第126話 普通の人

 おぞましさに引かれ振り返れば地面から手がもやしのように生えてくる。

「どういうことだ」

「しっ知らないわよ」

 聞いても六本木からは戸惑いの声しか返ってこない。

 うらやましい~

 うらやましい~

 うらやましい~

 結果論だが状況を調べるより早く逃げるべきだった。背後だけじゃ無い俺達を包囲するように地面からにょきにょきと腕が生えそこから躰が伸び上がってくる。

 今ならまだ駆け抜けられるかと考える間。

 自らの足を地面から引き抜き。

 大地を踏み締め立ち上がる。

 あっという間に俺達は新たに生えてきた群衆に取り囲まれてしまった。

 白いひょろひょろした躰に瘡蓋のように赤黒く濁った目がおぞましい。

 ぱかっと開いた口より、うらやましいと呪詛を吐き出す。

 進化した? 退化した?

 じわじわと兎のように追い立て。

 じりじりと体力を奪い。

 しんしんと恐怖を募らせていく。

 愉悦すら感じさせる嫌がらせは、数で逃げ場無く包囲する下品な嫌がらせに変わった。

 こうしている間にも地面から生え包囲を厚くしていく。

「プロとして意見を聞かせてくれ」

「知らないわよ~、なんでこれで調律されないの」

 返ってくるのは泣き言ばかり。

 六本木の旋律が効かなかったことはないのだろう、中途半端に効いたが為に嫉妬の群衆に変化を生じさせた。退化したかのようにすら感じる変化だが、退化すれば脅威が下がるという訳でも無い、単純になった分つけ込む隙が減ったとも言える。

 これは俺の分析、打開策を見出すためプロとして一段上もしくは違う角度からの分析を聞きたかったのだが。

「お前本当に一人前なのか?」

 プロではなく更に見下す一人前なのかと聞いてしまった。

 まあこの女にもはや礼を示したところで意味は無いからいいか。

「何よっ、この間やっと一人前の証として鉄等級に認定されたんだから」

 時雨達でまだ見習いの鉛等級。

 鉛で見習い。鉄で一人前。鋼で熟練者。そこから上は功績で上がっていくらしい。

 だがなぜだろう、ひいき目や此奴が嫌いなことを除いても時雨ならこの程度のユガミ軽く調律出来るんじゃないかと思えてしまう。

 だが等級的には此奴の方が上。

 これが意味するところ。見習いから一人前の認定は、銅とかと違い明確な実績でなく徒弟制度にも近く上に付いた者が認めれば認可される。

 まったく前埜は何処まで過保護なんだ。

 おかげで時雨やキョウが最低ラインなんて錯覚した。

「一人前なら泣き言言ってないで、さっさと何とかしろ」

「無理よ~」

「ああっ」

「ちょっ睨まないでよ。

 私の持つ最高の旋律で調律しきれなかったのよ、無理よ」

 やっぱりそうか。能力的には時雨やキョウに劣っている。だが、俺の銃などと違い効果が無いわけじゃないんだ。攻撃が効くのなら何とか出来るという思いが期待が俺に口を開かせる。

「無理でも何でも何とかしろ」

「何それ、根性論、前時代的、ブラックよブラック、訴えてやる」

「何がブラックだ。俺は契約に従いユガミを倒せと言っているだけだ」

「うっさいわね、ぎゃんぎゃん吼えるだけなら誰でも出来るっつうの。

 そんなに言うなら自分で何とかしなさいよ」

 売り言葉に買い言葉かも知れない。本当は打開策を考えていて俺に言われて片付けを親に言われた子供のように反発しただけかも知れない。

 だが、この台詞を聞いて俺の肩から体中から力が抜けてしまった。

 久しぶりに感じる失望。

 ここ暫く性格は兎も角プロ、プロの矜恃を持った者達とばかりと仕事をしていたから忘れていた。

 他人に期待することの虚しさ馬鹿らしさ。

 だから俺は自分一人で何でも出来るようにしてきたっていうのに。この俺が他人に期待していたなんて、ふっふっ笑いが腹から込み上げてくる。

 俺が思っていた以上にこの業界は水が合っていたらしい。

 温く甘くなっていた。

「分かった。もうお前に期待しない」

「へっ」

 間の抜けた六本木の顔を視界の外に追いやり、俺は呼ぶ。

「犬走」

「傍にいるよ」

 俺の傍に控えお呼びが掛かるのを静かに待っていた、いい猟犬だ。

「お前の覚悟今でも揺るがないか?」

「はい」

 犬走は即答する。

「なら死んでくれ」

「うんいいよ」

 犬走はこれこそ待っていた言葉とばかりに笑顔で答える。

「ちょっちょ死んでくれって」

「仕事を放棄した奴は黙っていろ」

「黙らないわよ」

「ならお前が俺達が逃げる血路でも切り開いてくれるのか」

 もっともこの包囲を抜けたところでこの空間から脱出出来る可能性は低い。この空間から逃げるなら最低でも嫉妬の群衆の嫉妬を解消してやる必要がある。

 ここは嫉妬の檻、嫉妬されないものは見えない鉄格子に囲まれている。

 つまり犬走がいる限り嫉妬は犬走に向けられ絡まり捕らえて、逃がしてはくれない。

「何で私が、あんたがやりなさいよ。女の子を守るのが男の役目でしょ」

 今度は無理とは言わない、言うのは俺だ。

「俺では無理だ」

 俺では血路を切り開くことも嫉妬を解消してやることも出来ない。

 だが犬走なら最低でも解消させてやることは出来る。その後なら血路を切り開いて逃げることも可能かも知れない。

「あーあー無理って言った。言った」

 小学生か、何がそんなに嬉しいだ。

 そんなこの女でも最後の一線だけは死守しているんだな。

 最後の一線、俺と火凜を見捨てて一人で逃げればいい。多分嫉妬の群衆もこの女は無理には追わないだろう。この女を繋ぎ止める最後の一線は火凜、火凜がいなくなれば俺なんぞいなかったの如く存在を忘れて逃げ出すんだろうな。

 この女は馬鹿なようでもそれがよく分かっている。倒すのは無理と見切りを付け、なんとか自分と火凜が逃げ出せないか考え打開策が浮かばないから苛立ち俺に当たる。だが、それだって絶対じゃない、自分を誤魔化せる理由があればこの女は引く。これが時雨だったら、何があっても引かない見捨てない、自分の命すら考慮しない賭に出る。

 この女に世界を守っている自覚はある。

 自覚があるから己の力の及ぶ範囲で守ろうとする。

 だが、この女には自分を犠牲にしてまで世界を救う覚悟はない。

 つまり、年相応の普通の人。

 だから俺は苛立っていたんだな。普通の人に俺は受け入れられないというに、ここ最近のプロ達同様受け入れて貰えると期待して裏切られていた。

 この女のへの対処は無自覚な悪意にまみれた普通の人と同じでいい。

「黙れっ」

 俺は銃を抜いて六本木に突きつける。ユガミは倒せなくても旋律士なら倒せる。俺が此奴に理由をくれてやった、諦めてもしょうが無い不可抗力の理由。

 これであるかないか分からない良心は痛まないだろ。

 だから邪魔をするな。

「えっえっちょっと落ち着いて」

 六本木は慌てて両手を挙げる。此奴に命を賭けてまで俺を止める気概はない。

「犬走」

「最後くらいは火凜と呼んで欲しいな」

 そうか俺に名前を呼ばせるか。

「火凜、まず上着を脱げ」

「うん」

 火凜はウインドブレイカーを脱ぎジャージも脱ぎ捨てランニングシャツ姿となる。女子としては少し逞しい筋肉で盛り上がった二の腕と締まって隆起する胸元が晒される。

「感じるはずだ、お前に一番おぞましい視線を向ける奴を」

 火凜は目を瞑り神経を研ぎ澄ます。

「うん、感じる」

 流石女子こういう感覚は男より上だ。

「そいつ相手に特訓の成果を見せろ」

「それでどうなるの?」

「この怪異が封印される」

「封印か」

 少し肩が落ちたように火凜は答える。

「残念ながら俺とお前じゃどう足掻いても倒すことは出来ない」

 まあ旋律や魔の力が無くても、この空間ごと消去する物理的な力があれば倒せるかも知れないが、空間歪曲弾なんて太陽でも潰さなければ作れやしない。

「それが凡人の限界だが、凡人に出来るベストだ」

「いいね、ベスト、燃えてくるわ。

 でも報酬払えなくなるね」

 気にするのはそこかよ。

 此奴もどこかやはり壊れている、そうでなくてはコンマ何秒を競う人外には成れやしないか。

「気にするな。俺もいい教訓になった」

 これは俺のミス。時雨などに見慣れて、ユガミのリスクを見誤り六本木の力を見誤り、簡単な仕事だと思い込んだ傲慢。

 代償は払わされるだろう。

「そうあっさりされると自分の魅力に自信なくなるな」

「お前は十分魅力的だよ」

「ありがと。先払いで抱かせてあげてもいいけど、流石にこの状況じゃね」

 火凜は周りをぐるっと見て言う。

 俺も見られて興奮する性癖はないが性欲が無いわけじゃない。

「きゃあっ」

 俺は火凜の左胸に掌を押し当てた。

 柔らかい胸を押しのけた掌に火凜の鼓動が伝わってくる。

 どくん、ドクン。少し早い適度な緊張が伝わってくる。

「いい感触だ」

 託せる。

「それはどう致しまして」

「露払いはしてやる。思いっきり走れっ」

「OK、任せた。じゃあ、行くね」

「行け」

 それをスタートの合図に火凜は嫉妬の群衆に向かって走り出した。

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