第32話 その名は藤吉郎
怒って信長の前を去ったが、だからと言って三河に帰るわけにはいかない。
家康は京での寝泊りに、郊外にある茶屋の別邸を使っている。
簡素ではあるが広い屋敷で、庭も豪華ではないが綺麗なので、家康は気に入っている。
家臣たちはこの別邸と、近くに寺社に分けて寝泊りさせている。
連れて来たのは主に若い連中で、内藤家長や榊原康政、それに石川家成の息子の康通に、本多広孝の息子の康重などだ。
「若い連中に、京や他の国々を、少し見せておきましょう」
と高力清長が言ってきたからである。
ただし、先手役の将である本多忠勝は連れてこなかった。
連れて来れば、騒動を起こすからだ。
忠勝は不満を口にしたが、別に戦さに行くわけではない、武田が攻めてくるかもしれないから、守っておけと命じ、無理矢理、三河に置いてきた。
落成式の次の日、康政ら若い連中には銭を与え、京の町を見て回る様に言った。
もっとも銭を出したのは茶屋清延である。
清延も商いが忙しいらしく、初日に挨拶に来たきり、姿は見ていない。
今この別邸には、近習の阿部正勝、そして老臣の夏目吉信、米津常春、政信兄弟、それに茶屋の使用人が数人居るだけだ。
静かなものである。
家康は庭の奥にある離れで、何時ものように書見をしていた。
そんな穏やかな五月晴れの昼過ぎ、突然、大きな声が響く。
「ご免下され、拙者、織田家家臣、木下藤吉郎秀吉と申します、三河守さまに、是非、お目通りを」
なんちゅうでかい声じゃ。
家康は驚く。
秀吉という男は、門前に居るのだろう、それなのに屋敷の奥の家康の居る離れまで、その大声は届いた。
しばらくすると、正勝がやって来て、織田家から木下どのという方が参られました、報告にきた。
聞こえておったは、と言いたかったが、通せ、とだけ言って、家康は読んでいた書物を収める。
「織田家家臣、木下藤吉郎秀吉でございます」
部屋に入って来た秀吉は、頭を下げて名乗る。
一目見て家康はギョッとする。
どこから先ほどの大声が出たのかと思うほど、秀吉は小柄だ。
顔は色が黒く、皺だらけ、その皺の間から、大きな目、大きく口がギョロッと現れる。
そして左右には、ピクピクと動く大きな耳。
異相だ。
一度見たら、絶対に忘れられない顔。木下秀吉という男を見て、家康が思った事だ。
「本日はまことお日柄も良く、いい時分でございますなぁ」
大きな口から楽しそうに、時候の挨拶のようなものを、秀吉は述べる。
「拙者、京の奉行を務めておりますが、いやいや、京の都は夏は暑くて堪らぬので御座います、それが一転、冬は寒くて寒くて」
顔をあおいだり、震える仕草をして、身振り手振りで、秀吉は語る。
「今時分が、一番よう御座いますよ」
その後、秀吉は京の名所の、名物の話を始める。
よう喋る奴じゃ・・・・・・。
家康は眉を寄せて呆れる。
実はこの木下藤吉郎秀吉という男を、家康は知っている。
会うのは今日が初めてだが、茶屋清延や家臣の鳥居元忠から、話は聞いているのだ。
「愉快な御仁ですよ」
二人ともそう言って秀吉を褒めるが、家康からすれば愉快すぎる。
元忠の話では、尾張の貧農の出で、行商人をしていたが、信長の小者になり、気に入られて、納戸役を命じられ、上洛の後は奉行に抜擢されている。
なるほど、兄上が気に入りそうな男だ、と家康は目を細めて、秀吉を眺める。
だが気に入ったからと言って、貧農の子を、奉行に命ずるとは・・・・・・。
信長らしい、と家康は思う。
「そうそう、拙者、前田の又左衛門どのの、仲良うさせて頂いておりまして」
「・・・・そうでござるか」
京の女子の話から、いきなり家康の旧知の前田利家の話に飛ぶ。
「又左どのも宜しゅう、言うておりました」
はぁ。と家康は呟く。
まぁ陽気な利家とも、仲が良いだろう。
しかしもう一人の織田家の知人、物静かな池田恒興とはそれほど仲良く無いのではと、家康は思う。
「京の女子はたしかに、色が白うて、肌が吸い付きそうですが、気をつけなさいませ、なかなかどうして、油断ならぬ・・・・・」
「木下どの」
また話が京の女子に戻り、延々と続けそうなので、家康が声を掛ける。
「それで、本日はどの様な御用で?」
「これは、失礼失礼」
ペシペシと秀吉は自分の頭を叩く。
なんじゃ此奴は・・・・・。
仮にも家康は国主で、秀吉も将軍を擁する織田家の奉行。
それなのに秀吉の家康に対する態度は、小作人が地主に対する様な、或いは行商人が客にするような、気安いものである。
礼儀作法もなにも、あったものでは無い。
まったく・・・・・と家康は、秀吉のその態度と、こんな秀吉を奉行にする信長に、心底呆れ果てる。
「実はですな、本日参上致しましたのは、戦さの差配についてで御座います」
「やはり戦さを致すのか?」
「勿論、勿論」
カクカクと秀吉は頷く。
「此度、公方さまの命で若狭に攻め入ります」
「わかさ・・・・若狭というと、近江の北の、あの若狭でござるか?」
「はい、その若狭でございます」
ひょうげた口調で秀吉が答える。
「なぜその様なところに攻めるのじゃ?」
話せば長くなりますが・・・・・と前置きをして、秀吉は語り始める。
「数年前、京を追われた公方さまを匿ってくれたのが、武田若狭守元明さまにございます」
ああっ、と家康は相槌をうつ。
「その後、公方さまは越前に向かわれ、そして美濃にやって来て、我らが殿がご助力致し、上洛されたのです」
身振り手振りで秀吉は喋る。
「一方、公方さまが去った後、若狭では謀叛がありまして、武藤上総介友益なる者が、主人若狭守さまを追い、国を奪ったので御座います」
「ふむ、そうか、それで・・・・・・」
「そうです、それで公方さまは恩がある若狭守さまの為、逆臣武藤上総介を討つ、という事に御座います」
なるほどな、と家康は納得しかけたが、うん?と直ぐに首を捻る。
「まてまて、若狭を攻めると言うたな?」
「へい」
「だが近江の浅井は此度、兵を出さぬと聞いたぞ」
ぁっ・・・・・・と秀吉はわざとらしく顔を歪める。
「なぜだ?」
家康の疑問は当然だ。
他国を攻める時、重要なのは相手の土地を知っている事だ。
だから普通、土地に明るい者を先鋒にする。
そしてそれは、その土地の者か、隣国の者だ。
駿河の今川が尾張の織田を攻めて時、その先鋒は三河の松平に任された。
それは三河の兵が、隣国、尾張の土地に明るいからだ。
若狭を攻めるのであれば、当然、隣国の近江、それも北近江の浅井が先鋒になるのが常道である。
まして信長は、戦さに最も重要なのは、土地を知る事だと家康に言ったくらいだ。
「おかしいだろう」
「ええ、まぁ・・・・・実を申しますと」
キョロキョロと辺りを見回し秀吉は、ズズッと家康に近づく。
「三河守さまは我が殿と格別親しい間柄・・・・・」
親しいかぁ・・・・と家康は眉を寄せる。
「これは特別にお教えいたしますが、他言無用にお願い致します」
秀吉はググッと顔を寄せ、声を小さくする、しかし元々声が大きいので、それで人並みだ。
「此度、真の狙いは越前の朝倉にございます」
「越前の朝倉?」
はい、と秀吉は頷き、話を続ける。
「武藤上総に国を追われた武田若狭守さまは、親類を頼り越前の朝倉の元に落ち延びたのです」
「ふむ」
「しかしこれは表向きの事・・・・・・」
「と言うと?」
「裏では朝倉が、糸を引いておったのであります」
なるほど、と家康は頷く。
隣国若狭を自分の属国にしたい朝倉が、謀叛を起こさせその国主を人質に取っておく。
武藤友益とやらが裏切れば、武田元明に兵を与え、若狭に攻めれば良い。
よくある手だ。上手くいくから、よく使われる手だ。
「此度若狭に攻め入り、武藤上総介をとっ捕まえ、口を割らせ、なに、朝倉が裏で糸と引いていただと、朝倉けしからぬ、と言って越前を攻めるので御座います」
身振り手振りで芝居をしながら、秀吉は喋る、当然、声の大きさは戻っている。
「うむ・・・・・・・・うん?」
納得しかけたが、家康は更に意味が分からなくなる。
「まて、まてまてまて」
手を振り家康は問う。
「公方さまが落ち延びたのは、若狭の次に越前であろう?朝倉にも世話になっておるはずじゃ、それに先ほど尋ねた、近江の浅井が兵を出さない理由は何じゃ?それよりもそもそも、なんで朝倉を攻めるのじゃ?」
確かに織田の本拠地の美濃の北は越前だ、領土争いもあるのだろうが、それならそれで、足利公方義昭に頼み、有利な条件で調停して貰えば良い。
「どういうこのなんじゃ?」
勢いよく問う家康に、まぁまぁ、話はここからです、と秀吉は手を振る。
「此度、織田が朝倉を攻めるのは、浅井の為、いえ、新九郎さまの為に御座います」
「新九郎・・・・・どのの為?」
浅井新九郎長政の爽やかな笑顔を思い出し、家康は眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
「えっとで、御座いましてねぇ」
秀吉は顔を左右に傾ける。
「話が長くなりますが、よろしゅうございますか?」
「構わぬ」
サッサと言え、と家康は顎でしゃくって促す。
「では始まりの始まりから、お話し致します」
スッと秀吉は背筋を伸ばす。
「近江の国は昔、京極というお殿さまが治めておりました」
「・・・・・・そこからか?」
目を細めて家康が問うと、まぁまぁと秀吉が両手を広げる。
「その近江で国衆地侍らが、謀叛を起こしたので御座います」
どこもかしこも謀叛だらけだなぁ、と今川に謀叛を起こした家康は思う。
「その時、旗頭になったのが、新九郎さまのオジジさまで御座る」
「ふむ」
「しかし京極のお殿さまも手強く・・・・・」
太刀を振る仕草をしながら、秀吉は喋る。
「そこでオジジさまは、越前の朝倉に助太刀を頼んだのです」
なるほど、と家康は呟く。
つまり家康で言えば、今川から独り立ちするのに、織田の手を借りた様なものだ。
「そして遂にオジジさまは、京極のお殿さまを追い出し、北近江の主人になったわけで御座います」
「ふむ、それで・・・・・?」
「晴れて主人になったは良いが・・・・・」
ポンと秀吉は膝を打つ。
「ここで厄介ごとが、持ち上がります」
「厄介ごとか?」
はて?と家康は首を捻る。
「一つには助太刀を頼んだので、朝倉に頭が上がらないという事」
「確かに」
家康は頷く、自分も信長に頭は上がらない、幼い頃の事もあるが、家を維持する為には、織田と手を切るわけにはいかないのだ。
「それともう一つ・・・・・」
「なんじゃ?」
自身の事を考え、家康は心の底から尋ねる。
「浅井の家臣たちはむかし皆、京極の家臣だったわけです」
「そうだな」
「新九郎さまのオジジさまも含めて」
あっ、と家康は声を漏らす。
家康で例えるなら、菅沼定盈は今でこそ家康の家臣だが、少し前まで家康と一緒に、今川家に仕えていた。
「浅井の家臣の中には、新九郎さまの事を、今でこそお殿さまと威張っていても、オジジさまの頃までは同格だったと思っておる者もいるのです」
「なるほど」
つまり家康で言えば、定盈は家康に素直に従っているが、定盈の孫が家康の孫に、祖父の頃は同格だったと言う様なものだ。
「そういう連中は、朝倉と通じている者が多くいるので御座いますよ」
話が段々見えてきた。
長政は従順でない家臣たちに手を焼いている、そしてその家臣たちが後ろ盾にしているのが越前の朝倉。
「それで公方さまの命を借りて、朝倉を攻めるというのだな・・・・・・」
あの浅井新九郎の為に・・・・・。
長政を可愛がる信長の姿を思い出し、家康は不快な顔をする。
「だが、浅井が兵を出さぬと言うのは、やはり納得できぬ」
「それがですねぇ」
キャッキャと笑いながら、秀吉が告げる。
「浅井と手を組む時、当家はある約定を結んだのですよ」
「約定?」
「はい、織田は決して朝倉を攻めぬと」
ん?と家康は首を傾げる。
秀吉は笑顔で話を続ける。
「浅井の家臣たちが、その約定が無いと、手を結ぶことに承知しなかったのでござる」
「まて、まてまてまて」
へい、と秀吉が返事をする。
「では駄目ではないか?」
「はい」
「それでは朝倉を、攻められぬではないか?」
「ですからこれが・・・・・・・」
ピンと人差し指を秀吉は立てる。
「この策の肝の御座います」
「・・・・・・どう言う事だ?」
眉を寄せる家康に、自信満々の表情で秀吉が答える。
「我らは公方さまの命で、謀叛人である武藤上総介を討つ」
「ふむ」
「そしてその武藤上総介を締め上げると、黒幕は朝倉だと分かる」
「うんうん」
「だから朝倉も討つ」
「そうだな」
「つまりこれは織田が朝倉を攻めるので無く、公方さまが朝倉を討伐するので御座います」
あっ・・・・・と声をあげ、家康は納得する。
「そう言う事か」
「そういう事で御座る」
よく考えたもんだと、家康は感心する。
「浅井の家臣たちが文句を言おうと、これは公方さまの軍、官軍である、織田の軍では無い、と新九郎さまが突っぱねれば良いので御座います」
なるほど、と思ったが、同時に、要はお気に入りの浅井新九郎の為にそこまで知恵を絞ったわけか、と思い直し、更に不快になる。
「公方さまは納得しておられるのか?」
苛つきながら家康は問う。
「若狭の武田の後に、公方さまを庇護したのは朝倉なのだろう?義理も恩もあろう」
「まぁ、それはそうですが・・・・・・・」
大きな目を細めて、秀吉は首を振る。
「公方さまは、あまり朝倉をよく思ってはいらっしゃらぬのですよ」
「なぜだ?」
スッと顔を近づけ、秀吉が告げる。
「越前にいた頃、何度も上洛したいので手を貸してくれと頼んだのに、朝倉の御当主が動かなかったからに御座います」
なるほど、と家康は頷く。
「あぁ、三河守さま・・・・・」
秀吉が微笑みながら言う。
「三河の方々には、後詰めをお願い致しますので、緩々と若狭見物でもしていて下さって結構です」
余程家康が嫌な顔していたのか、秀吉は機嫌をとる様にそう告げた。
ああ、ふむ、と返事をして、家康はふとある事を尋ねる。
「ところで織田はどれほどの兵で、向かわれるのだ?」
「はい、二万ほど・・・・」
「にまん・・・・・二万?」
その数に家康の声は裏返る。
徳川は、三河遠江の二カ国を領している。
田植えや稲刈りの時期で無ければ、八千か七千くらいの兵が集まる。
無理に無理を重ねれば、一万くらいにはなるだろう。
織田も、領地は尾張と美濃の二カ国だ。
他に南近江と北伊勢も支配しているが、この二つはまだ手に入れたばかりで、兵を取れるどころか、置いておかねばならない土地である。
それなのに、この田植えの季節に二万である・・・・・・・。
今川義元が尾張に侵攻した時、稲刈りの後の、梅雨の頃だった。
それで領国の駿府、遠江、三河に陣触れを出し、 二万の軍勢が集まった。
「はい、二万で御座います」
秀吉は得意げにでも無く、サラリと言う。
ああ、とだけ家康は呟く。
三百しか連れて来ず、信長が呆れるのも当然だろう。
これが銭で牢人衆を集めると言うことかと、家康は思う。
酒井忠次の言を入れ、牢人衆を集めるのに反対したが、あれほ本当に良かったのだろうか?
家康は首を捻る。
「諸侯が集まれば、三万になります」
「・・・・・・・」
秀吉の言葉が、家康の耳には入って来ない。
「三河守さま?」
「あ、ああ、すまぬ」
我に帰った家康が返事をすると、秀吉は背筋を伸ばして、姿勢を正す。
「それではまた、明後日、参上致します」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます