第50話 無自覚の飴と鞭

 前埜さんはこれから仕事があるとのことで解散と成った。時雨さんがお茶を片付けるのを俺は何となく手伝って給湯室まで来た。水道流しガスコンロと冷蔵庫に食器棚と一揃いありその気になれば食事が作れ給湯室と言うよりキッチンだな。

 休憩時間でも昼でも無いので、今この空間には俺と時雨さんしかいない。

 時雨さんは流しで食器を洗い、俺はエプロンを装着した時雨さんの後ろ姿をなんと為しに見ている。弓なりに伸びた背筋のラインから続く熟す前のリンゴのように引き締まった尻の輪郭は芸術的に美しい。心が落ち着き和やかになっていく、これは美術館で俺の心が共鳴する芸術を見ている時の気分に近い。美しさは輝き、福音もたらす天使となる。

 人生の真理で至福の時間は短い。たかだが数個の食器直ぐさま片付けは終わり、くるっとこちらを向いた時雨さんは厳しい表情をしていた。

 そう言えばお小言の続きがあったか。これは苛めじゃない、俺のことを思ってのこと真摯な気持ちで受けよう。

「君は全く無茶ばっかりして」

「そんなことは、ぐあっ」

 反論しかけた俺の胸を時雨さんはぽんと叩き俺に激痛が走った。

「分かってるの? 下手をしたら君は死んでいたかも知れないんだよ」

 時雨さんは真っ直ぐに目の焦点を俺の目の焦点に合わせ込んできて、俺が視線を逸らすことを許さない。

「君は一般人なんだ、自分の命を優先して」

 俺は一般人、時雨さんとの間に明確な一線が引かれた。

俺が飛び越えようとすれば時雨さんの瞳が押し返してくる、越えることを許さない。

沸いてくる怒りに、それなら京は死んだ方が良かったのかと叫びそうになったが、ぐっと呑み込んだ。

京を助けたのは俺が勝手に時雨さんの為になると思って勝手にやったこと。

俺の勝手を時雨さんに押しつけるのは、格好悪すぎる。俺は嫌な奴になるがダサい奴には成りたくない。

っとなると、ここは謝るべきなのだろうか。

でも何に対してだ?

京を助けスキンコレクターを倒した、結果は全て良好。

過程もちゃんと前埜さんに連絡している。

最期にちょっと俺は無茶をしたが、俺が死んだところでなんだというのだ?

自分を突き放したことで状況を俯瞰することが出来た。

 少しふて腐れた俺の顔が映り込む瞳を宿す時雨さんは怒っている顔と悲しそうな顔が二重になって見えた。

 もしかして俺は心配させてしまったのか?

 俺が?

 心配したから俺に怒っているのか? 

 いやいやいや、時雨さんにとって俺なんかいない方がいい存在に違いなく、これは俺の願望が投影されただけだな。

でも時雨さんは優しい人だ、例え嫌な奴でも死なれるのは嫌なのだろう。なんと言っても初対面の俺を無償で助けてくれた人だからな。そういった意味では俺は時雨さんに迷惑を掛けたかもしれない。

「すまなかった、以後はもう少し気をつける」

「よしっ約束だよ」

 俺が謝り時雨さんの顔から怒りが流され笑顔が浮き出てくる。その顔に見とれているうちに時雨さんに俺の両手はぎゅっと握られていた。

「怒ったばかりで矛盾しているとおもわれるだろうけど。それでもこの気持ちは抑えられないんだ」

 ん? 頬が上気して俺を見上げてくる時雨さん。

 まさか告白はないとして何だ?

「キョウちゃんを助けてくれてありがとう」

 くいっと爪先立ちし顔が伸び上がった時雨さんの唇が俺の頬に届いた。

 柔らかく暖かい感触。

「約束は守って仕事頑張ってね。

 それと何かあったら直ぐボクに連絡するんだよ」

 思考が停止している内に時雨さんは部屋から走り去っていってしまった。

 いやいや、これで約束を守れは無理だ、こんなことされたら男はますます命を賭ける。

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