第274話 ああ、これが人間だっ
それは一瞬だった。
床に伏して呻いていた白衣の男が跳ね起きる同時にオーバーヘッドキックの要領で、セウに向かって跳躍していたくせるを叩き落としたのだ。
悪意の固まりたる赤い粒が渦巻く空間では見通しが悪く殺気を感じ取りにくい。その為に流石のくせるも反応が遅れあっさりと赫に叩き落とされた。墜とされたくせるはあっという間に赫に呑まれピクピクと痙攣するだけになる。
あのくせるすら地獄からは這い上がれないというのか。
俺は地獄を甘く見すぎていたかも知れないが、ならあの男は何だというのだ?
地獄を踏み締め屹然と立つ男、殻。
確かに赫に絡まれ地獄の責め苦を受けているはずなのに意思を持って動く。
才能とか特殊能力じゃ無い、何があの男を動かす。
「どこかにはいると思っていたがそんなところにいたのか」
殻は乃払膜の魔の手からセウを守ろうとして一貫して暗躍していた。だから近くにいるだろうとは思っていたが、まさか地獄に潜んでいたとは全く予想出来なかった。
「お前、なぜ地獄に墜ちて動ける?」
「俺にとって地獄は救い。
救えなかった数々の命、見捨てるしか無かった命。守れたと思ってもこの手を零れていく笑顔。
罪荷だけが積み重なっていく人生、どこかで荷を降ろしたかった」
殻に悲壮感は無かった、ただ淡々と語る。
感情が磨耗しきった顔、他人の為に泣いて怒り尽くした。
殻は俺が想像も出来ないような世界を渡り歩いて足掻いてきたのだろう。
この男は純粋で優しくて、そして心が強過ぎた。俺のようにどこかで壊れてしまえば、こうはならなかっただろう。
違うか、この男は他人の為だからこそ最後まで燃やし尽くせたのか。
己第一主義の俺とは根本が違う。
「俺の最後はこれでいい。だが俺はまだ罪荷を降ろすわけにはいかない。
世界を救済する」
感情が磨耗しているくせに、最後の言葉からは力、意思がひしひしと伝わってくる。
「ならなぜ邪魔をした。
このままだと地獄が現出するぞ。そもそもなぜこうなる前にセウを救出しなかった」
此奴ほどの男なら救い出せたはずだ。現に俺より先んじてここまで侵入を果たしていた。
「世界を救うにはどうするか?
悪人を倒す、マフィアを倒す、富を独占する富豪の打倒、そんなことをしてもこのままの延長に過ぎない何も変わらない。
故に世界救済委員会、いや俺が望むのは世界の変革。
これは素晴らしい、これが現出すれば人類の意識は変革される」
蝋燭最後の灯火か、殻は神に出会えた信者のように感情溢れる顔でこの地獄を見渡す。
「あんたが求めていたのは聖者じゃなかったのか? これは地獄だぞ」
「そうさ地獄だ。だからこそいい。
人類は数々の地獄のような光景を生み出してきたが変わらなかった。地獄のような光景など所詮人の優しさに訴えるだけ、そんなものでは足りない、足りなすぎる。
だが本当の地獄を見れば変わる、躾けられる。意識は変革される」
地獄のような光景を見ても自分の身に降りかからないなら一時心を痛めてもいずれ関係ないと忘却するのが人間だが、本当に地獄があると知ればそうはいかない。
世界中にある宗教の死後のご褒美と罰。
あるといわれても人間は死後は見れない知れない、故に信じ切れない。
だがらこそ生者の世界に地獄が表れれば、それは己の身に降りかかるものとして目を背けられなくなる。己の内面と向き合い意識の変革は起きるだろう。
聖者による人類の意識改革が目的じゃ無かった。人類の意識改革が為されるのなら、聖者に拘らない、核による虐殺だろうが凄惨な戦争だろうが、善でも悪でもいい。
人工的に聖者を誕生させるも禁忌に近いが、その枕詞すら目的の為なら切り捨てられるというか。
世界救済委員会、ここまでぶっとんでいたか、ここまで追い詰められているのか。
「そうかもしれないが、この地獄は一時だぞ。
こんなものが現出すれば旋律士達によって調律される。いや旋律士達が動くまでも無い、たかが一人の少女を核にした程度では、良くて区を呑み込むのが精一杯いずれ世界の修正力に呑まれ調律される」
そんな簡単に世界が変わってしまうなら、この世界はもっと混沌としている科学など成り立たなくなる。
それこそ剣と魔法のファンタジー世界になる。
「それで構わない。地獄を人類に示せればいい。人類に変革をもたらす切っ掛けとなる。蒸気機関の発明から爆発的に世界が変わったように、切っ掛けがあれば変革はなる」
切っ掛け程度、寧ろそれを望んでいる節が感じられる。
まあ此奴が望むのは世界の救済であって世界の破滅じゃ無い。もし全世界が地獄の呑まれれば全ての人は罪を償う嵌めになり、罪を償っている間に人類は滅びるだろう。
理屈は綺麗に理解できる。
だが感情が納得しない。
「その為にセウが犠牲になっても構わないと」
これだって自分が助かる為に人を踏みにじっているのと同じだ。
自分達のストレス解消にと俺を生け贄にした連中と何が違う。
「必要な犠牲だ」
「だったらお前が成れよ」
「出来るなら、とっくにやっている。だが私では駄目なんだ。私では縋るしか無いんだ。
元より天国に行く気などない、全てが終わった後に地獄に墜ちる」
結局は自己陶酔の自己満足だろうが。
此奴は結局は負け犬だ。負けて他人に依存するストーカー野郎だ。
「旦那相手が悪い。覚悟が決まりすぎている説得は無理だ」
未だ残っていたP.Tが言う。
「ならもっと原始的に話し合うしか無いか」
俺は己の拳を握り締め言う。
「おいおい、待てって。旦那は頑張った、ここで逃げても誰も責めないぜ」
「元より誰の評価も求めてない」
俺は己から湧き上がる怒りのままに赫に足を踏み入れた。
あっという間に躰に這い上がってくる赫。
罪を償えという声が頭に響き渡り頭の中が嚇灼に染まる。
かつて俺がしてきた悪意の行為全てが己の身に返ってくる。
相手に与えた躰の痛みを俺の躰の痛覚が正確に再現し同じ痛みが返ってくる。
頭の中でかつての立場が逆になって再現され俺が与えた心の苦しみを俺が味わう。
悪意と罪は等価。
多すぎず少なすぎず己の身に返ってくる。
この痛みと苦しみは俺の中の悪意が消えるまで無限に再現される。
それこそ心が砕け散り
今までの価値観が消え
新しい思考の俺に生まれ変わるまで。
それは今までの自分の否定に他ならない。
だがこの苦しみから逃れるには否定するしか無いのが地獄。
自己の完全否定、これより重い罰がこの世にあるか?
「旦那」
「愚かな。お前のような利己的な者に地獄は渡れない」
P.Tが残念そうに殻が勝ち誇ったように声を上げる。
「そうでも無いぜ」
俺の足は一歩前に動いた。
「なにっ!?」
「旦那っ」
驚愕に染める二人に見詰められて俺は地獄を歩き出す。
片目は赫く染まって地獄を見て。
片目は赤く染まって現実を見る。
地獄と現実が半分こ
罪を償い罪を重ねる。
ああ、これが人間だっ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます