第320話 悪党
「先生お疲れ様でした」
私は邸宅の門に乗り付けた車の後部座席を開けながら言う。
「うむ」
腹が出たふてぶてしい60代の男がもったいぶって車を降りる。そして迎えに来た女中に先導されて本邸に向かって行く。
私はその先生の姿が消えるまでここで頭を下げていたが、やがて十分に時間が経った頃に頭を上げると私より遙に若々しい30代の青年がいた。彼は先生の第一秘書で切れ者と評判で、先生と同じ車に乗っていたのだが一緒に本邸に行かず残ったのは私に何か用事があるのだろう。
「直具君、先生は明日午前中に宮根様と会合があるから朝一で車の準備を頼む」
「分かりました」
これで明日はいつもより早く来て洗車などをしなければならなくなった。娘に忘れずに言っておかないとな。前に連絡し忘れて娘が起きる前に出勤したら凄く怒られた。
「では今日はもういいです」
「お疲れ様でした」
同じく本邸に向かっていく秘書の背中を見送る。歩いて行く秘書の背中越しに見える先生の本邸は古風な日本家屋だが最新のセキュリティーが施され、住み込みの女中の他にガードマンも常駐している。下手なヤクザの家より厳重で迂闊に侵入すれば池の魚の餌にされるなんて噂もある。
これだけ警備に力を入れているのも先生は表には出ないが政界の有力者で日頃から利害関係の調整に奔走している関係から逆恨みをするものが多いからと聞くが、それが本当に逆恨みなのかどんな恨みなのかは私には関係無い。
主のことを決して詮索しないし、分を弁えて一線は決して踏み越えようとは思わない。だからこそ私はどの秘書より先生に長年雇われていられるのかもしれない。
さて秘書もいなくなったことだし車を裏の駐車場に入れて帰ろう。
先生の屋敷の近くの賃貸マンションに自転車で帰る。職場が近いのはいいことだ。特に私のように男手一つで娘を育てている身としては助かる。
「ただいま~」
玄関に入ったこの一言で帰ってきた実感が湧きほっとする。
玄関に続く廊下の先に見える居間の電気は消えている。
まだ10時、娘は部屋で受験勉強をしているのであろう。早くに母親を失ったが良く出来た娘でちゃんと私の分の夕食は作っておいてくれる。娘が作ってくれた夕食と共に呑む一杯が何よりの楽しみである。
靴を脱ぎ廊下を通って薄暗い居間に入って明かりを付ける。
「こんばんは直具さん。先に一杯頂いてますよ」
居間には狐の仮面を付けた青年が俺のとっておきのウィスキーをロックで楽しんでいた。
「だっ誰だ。もしかして娘の彼氏なのか?」
この家の主直具は俺の両親と同世代、見るからに真面目に割を食って生きてきたような男。そんな男に今日は幸運を届けに来た。
カチンと氷を鳴らしてロックをクイッと一気の飲み干せば胸が熱くなる。
顔に似合わず酒の趣味はいい、相手に好感がもてることはいいことだ。
さあ俺の趣味じゃ無いがノーと言わせないビジネスを始めよう。
「残念ながら違いますよ。
本日はあなたに仕事を頼みたくて伺わせて貰いました」
「しっ仕事だと」
俺はドサッと殴れるほど札束が入って重量がある封筒を直具の前に投げ出した。
電子データじゃこうはいかない、やはり実体のある現金は説得力があるようで直具も目を丸くしている。
「報酬として100万用意しました」
「ひゃひゃくまん? 何をさせる気だ」
直具も馬鹿じゃ無いようで、この現金の重みの意味を分かっている。
決してまともな仕事じゃないと警戒しているし、こんな大金を出す俺を警戒している。
ここで軽く引き受けるような男だったら考えてしまうところだったが、まずは良しといったところか。
「富山が週に一度くらいで行く一日市ホテルは知っていますね。今度行く際に少し協力して欲しいだけですよ」
一日市ホテルは鉄壁の要塞で容易には潜入はできない。ならば古来よりの堅城の落とし方内応の計を使うことにした。
調略する相手を吟味しようにも顧客名簿なんて手に入らないから、地道にホテルから出た客を鎖府に追跡して貰い、富山に行き着いた。だがこの富山も一日市ホテルを利用する客だけあってなかなかガードが堅く簡単にお会いできそうに無かった。ならばということで一日市ホテルに富山と一緒に出入りする運転手である直具にターゲットを変更したのである。これも古来からの常道将を射んと欲すればまず馬を射よといったろこか。
「私に先生を裏切れと言うのか、そんなこと出来るわけが無い」
簡単には裏切らないが、百万程度でコロコロ掌を返す男よりかはいい。
「立派な忠誠心と褒めたいところだが、あなたは富山があのホテルで何をしているか知っているのですか?」
「し知らない」
直具の声がくぐもったのを逃さない。だが嘘は言ってないと見た。
つまり知らないが察してはいる。
「知らないとはどこかの政治家のようですね。
つまり雇用主が何をしているか耳を塞ぎ目を瞑り口を噤んで職務を果たしているだけと。
それがあなたの処せ術ですか?」
直具の忠誠心は本物じゃ無い。富山がどんな人物か知って忠誠を誓っている訳で無く賃金を貰う者としての誠心。
転職が普通の時代に珍しいタイプだ。
「若造が知った風なことを抜かすな。それでも娘を育て上げるには必要なことなんだ」
図星だったようで大人しそうだった直具が本気で怒っている。
つまり最初の印象通り真面目が故に色々と辛酸を舐めて流れ着いたのが今の職でこれが最後の職とばかりに何があっても手放すまいと決意している。
何のためにそんな窮屈な生き方を選んだかと言えば、直具が言った通りなのだろう。
こういう自制心の強い男は金では裏切らない。だからといって娘の為に自分を犠牲に出来る父の愛に敬意を抱いて帰るわけにはいかない。
今日はノーと言わせないビジネス。
時雨を欲した時にいい人の仮面なんて棄てた、嫌な奴らしく悪党に徹する。
「確かに俺は子育ての苦労は分からないですが、ならそれだけ苦労して育てた娘は先生より大事なのですか?」
今の俺は悪党そのものの顔をしているのだろう。鏡があれば見てみたいものだ。
「はっ。そっそういえば亜紗乃はどうした? 部屋で勉強をしているはずだ」
直具は少々察しが悪かったようだが察すれば面白いように動揺しだした。
「やっと思い至りましたか、大事な娘さんなんでしょ真っ先に聞いて欲しかったですね」
パチン、俺は指を嫌みたらしく鳴らす。
居間の反対側のドアが開けられ下着姿にされ麻縄で亀甲縛りされた亜紗乃が狐の仮面を付けた鎖府に奴隷のように連行されてきた。
「あっ亜紗乃。
きっ貴様ーーーーーーーー」
直後は娘の姿を前に怒りに我を忘れ殴りかかってきたが、俺は遠慮無くカウンターで迎撃した。
ここで殴られてやるような甲斐性も罪悪感も無い。
知らなかったが通用するのは小学生まで社会人なら無知も罪、この男もそういう主を選んだ以上罪はある。
「おっと駄目よ」
「ぬぐぐぐぐぐっぐ」
亜紗乃が倒れた父親の元に駆け寄ろうとしたが鎖府に縄を引っ張られ、ギャグを挟まれた口から呻きが漏れるだけだった。
「ここでお前が断ったら、娘はどうなると思う?」
この男の遺伝子を持っているとは思えないほど亜紗乃は美しい。顔は苦労しているのか少し影があるがそれが魅力を引き立て、高校生らしい健康的で白い肌に粗い麻縄が食い込む姿は男の嗜虐心をそそる。
朧区の闇オークションで売り捌けばいい金になる。さもなくば鎖府が結構気に入ったようなので彼女にボーナスとしてあげれば、きっといい色に染め上げられるだろう。
何てことを想像して感情を込めて台詞を言えば直具は可哀想なほど顔を真っ青になっていた。
「やっやめてくれ何でもする、だから娘だけは助けてくれ」
「そう悲壮な顔をするな俺は約束は守るぞ。
見事仕事を果たせば娘は無傷で帰ってくるし、報酬のこの百万を手に入れれば十分に再出発できる」
「私は何をすればいいんだ?」
「さっき言った通りだ。
今度富山が一日市ホテルに行く時に色々と協力して欲しいだけだ」
「狙いは先生で無く一日市ホテルなのか」
「まあな、だが巻き添えで富山も破滅するかもな。この意味を噛み締めて仕事を実行して貰うぞ」
主を直接裏切っていないというのが最後の拠り所らしいがそんなもの残させはしない。
俺の容赦ない言葉に直具は一瞬放心したが、やがて目に力が戻り口を開いた。
「分かった。やろう」
直具は今主を裏切ることを覚悟した。こういう男が覚悟を決めたのなら翻意する可能性は低い。
こうして一日市ホテル攻略の準備は整ったのである。
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