第161話 とかく横より縦が難しい

 開けられたバイザーから肺から震える冷気が入り込んできて目を覚ます。スーツの外部センサーで高度を確認すると4000メートル、富士山並みとは随分と来たもんだ。しかしエスカレーターに止まる気配は無く、見上げれば先は遙かに霞んで見える。まだまだ上に連れて行かれるようだな。

 準備が無駄にはならなかったが、こんなもの無駄になって上司に嫌みを言われるのが花。役に立つということは、想定していた困難がやってくるということ。

 憂鬱になっていてもしょうが無い、無駄にならなかった準備を始めるか。

「燦、起きろ」

「むにゃ~な~に兄さん、あと五分寝かせて~」

 燦は揺り起こす俺に寝惚けて纏わり付いてくる。端から見れば微笑ましいと思えるのかもしれないが、燦が加減を間違えれば空き缶如く潰される身としては冷や汗ものだ。

「寝惚けている場合か、そのまま寝てたら凍死するぞ」

「ふわ~」

 大欠伸をしながら燦は伸びをして、やっと解放されて俺もほっとする。

 さて六本木はといえば、ユガミを警戒して寝ないで見張りをしていてくれたということはなく、俺達の下の段でだらしない格好で寝ている。良く下に落ちなかったな。

「起きろ」

 俺は六本木の頭を蹴る。

「へっ何々、ユガミ?」

「今更ユガミじゃねえよ。元々ユガミの中だろうが。

 そろそろ酸素濃度が怪しくなってきた、酸素ボンベを接続するぞ。それとここでメシを食べておこう」

 二人の顔色を見れば血色がいい、高山病には罹ってないようだ。まあこれくらいの高度なら体質的に弱い者でなければ問題は無い、本番はこれからだ。

 重いので外しておいた携帯用のランドセル型の酸素ボンベをそれぞれ手伝って背中に装着する。

 ズシッと肩に荷重が掛かる、明日は筋肉痛になりそうだ。

 その上でエスカレーターに置かれたままになっている予備の設置型の酸素ボンベから伸びるホースをスーツに接続する。上までどのくらいかかるか分からないんだ、予備はどれだけあっても心許ない。

 これでバイザーを閉じてバルブを開ければ気圧と酸素が維持され、高山病になることはなくなる。

「よし、これで準備はいいな。まだ酸素ボンベのバルブは開けるなよ。ギリギリまで使用は控えて節約しておけよ。あとどれだけ登るか分からないからな」

 高度8000メートルくらいなら何とかなるかも知れないが、それ以上登ることに成ったら、何の訓練もしていない俺では命を削っていくことになる。

 旋律士の六本木や魔人の燦はどのくらいの高度まで耐えられるんだろうな?

「あんたゲームでエリクサーを最後まで使わないで溜め込むタイプでしょ」

「ふんっ。使わなくてもいざとなればエリクサーがあると思えば心に余裕が生まれる。使わなくても役には立っているんだよ」

 酸素があると思えばこそ耐えていられる、でなきゃ恐怖で潰れるか逃げ出している。

「あーいえばこーいう。私は心の余裕だけで無く体の余裕も欲しいの」

「高山病になったら元も子もないからな、そこは自己責任で頼む。でも断っておくが足りなくなっても俺と燦の酸素はやらないからな」

「うわっそういう事言う、女の子にもてなさそう~」

 ここで調子のいいことを言って土壇場で裏切るより誠実だと思うんだが、世間は違うらしい。

「別にお前に嫌われてもいっこうに構わないさ。

 よし、暖まったな」

 酸素ボンベの準備をしつつ鍋に入れて暖めておいた、レトルトカレーとご飯を出す。

 状況的にこれが最後のエネルギー補給、ならば最高に堪能するか。

「ここから眺める風景は絶景だ、さぞやご飯が旨いだろうさ」

 ベルトに寄り掛かり風防から見下ろせば首都圏をゆっくりと一望に出来る。飛行船でもチャーターしなければ拝めない超セレブな光景はプライスレス。

「ほんとこれでいい男でも居ればご飯が更においしくなるんだけどな~」

 六本木は俺の横で風景を見ながらカレーを口に入れる。

「なら俺を見てればいい」

「はいはい」

「兄さん男は中身です、具体的には権力と収入」

 燦も六本木と反対側の俺の隣に来て言う。

 まあ燦にとっては俺が権力を握るかどうかは自身の今後に関わること、六本木よりよほど切実だな。

「ふっ俺がその二つを手に入れられるように協力頼むぜ、妹」

「はい。野望に燃えてこそ男です」

 燦が俺に賭けた分くらいは返してやらないとな。

「私は顔だけどな~」


 メシを食べ終わると俺達は少しでも消費を抑えるため、また座り込む。

 現状打破のため俺達に出来ることなどありはしない。

 俺達に出来るのは、いつ着くのか、この先どうなるのか、じりじりと精神を削られる我慢大会に、ただ耐えること。

 あとどのくらい上るのだろうか?

 高度4000メートルというと大した高さに思えるが、キロに直せばたった4キロ。そこらの健康志向のオッサンが軽々と走れてしまう距離で、四キロ走ったと言ったところで何の自慢にも成らない。

 それがどうだ同じ四キロくらいの富士山に登ったと言えば、途端に凄いと言われる。

 同じ事は他にもある。同世代横に100人の人間が居ても何も感じない、しかし縦100世代の歴史と言えば途端に凄くなる。

 とかく世界は横より縦が難しい。

 縦は横に行く数倍、時には数十倍の労力が居る。

 上り詰めるのはとかく苦難が伴う。

 それでも頂点を目指して歩き続ける人間が居る。ただその頂点の光景が見たいが為に。

 それに何の意味があるんだ?

 いけない思考が幻覚に惑わされるように少しネガティブに落ちている。

 まずいな耐えるだけならまだ出来るが、これでは咄嗟の判断が鈍る。

 俺はバイザーを降ろし予備酸素へと繫がる弁を開ける。

 ふうっ思考が少しクリアに戻った。

 燦や六本木も見ればバイザーを降ろしている。これ以降は会話も接触回線のみとなる。


 無言のままに上に上に上っていき、気付けばスーツの上にうっすらと氷が蔓延ってくる。

 体外センサーによればとっくに氷点下の領域。

 バイザーから見える世界もうっすらと白く染まっていく。

 俺は手でバイザーに付いた氷雪を取り除く。

 生命を拒む、空気が薄く凍り付く過酷な世界、それでもスーツ内は快適だった。

 酸素はタップリ、温湿度も快適。

 苦労も無く高く高く

 上っていく

 登山家が命を削って登っていく高度をスーツに守られエスカレーターで運ばれ

 楽々と上がっていくが、じりじりと減っていく酸素残量の如く精神が削られていく。

 ふふっ着くのが先か発狂するのが先か。


 人はなぜ高見を目指すのか?

 多くの者が目指して、多くの者がやがて挫折して楽になっていく。

 頂点に辿り着けるのはただ一人。

 期待する答えがあると分からずとも、信じて。

 苦しみに耐え、多くの物を捨て、孤独に耐え。

 狂ったように己全てを注ぎ込み上を目指す。

 孤高、これほど神に近付く行為を示した言葉は無い。

 

 酸素さえ持てば余裕。

 万全の準備で挑んだが、常あるように困難は準備を上回る。

 バイザーを閉じ視界が狭まり外気を遮断していたので気付くのが遅れた。

 バイザーを閉じるのが早すぎた? もっと早くに気付いていれば何か手があったのかもしてない。

 だがもう遅い。風防はいつの間にか無くなり台風並みの突風に晒され、吹き飛ばされないようにするのに精一杯となった。

 エスカレーターに腹ばいと成り必死にしがみつかなくては吹き飛ばされる。 

 エスカレーターから離れたが最後、強制スカイダイビング。

 最初は呪ったスーツの重さも今じゃ頼もしい命綱。

 エスカレーターに乗っていればいいと悠長なことは言えなくなっている。

 寧ろ死地への強制連行。

 その場に留まることを許されない。

 どんどん上に運ばれ益々強まる風にその重量すら紙切れに等しくなる。

 俺と六本木の上に覆い被さった燦が渾身のパンチをエスカレーターに打ち込みめり込ませ錨とする。

 気圧は下がり風は鋭利に尖り刃となって斬りかかってくる。

 耐熱性抜群のスーツも気圧の刃には切り裂かれる、俺は必死に身を低くして風をやり過ごそうとする。

 もはや策も何も無い、ただ必死。頭の中は必死で真っ白となっていた。




 どのくらい上に上がり、どのくらいの時が流れたのだろう。

 気付いたときには俺は一人停止したエスカレーターに横たわっていた。

 スーツも切り裂かれ吹き飛ばされ、インナーの上にボロが纏わり付いている状態。

 全身打撲で体中がズキズキして痛い熱い。

 振り返っても誰もいない。

 見上げても誰もいない。

 燦や六本木はどうなったんだ?

 だが今は人のことより自分。自分さえ救えない者に人を救う資格は無い。

 どうする?

 俺でさえ無事なんだ燦も無事だろう。なら助けを待つのが賢い選択。

 このボロとなった体だが大人しくしていると痛みがすーと消えていくのを感じる。

 魔法じゃあるまいし怪我が直ったわけじゃ無い、脳内物質垂れ流しだな。

 どんな麻薬でも感じることが出来ない神に抱かれる陶酔感。

 このまま信じて待つのも悪くない。

 目を瞑ろうとした俺なのに、手を前に出す。

 ずきっとする痛みを噛み殺し足を前に出す。

 俺は痛みで頭をガンガン殴られながら、エスカレーターの上を這いずり出す。

 まるで瀕死の芋虫のようでみっともなく。

 陸に上げられた魚のように見苦しく。

 足掻く、手を出し足を出し体をよじって上を目指す。

 後一歩。

 後一段。

 後一段上がれば頂上に着くかも知れない。

 駄目だった。

 だが次の一段こそ。

 期待と失望を延々と繰り返し、頂上が有るなんて俺の思い込みで本当に無限に続くのかも知れないと絶望に沈みそうに成りながらも。

 体を動かす。

 もはや無心。

 動かせる限り体を動かし、ただ上を目指す。

 その行為にもはや期待はない、悟りが開けたかのように期待すること無くただ体を動かす。

 繰り返される一段を上がったとき、視界が開けた。

 四畳ほどの白い平面だけの頂き。

 俺は辿り着いたんだ。

 頂点とは孤高の頂き、踏み込めるのはただ一人。

 燦も六本木もいなくなり、俺はただ一人頂きで立ち上がった。

「やったぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 俺は柄にも無く叫んでいた。

 どこまで視界を遮るものが無い頂点の光景。

 上に何も無く横にも何も無く、ただ下のみ広がる。

 紛う事なき頂点の風景、神と一体になったかの如き万能感が広がる。




 だが何事も頂点を極めれば落ちるのみ。

 人間挽歌のエクスタシーの後には悟りを開いたかのごとく諸行無常に醒めていく。

 頂きに何も無し。

 あるのは高見のみ。

 意味のある人生だったのだろうか?

 どこかで降りて適当に生きて適当に家族でも作っていた方が幸せだったのではないだろうか。

 誰もいない。

 俺の成果を見せたい時雨も。

 支えてくれると言った燦も。

 嫌みを言ってくる六本木も。

 誰一人俺が為したのを見てくれない。

 それは孤独な部屋でクリスでトリップして見る夢の中の達成感と何が違う?

 孤高の頂に立って湧き上がるのは一瞬夢の達成感と永劫の虚無、胸が潰されそう寂しい。

 見下ろす下には曲率を描く蒼い空と青い海が広がる。

 美しきかな。

 虚無に潰されそうな俺の最後の慰み。

 頂点は俺に何も答えをくれなかった。

 せめて最後はあの美しき中で、頂きから飛び降りようと楽な横に移動しようとした。

 楽?

 ここまで来て楽に縋るか?

 今までの歩みを全否定するか?

 違う。

 頂きに何も無いだと。

 そんなのはあたりまえだ。

 頂きを求める者は与えられる者じゃ無い。

 頂きを求める者は求め往く者。

 頂に辿り着いた者などいない、求め続ける者がいるのみ。

 ならば横で無く縦こそ我が生き様。

 俺はこの頂点の場で最後の力を振り絞って飛び上がった。

 少しでも上を目指し。

 少しでも上に到達するため手を伸ばす。

 掴んだ。

 伸ばしたその手の先に何かを掴み。

 ならば当然の如く這い上がる。

 何か分からない。

 この頂点の先に何があるのか?

 だがあるならがむしゃらに上がる。

 そして立つ。

 先程の頂点からからわずか二メートルもない上。

 だがそのわずか二メートルの差が先程と比較にならない風景を見せてくれる。

 辿り着いたと思った先の更に上、こここそが真の頂だったんだ。

 先程と桁が違う達成感と万能感が体中に染み渡っていき、悟る。

 いや頂点など無い、果て無く上を目指す。

 無限に途方に暮れることは無い、無限に達成感と万能感を味わえるということ。

 無限に道程を楽しめる。

 ワクワクする気持ちがムクムクと無限に湧き上がり、上を向く。

 だが今はグッと抑えて振り返る。

 そして俺は両手を伸ばし

 そして引く

 右手に燦と左手に六本木。

 これぞ道を切り開いていく者のみに許された特権、後に続く者達を引っ張り上げることが出来る。

 どうやらこの二人も諦めずに後を追いかけていてくれたようだ。

 二人とも俺同様スーツは破れ体に密着するインナーのみ。ダイレクトに体の線が浮き出ている。

 出るとこが出た大人の体の六本木に、中性的な躰付きの燦。

 美女と美少女、両手に花というのも先往く者の特権かな。

「二人とも無事か?」

「えっえっどこここ? 私なんでこんないやらしい格好になって貴方に抱かれているの?」

 状況変化に戸惑いながらも落ちて成るものかと六本木はしがみついてくる。

「見捨てられてなかった。

 兄さんが拾ってくれるなら私はどこまでも大丈夫です」

 燦は捨てられた子犬のように体を擦り寄せてくる。

 二人とも大丈夫、二人とも俺を見てくれる。

 俺は柄にも無く嬉しくなり二人を力強く抱きしめる。

 三人で体温の暖かさを感じ合う。

 十分に体が温まり俺は宣言する。

「よし、二人とも仕事の時間だ。

 これより「無限エスカレーター」の調律を始めるぞ」

「しゃーないわね」

「はいっ」

 二人とも光の宿った目を俺に向けてくれるのであった。

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