の口を手で抑えた。その華奢な肩に手を回し、無理やりイスに座らせる。

 それを見て、奈緒美がクスクスと笑っている。笑い事じゃない。由香は、顔を真赤に染めると、そのまま机をじっと見つめるようにうつむいた。


「由香ちゃん。名も知らぬ人との恋、素敵やん!」


 汐織が由香の肩に手をやり激しく揺らす。小さな自分の弁当箱の中で、日の丸の梅干しがぐるぐると円を描いた。由香が顔をあげると、アーモンドのような汐織の瞳が、目の前でキラキラと輝かせていた。


「別に恋とかじゃないよ」


 ため息混じりに箸を置く。向かいの奈緒美は、なんとも気楽な表情で唐揚げを頬張っていた。


 そう、恋でない。自分に言い聞かせた。ただすごい演奏を聴いて、胸がときめいただけなのだ。そう頭で何度も唱えると、昨日の演奏する彼が思い浮かぶ。その姿を想像するだけで、胸の鼓動が早まるのが分かった。


「なぁ、由香ちゃん。もしかして、受験生やからって、自分の気持ちに嘘ついてんの?」



 汐織のつぶらな瞳が、健気さを纏い由香を見つめる。しっとりと頬に、吸い寄せられそうになりながら、由香は小さく息を吐き出した。



「だから、そんなんじゃないって」



 由香の返答がよほど不服だったのか、汐織は膨れたまま、うさぎの形に切られたリンゴを口に含んだ。

 リンゴから食べんるんだ、と思いながら、由香はかじられたうさぎの耳を眺めた。小さな歯型に限られたウサギすら、由香をからかっているように見える。


「ホントかなぁ」


 奈緒美が見透かしたような目で見つめてきた。違う。断じて恋ではないのだ。見ず知らずの相手にそんなこと思うわけがない。そう思う反面、奈緒美の視線に負け、思わず視線を窓の外へと向ける。遠くの方で雷鳴が光ったのが見えた。



「でも一目惚れしてまうなんて、そんなにその人かっこ良かったん?」



「まぁね」



 汐織の問いかけに思わず声が漏れた。由香は慌てて口元を手で覆う。汐織は、したり顔でこちらを見ていた。しまった、と由香は眉間に皺を寄せる。


「あれぇ、由香さん、やっぱり一目惚れだったんですかー?」


 雑誌のインタビュアーのつもりなのか、奈緒美は自身の箸を逆手に持ち、由香の口の方に近づけた。


「違うって!」


 今度は、由香が机を強く叩いた。手のひらがジーンと痛む。汐織は、あんなに細い手で叩いて平気だったのだろうか。


「恋も受験も頑張ればええんやで! 由香ちゃんならやれる!」


 ファイト! と二人が立ち上がり、腕を天井へと突き上げた。


 再び、教室の視線がこちらに向けられる。由香は、赤い顔を悟られないよう、弁当箱を顔に近づけ、中身をかき込んだ。

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