紅廊館の庭先で

Black river

第1話 付喪神

 一枚の新聞広告に惹かれ、私はその門をくぐった。


紅廊館こうろうかん

住み込み手伝い募集

三食付

業務内容:庭園管理、事務作業その他

注:怪異に耐性のある方所望


 最後の一行が若干引っかかったが、元来霊感など無いし、そんなもの信じてもいなかったので、私はためらいなく書かれていた番号に電話した。そしてトントン拍子で話は決まり、その年の初夏には紅廊館を住居にすることとなった。


 紅廊館は昔の学問所で、今は茶道のお点前などに使われている。広い日本庭園を敷地内に持ち、都会のビル群の中にあって、まるで中庭のような風情を醸し出している。

 そこには一人の年老いた男が住んでいた。名を冨田とみたという。下の名前は知らない。彼は随分長い間、一人で館の面倒を見てきたのだが、昨年腰をやったらしく庭仕事などきついことをできなくなってしまった。だから新たに手伝いを雇うことにしたらしい。

「ようこそ、いらっしゃいました」

 冨田は玄関で私の姿を見ると慇懃に頭を下げた。

「こちらこそ、この度はお世話になります。よろしくお願いします」

 初対面の人間関係は、とりあえず型通りの挨拶から始まる。

「どうぞ、おあがりください」

 入り口近くの小さな茶室に通された。中年の女性がやってきて、お茶とお菓子を出してくれた。雇われた身なのにこんな好待遇で良いのだろうか。

「今の方は食事や身の回りの世話をしてくださる悦子さんでございます」

「彼女も住み込みですか?」

「いえいえ、彼女には家庭がありますので。通っていただいています」

「そうですか」

 しばらくの間、静寂が部屋を支配した。鳥のさえずりが微かに聞こえてくる。

 気まずい。

「あの」

 目の前に黙って座っている老人に恐る恐る声をかけた。

「なんでございましょう」

 一見すると寝ているようだが、耳は起きているらしい。

「怪異に耐性のある方、というのはどういうことですか?」

「そのままの意味でございます」

 そのままと言われても、生まれてこのかたそんなことを考えたことが無いので分からない。

「ここは古い建物でございまして、遡れば安土桃山時代に作られた茶室だと聞き及んでおります」

 冨田は語り出した。

「古いものには魂が宿ります。ここも然り。紅廊館自体が一己の生き物のようなものなのです」

 折良くも古びた天井がギシリと音を立てた。

「こうした場所は現在では貴重でしてな、いろいろな人非ざるものが集まってくるのです」

「本当ですか?」

 私はまだ半信半疑だった。

「本当ですとも、例えばほら」

 そう言って冨田は床の間を指差した。古そうな茶碗が一つ、飾られている。

「よく見ていてください」

 言われた通り、茶碗を凝視しているとやがてどこからかカタカタという音が聞こえてきた。最初は分からなかったが、よく見ると茶碗が一人でに揺れているのである。カタカタという音はやがてガタガタという大きな音に変わり、茶碗が目に見えてグワングワンと揺れ始めた。そして突然ピタッと止まった。

「はっはっは」

 突然、冨田が笑い出した。

「いやはやいやはや、今日は恥ずかしがっているようですな。いつもなら走り回って見せてくれるところを」

「あれはなんですか」

 私は目の前で起こった不可解な現象に少し驚きながら聞いた。

「付喪神でございます。先ほども申したように古いものには魂が宿ります。あれは茶器に魂が宿った姿なのです」

 私は再び床の間に視線を投げる。もちろん、茶碗はもうピクリとも動かない。

「まあ、そのうちにあなたも慣れるでしょう。彼らは人間を害するようなことはほとんどありませんから」

 もっと根本的な問題があるような気もしたが、なぜか私は事態を非常にすんなりと受け入れてしまっていた。不思議と恐ろしいという気持ちは湧いてこず、寧ろ部屋の空気と相まって、妙に落ち着いた気持ちが胸の内に広がっていった。

「いかがですか?」

 老人は私に聞いた。

「こちらで働かせていただくことにします」

 気が付くと、私はそう言っていた。

「左様ですか」

 冨田はにっこりと笑って言った。

「ようこそ、紅廊館へ」

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