第171話 前日譚
からんころんと、クラシックの雰囲気に包まれた喫茶店のドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
この店に溶け込む落ちついた雰囲気のショートカットのウェイトレスが待たせることなく案内に来る。
この店も二度目か。
最近流行のオープンな感じの店と明らかに違う。
さり気なく植物等で区切られたテーブル席。
耳障りにならないでいて他のテーブルに会話が届くのを遮ってくれるクラシックのよる音のカーテン。
都会でふと隔離されるような雰囲気が味わえる。
自分達の世界に浸って珈琲を楽しみたい者、そして密談をしたい者にとって高い珈琲代を払ってもお釣りが来る得がたい喫茶店。
これからも世話になるかもなと、ウェイトレスの膨らんだ胸をチラッと見れば「サキ」と書いてあった。
「何か?」
きつい目と口調、胸をガン見していたと勘違いされたか。俺は慌てて視線を外した。
「いや、済まない。
工藤というものが先に来ているはずだが」
「お名前をよろしいでしょうか?」
「果無」
「はい伺っています」
よく考えたらこれで俺はサキさんに果無と認識されてしまうのか。彼女が友達に『果無って奴が私の胸ガン見してんのキショーー』とか愚痴ったらやだな。
「では案内しますね」
クラシックと珈琲の香りに包まれて奥まった席に案内されると先に来ていた工藤が珈琲を飲みながらスマフォを見ていた。
「来たぞ」
俺は手荷物を置きつつ向かいの席に座り込む。
「来たか。珈琲一つ、それとトーストを頼む」
「おい」
工藤は顔を上げるなりサキさんに当たり前のように注文を出す。
「奢りだ」
それなら文句はないが、時間の無駄かも知れないが注文くらい選ばせてくれ。食事まで栄養が取れればいいと割り切れるほど合理的にはまだ到っていない。
まあトーストを付けてくれたか、こういった喫茶店でのトーストは期待してしまう。
「分かりました」
注文を取るとサキさんは無駄なくさっと立ち去っていく。十分に離れたのを確認すると俺は口を開いた。
「何の用だ?」
今回に限っては、俺がいつもの如く割り込んだわけじゃない。昨夜時間を作って欲しいと工藤の方から連絡があり急遽会うことになったのである。
やっと先の事件が片付いた谷間、こんな事で潰したくはなかったが、いつも人を利用している俺だ、たまには利用されないと収支が悪くなると承諾した。
「これを見てくれ」
工藤が俺の前にスッと出した写真には食欲を無くすような光景が映っていた。
なんだこれは?
タイトルを付けるなら『深海で溺死した死体』。
白くぶよぶよにふやけた皮膚にタイヤで引かれた蛙の様にぺしゃんこになっている体。
土左衛門にしてから引き上げてプレス機で潰す、まあ金と手間を掛ければ不可能じゃない。わざわざこんな死体を作る理由は、殺しても殺したりない死体すら辱める恨みがあった。
まあ工藤もこんな月並みな推理なんぞ聞きたくて呼んだわけじゃあるまい。俺の推理力なんぞ本職の工藤の方が上だろ。
それでも俺を呼んだ理由なんか一つしか考えられない。
「それで俺に手柄をくれようとしてくれた訳か?」
こういう一見訳が分からない事件に出会ったときに便利な呪文がある。
それは、魔。
こんな死体をなぜ作ったのか? それが魔だから。
単なる猟奇事件かも知れないが、この事件に魔が関与している可能性は否定できない。
そして魔の関与が疑われるのなら、退魔官の出番となる。
ただ分からないのは俺が呼ぶことにした理由。自慢じゃないが俺は普通の警察には嫌われている。鳶に油揚げをさらわれるじゃないが、折角内偵を進めていた事件を横から表れた若造が口だし手を出し手柄をかっ攫っていく。まあむかつくだろう。
退魔官とは一般警察からのヘイトを一身に集めるの仕事と言ってもいい。
此方から関与しない限り、好きこのんで呼ぼうなんて思わない。特に工藤のような出世願望が強い奴はな。
それがなぜ?
見た感じ捜査はまだ序の口で、そこまで追い込まれているようには感じられない。
「借りを返して貰おうと思ってな。
調べたら此奴は、女性を攫って強姦や性的拷問などのビデオを撮って金儲けしているグループの一員だと分かった」
こんな原形の無い死体から良く身元を特定できたな。まあ見ると服は着ているようだから免許証でもあったのか。そこから家を訪問して家捜をした結果、悪事の証拠がぼろぼろ発掘できたといったところか。
棚からぼた餅的に手柄が転がってきた訳か。そんな転がってきたチャンスに、抜かりのない工藤のことだもうメンバーのことも調べ上げているのだろう。
ただこうなると分からないことが一つある。
「逮捕すればいいだろ」
メンバーの一人が怪死しようが魔が関わっていようが他のメンバーを捕まえられない理由にはならない。こんな連中放置していていい連中じゃない、逮捕状も直ぐ取れるだろうし大手柄だ。
「ああ、このグループを逮捕するのは簡単だ。だが所詮此奴等はトカゲの尻尾だ。
狙いはこういったグループを統括している元締めだ」
こういったグループということは、こういったことをしているグループが他にもあるというこか。
このグループを捕まえても、何も変わらない。
このグループを捕まえて、背後関係を吐かせた頃には黒幕は消えている。
いや、此奴等は黒幕のことをほとんど知らない可能性もあるのか。
「黒幕か。引っ張り出す算段はあるのか?」
工藤がここまで慎重になる以上手強い相手だと言うことは分かる。ならその手強い相手を引っ張り出す絵図を書くのが難しいのは当然の帰結。
「貴方です」
まあ、そうだろうな。だからわざわざ嫌われ者の俺を呼んだのだろう。
はてさて、その難しい絵図にどう俺はどう嵌め込まれるのか。
「まあ、そうだろうな。それで俺に何をしろと?」
「警部にはこのグループに入り込んで欲しい」
「囮捜査か。だが通常禁止されている。違法な捜査で得た証拠では裁判で戦えないぞ」
例外は、麻薬関連くらいだ。
「だが退魔官は禁止されていない。違いますか?」
前回派手に偽装工作とかしたからな、退魔官なら何でもありと思われても仕方が無い。
「魔関連の事件ならな」
「そこでさっきの写真です。魔が関連している可能性は高いと思われますが?」
「可能性は否定できない。否定できない以上、退魔官はあらゆる方法を使って調査する権限が与えられている。
もちろん囮捜査もOKだ。
確かに法律上は問題ないが、別の問題は多々あるぞ。
まず一つ潜入する俺のリスクが高い。この間の借りとしては少々釣り合わないな」
確かに囮捜査は格好いい。映画なんかでもヒーローが犯罪組織に入り込み、犯罪組織を騙しつつ華麗に活躍。だがなそれはヒーローだからできることで、俺は能力的には凡人に過ぎない。
こんな拉致監禁強姦を平気でする連中の懐には入って、もしばれたらどうなるか?
この写真より悲惨な死体になっている未来が見えるようだ。
「そこは我々が責任を持ってバックアップする」
学校の先生やら何やら今までそう言って本当に助けてくれた奴はいない。
まあいざとなれば切り捨てられるだろう。工藤がどうこうよりも人間なんてそんなものだし、囮捜査官なんてそんな役だ。
いざとなったとき、一人で切り抜けられる担保が居る。
あるか?
思い付くか?
思い付けば引き受けていいと思っているのか俺は?
「これを見てくれ」
「ん?」
俺が思考に没頭していると工藤がA4サイズの封筒を差し出してきた。
封筒の中には、今作戦の立案計画について書かれていた。そこには工藤立案の元、俺を囮捜査官として送り込ませると明記されている。
「更に今の会話を記録したデータもある」
工藤はボイスレコーダーをテーブルに乗せる。
「お前」
「貴方に何かあったときにこれが然るべき所に出されれば私は終わりだ。
貴方が信用できる人に預ければ十分に担保になる」
死なば諸とも、確かに工藤は必死になるだろう。
だが俺が欲しいのはそういう精神論じゃないんだが、具体策、さもなければハイリスクを上回るハイリターンの提示。
だいたい信頼する人に預ければいいと簡単に言うが、その信頼する人が簡単にいると思うなよ。
如月さん、人間的にどうこうよりも彼女も公的人間、最後は公を選ぶ。
時雨さん、彼女をこんな汚い世界のことに巻き込めるか。
キョウ、こういった難しいこと出来るのか?
西村、一般人だしいざとなったときの武力の裏付けがない。
いない。
だが金で信頼できる奴ならいるか。見合った金を支払えば仕事は果たす仕事人達なら心当たりが幾人か居る。
結局金か。人は俺を寂しい奴と思うだろうが、やはり金は信頼できる。
「珈琲とトースターです」
俺が黙考するタイミングを狙ったかのようにサキさんが注文したものを運んできた。
荒んだ心が癒やされるような珈琲とトーストの香りのブレンド。トーストなんぞ、焼いたパンにバターが乗っているだけなのに、心が高鳴ってしまう。
思考がリフレッシュされた。彼女が作ってくれたこの間に考えを決める。
「ではごゆっくり」
サキさんは一礼して去って行くのを確認して珈琲を味わう。
雑味が消え去った今まで飲んできた珈琲とは別物の珈琲の味に思考が纏まり口を開く。
「問題二だ。
このグループの仲間に成った以上、彼等が動けば俺も参加せざる得なくなる。
俺にやれと?」
場所だけに明言しなかったが、有り体に言えば女性の拉致監禁強姦脅迫だ。任務の為とはいえ、そんなことしてしまった俺はどうなるんだ?
無罪放免?
罪に問われなくても、そんなことをしたと知った周りは俺を何と思うだろうな。
「奴らにそんなことをしている余裕を与えないほど、一気呵成に追い詰めばいい」
「ほう、なるほど。詳細は後で聞くとして、この場はその絵図を信じよう。
次だ。
今なら死人はこれ以上でない。
だがこの作戦を実行すればこのグループのメンバーの内何人かは死ぬな。
幾らクズ共とはいえ、お前にそれを背負えるのか?」
今の日本で例え悪人とはいえ人の死を背負える者が何人いようか?
下手したら自責の念で潰れる。
「背負う」
工藤は力の籠もった目で断言した。
今は心が酔っているからいいが、事件が解決して醒めた心でも背負えるものなのだろうか? まあ、男が背負うと覚悟を決めた以上、俺が心配するのは余計なお世話か。
俺は俺の心が治らない限り、悪人が幾ら死のうが、正直言えば善人だろうが、心が痛むことはないのだろう。
俺は俺が守りたいと思った奴以外はどうでもいい。
「まあいい、今はその言葉信じよう。
最後だ。
お前もしかして娘が居るのか?」
「いる」
この答えでどちらかと言えば俺同様官僚気質の工藤がここまでの危険を冒す理由が分かったような気がする。
「いいパパか」
「娘の為にもこんな奴らをのさばらせておけない」
俺とは違う。俺は俺が今生きている時代しか考えないが、次世代のため社会を良くしようとする気持ち、親の気持ちか。
俺には理解できないが、分かる日が来るのだろうか。
「可愛い娘さんなんだろうな」
「写真を見るか」
「親馬鹿はご免だ。まあ、この事件が終わったら紹介でもして貰うか」
「それじゃ」
「いいだろう、ここで借りを返しておこう。
但し、やっぱり少し此方が重い。これで借りを返した上に貸しにさせて貰う」
「了解だ。
それと今回の件に関しては俺も部下も顎で使ってくれて構わない」
「随分気前がいいな」
「その代わり潜り込む算段は其方で段取りしてくれ」
「へっ?」
「俺はこういうイレギュラーは捜査はしたことがない。だがお前は得意なんだろ。ノウハウの無い俺が立案するより、お前が考えた方が確実だ」
「・・・・・・・・・」
こうして俺の初の囮捜査が始まったのであった。
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