pianissimo-ピアニッシモ-

伊勢祐里

プロローグ

前奏曲

 武庫川むこがわの橋を渡るマルーン色の電車に、毎日揺られていたのは、もう何年前のことだろう。深いオリーブ色のシートに座る紺色のセーラー服たちを見るたび、由香ゆかは懐かしい思い出にふける。



 大阪梅田行きの鈍行列車は、レールのつなぎ目を通るたび大きく揺れた。


 枕木が支えるその揺れは、不思議なほど眠気を誘う。うつろになる瞼を懸命に開きながら、腕時計へと視線を落とした。



 銀色の遮光幕をすり抜けた日差しが、文字盤にうまく反射する。腕を少し返せば、真っ白になった文字盤は、素直に時間を知らせてくれた。



 決して遠くない青春の日々は、確かに輝いていた。まるで西日を反射した文字盤のように、強い輝きだったと思う。その強い輝きが、今でも目の奥に残像としてこびついている。


 だから、学生たちを見ると、由香は胸の辺りが痛くなる。何かに、こすれるようなその痛みから逃れる方法を知らず、握りしめた手がスーツの腿の辺りに皺を作った。


 就職活動を終え、家に真っ直ぐ帰る。そういう当たり前のことを、淡々とやっていることが、心から望んでいることではないように思えた。


 あの頃よりも重たい足取りで、毎朝、同じような時間の満員電車に乗り、また同じような時間に帰宅する。


 間違いではない道を進んでいることを、他人は褒めてくれるだろう。いや、当たり前過ぎて誰も褒めてなどくれないかもしれない。


 そればかりか、当たり前という真面目な道を進んでいることが、この上なく恥ずかしいと感じてしまう。将来を考える、そんな漠然とした不安が、怒りに似た感情に変わり、由香自身を攻め立てた。

 そんな感情になった時、彼のことを思う。そして、自分の毎日を、すべて否定して欲しくなる。そうすれば、やりたいように、行きたいところまで行ける気がする。


 だが、それは、傲慢でしかないことは分かっていた。結局、自分で踏み出せない道を他人に後押ししてほしいだけなのだ。


 塚口つかぐち駅で伊丹いたみ線に乗り換えた。連絡のため、信号待ちで待機する車内には、由香と同じようなスーツ姿に身を包んだ若者がチラホラいた。


 その誰もが、自分と同じような表情をしているように感じた。彼らもまた、同じような痛みを抱えていているに違いない。咎めようない当たり前の感情を抱きながら、毎日を過ごしているのだ。


 それでも懐かしさは、由香にとってほんの少し救いにもなった。


 彼と、唯一会えるその思い出の中の輝きに、寄り添うように、心を預ければ少しだけ楽になれた。夢の中へ入っていくような気持ちのいい感覚が、全身を包み込み、懐かしい日々へとタイムスリップしていく。



 心の中で青春を感じた。



 そんな感覚でいられる時が、一番幸せで生きている、そう感じることが出来た。


 日常の影を消し去ってくれるその輝きが愛おしい。瞼の奥で、輝く光を見つめる。だが、すぐに輝きに負け視界が滲む。


 やがて、また心の奥に西日を見たような残像が残される。このままでは、ダメなのだと自分に何度も言い聞かせたが、今は、それにすがるしか無かった。それから次第に電車の揺れも相まって、由香は眠りの中へと落ちていった。

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