3 恋とアイスクリーム

「で、なんでなん?」


「へ?」


 と、思わず変な声が出た。突発的に落ちたプラスチック製の名札が、小さな音を立てる。由香は慌ててそれを拾うと、何が? とわざとらしく聞き返した。



「何がって、あんたが遅れた理由。由香、遅刻なんて滅多にせえへんやん」


 紺色の制服が、奈緒美の手の中で随分と丁寧に畳まれていた。


 二人は仕事を終え、バックルームで帰り支度を整える。


「えー、別になんでもないよ」


 制服のリボンを直すふりをして、逃げるように鏡の方を向いた。鏡の中で目の合ったそいつは、ひどく嘘が下手くそだった。頬が引きつり、声も裏返っていたはずだ。


「嘘ついてるやろ!ほーら、正直に話しなさい!」


 奈緒美の手が、背中越しに由香の頬を挟む。うぅ、と小さなうめき声を上げながら、由香は鏡越しの奈緒美に向けて眉間に皺を寄せた。


「反抗的やなぁ、これでも話さんか!」


 奈緒美の手が脇腹の方へと下がっていく。背筋にこそばゆい刺激が走った。


「分かった、分かったから」


 息を切らしながら由香は、観念したようにその場に崩れた。


「そんなに効いた?」


 苦手って知ってるでしょ、と由香は頬を赤らめる。


 奈緒美にムスッとした表情を向けながら立ち上がると、紺色のスクールバックを手に取った。


「帰り道に話すから、なんか奢ってよ」


「タダじゃないかー」


 仕方のない出費やわ、とこぼしながら、奈緒美も同じ形のスクールバックを手に取った。ふっ、と息を吐いた彼女の胸は、大きくセーラー服のリボンがやけに苦しそうだった。


 ―――――――――――――


 赤いランプが、右に左にとウインクを繰り返す。暗闇を通り過ぎる銀色の快速電車の明かりは、雨のせいもあり、物悲しく重たい空気を運んでいるように思えた。


「寒くないん?」


 奈緒美が肉まんを頬張りながら、由香のアイスを凝視する。奈緒美の口から吐き出される肉まんの湯気が、赤い光と雨粒により無作為に反射していた。


「うーん。ちょっとね」


 冷凍庫から出され、数分経過しているはずのソフトクリームは、まだその渦巻きをはっきりと残している。由香は、その渦巻きを忌まわしそうに見つめた。


 9月下旬になって急に気温が下がった。先週からコンビニも肉まんの販売をはじめ、秋雨前線も例年通り停滞をはじめた。本格的に街も世界も、秋仕様になろうとしている。


 それと同時に由香は、自らの受験が近づいていることを強く感じた。長かった高校生活も残り半年をきったのだ。


 思えば、この高校生活の中で何をしてきたのだろう。思い浮かべても他人に誇れるようなことは、何一つしてきていない。


 部活を頑張ったわけでもなく、勉学に励んでいたわけでもない。趣味に没頭して知識を深める、なんてことも無かった。


 成り行きのまま友と過ごし、誘われてバイトを始め、気がつけば大学受験を迎えている。おそらく、誰かに咎められることはないだろう。成績も決して悪くはない。それなりの知名度のある大学へこの調子で行けば進学できるはずだ。


 ただ、それで良いのかと聞かれると、満足はしていない。不自由なく過ぎる時間を持て余し、後ろめたさを感じ続けている。それが今、助長されているのは、恐らく夕方あの演奏を聞いたからだろう。


 まっすぐひたむきに楽譜を見つめ、音を奏でていた姿が目に焼き付いている。耳に残っている美しい旋律が由香の口元を緩めさせた。


 ――なにかに夢中になれる人が羨ましい。


「どうしたん急に」


「へ?」


 踏切が鳴り止み、代わりに由香の間の抜けた声が響く。街頭の小さな明かりに包まれた二人に、静寂が訪れた。


「もしかして声に出てた?」


「うん。めっちゃ出てた」


 頬に血が集まって行くのがわかった。自分の口元の体温で、ソフトクリームが溶けていくのではないかと思うくらい顔が熱くなる。


「なになにー、何があったん」


 奈緒美の声が弾む。まるで見つけた餌に飛びつく猛獣のようだ。


「なんでもない」


 白々しく、由香はそっぽを向きながら、中々、溶けやしないソフトクリームにかじりつく。歯のうらにツーンと痛みが走った。


「さっき話すって言ったやん。話さんなら、アイス返しもらうで?」


「うぅ、それは……」


 歯型のついたソフトクリームを見つめ、由香は觀念したように話し始めた。


「ピアノ。夕方に、つかしんでね。男の子が演奏してたのを聴いたの。なんかすごくうまくて、かっこよくて。なんというか、すごく衝撃的だったというか」


 うまく言葉で説明できない。あの瞬間に、漠然と抱いた感情を思いつくまま、由香は並べてみる。


 ほうほう、と奈緒美は何やら頷きながら、静かに由香の話を聞いていた。


「それでなんとなく聴き入ってたら、時間を忘れちゃっ……」


 視界の端が暗くなる。奈緒美の顔が間近に迫って来ていることに気づき、由香は言葉をつっかえた。透き通った目が、由香をじっと見つめていた。素直で可愛らしい女の子の目だ。


 長い睫毛がパサリと、上下に動く。そのまんまるとした双眸が、次第に、三日月状になっていくのが分かった。それからその猛獣は、獲物を捉えるように、由香の首元へと抱きついた。


「近い、近いよ」


「顔が赤いで? これは、これは。もしや恋ですかな」


 そんなんじゃない、と由香は奈緒美を突き放した。


 キャハ、とイタズラな声が、静かな住宅街に響く。赤らんだ頬を隠すように、由香は街頭の明かりの小さい方へと足を進めた。


 もう、と不機嫌気味に声を上げ、ソフトクリームを口に含んだ。さっきまでより柔らかなその感触は、口の中に嫌というほど冷たい甘味をばらまいた。

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