第一楽章

1 再会

 白い半袖のセーラー服が、夕方になり少し肌寒く感じてきた。蛍光灯に照らされた長い影が、阪急稲野はんきゅういなの駅の小さな駅舎に向い伸びる。三段ほどの階段を降りようとした時、地面が薄っすらと濡れていることに気がついた。


 スクールバックから、ピンクの折りたたみ傘を取り出し広げる。小さな傘でも凌げるほどの小降りの秋雨だった。


 由香ゆかは、家とは反対方向へと足を進めた。踏切を渡り、数分歩くと、大きな商業施設が見えてくる。


 名称は、つかしん。伊丹いたみ市の南部。尼崎あまがさき市との境目にある複合ショッピングモールだ。普段は迂回するのだが、雨だったこともあり、今日は中を通り抜けることにした。


 欧州を思わせる綺麗なモダン風の内装が凝られており、庭園には花壇が設けられ、噴水や小川、隅には小さな水族館が併設されている。平日の夕方にもかかわらず、それなりの賑わいを見せていた。


 都心から離れたこのショッピングモールが現在の姿になったのは、ほんの少し前からだ。由香がまだ幼かった頃は、シャッターを下ろす店も多く、くたびれた印象しかなかった。


 かつては、屋上に遊園地もある豪華な百貨店だったらしいが、衰退期を乗り越え、イメージ転換に成功したのだろう。現在は、ショッピングモールと呼ぶにふさわしく、その当時の面影はないに等しい。


 有名な犬のキャラ物の雑貨を扱う店の横を抜け、ショッピング施設の中心街である吹き抜けになった広場へ出た。ロマンチック広場と呼ばれるその広場には、いつもにない美しい音色が流れていた。


 広場の中央には立派なグランドピアノが、一台置かれていた。どうやら、誰かが演奏をしているらしいく、それを取り囲むようにして、大勢の人が輪を成していた。


 演奏されていたのは、ドビュッシーの『月の光』。誰もが聞いたことのある美しいメロディから始まり、夜の湖畔に小さな音の渦ができるような緊張感のある旋律が、聞くものを甘美な思いにさせる。その優しい音色を、由香は以前どこかで聞いたことがある気がした。


 由香がピアノ教室に通っていたのは、三歳の頃から中学校の途中まで。女の子だからと母の勧めで、ピアノ教室まで出向き指導を受けていた。


 だから、この曲がなんの曲であるだとか、この演奏者が中々の腕前であるだとかを知るのは容易だった。


 そうではなく、この演奏者が演奏するこの音色を、以前にどこかで聞いたことがある気がした。


 ただ、どこで聞いたか思い出せない。発表会だったか、コンクールの時だったか。ただ、異様にこの音が好きだった。


 そんな漠然とした感情が胸の奥からお見上げた。その気持が、無性に懐古的なものへと変わり、やがてどんな人が弾いているのか知りたくなった。


 由香は、人混みをかき分けるように前に進んだ。傘についた雫が人にかからないように慎重に進む。スーツの匂いや、激しい香水の匂いを抜ける。次第に大きくなる音が、自身がピアノに近づいているのだ、と知らせてくれた。


 急に前がひらけた。群衆が立派なグランドピアノを中心に、綺麗な円を織りなしているのが分かる。その円を織りなす先頭の人たちが急に割り入った少女に対し、あからさまに嫌な顔をした。由香は、思わず申し訳なさそうに、軽く頭を下げた。


 ピアノには、綺麗な顔立ちの男性が座っていた。年の頃は、由香よりも少し上に見える。


 揺らぎのない視線が、まっすぐ譜面を見つめている。細い指が鍵盤をしなやかに弾き、そこから淀みのない音が解き放たれた。


 刹那の隙もなく、次の音、次の音へと指が移行していく。それでも音と音のつなぎ目に、わずかな感情が溶け込んでいた。不安と切なさが、絶妙な塩梅で音に刺激を加えている。


「すごい」


 小さな声で由香は、そう呟いた。ほんの一瞬で魅了されてしまった。なんて素晴らしい演奏なんだ。由香が感心していると、ちょうど演奏が終了した。


 弾き終えた彼は、清々しく立ち上がった。乱れた髪をしなやかに揺らし、顔を上げた。額を隠していた髪が、ふわりと持ち上がる。密やかだった彼のつぶらな瞳が露になった。


 ドキっ、そう音が鳴ったのが分かった。これほど、わかり易いものなのかと自分でも驚き笑いそうになる。


 タキシードの首元を少し直し、彼は深々と頭を下げた。その瞬間、誰かが合図したかのように一斉に拍手が起こった。周りにつられて、思わず由香も拍手をする。


 彼は、オーディエンスに答えるように手を振った。円になる客を睥睨する彼とふいに目があう。思わず自分の顔が赤らんだのが分かった。


 胸の鼓動が早くなる。その鼓動は、自分の小さな胸など簡単に引き裂いてしまいそうだった。


 彼の視線から逃げるように、慌てて人混みに入り、そそくさとその場から離れた。


 驚いたぁ、そう言葉で漏らしながら、ほてる頬を手で抑えた。未だに胸が鳴るのは、どうやら演奏のせいではないらしい。


 鳴り止まない歓声が、先程までの演奏にどれほど民衆が酔いしれていたかが分かる。ただ、やはり以前にどこかで聞いたことがある、という感覚が妙に引っかかった。


 もう一度だけ、彼の姿を見ようとした時、広場の中央にそびえたローマ数字が並ぶ時計の文字盤が目に入る。


 やばっ。胸の高鳴りは、違ったものにすぐ変わった。カバンに入ったスマートフォンのバイブレーションにいまさら気がつく。バイト先から何度も呼び出しの電話が入っている。それに折り返すことなく、急ぎ足で向かった。

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