第50話 変人としての物書き

 酒浸りで、病んでいるのでろくすっぽ小説も書けず、作家同士の喧嘩が本になり、家族に見放され、最後は自殺。そんな物書きがいても、誰も驚かないことでしょう。


 いや、どうだろう。それが許されるのは……いったいだれが許すというんだろう、世間か? ……いわゆる文豪だけで、現代人の我々どうしでは到底、受け入れられないのかもしれない、物書き仲間からは。いや、仲間って、どこの誰の事だ。ツイッターのフォロワーの事か?


 じっさい、画面の向こう側に誰がいるかなんて、分かんないのです。

 ある人は言うだろう。文章に人格が出ると。しかし、ほんとうにそうだろうか。よく考えてみたら、そうでもないと言えるのではないか。最近の、オリンピック前の騒動を見たら……作品からは作者の人格なんか何も分かんないんじゃないの、と思ってしまうのは私だけだろうか。


 ものを書く際、書いたものと書いている人との間に「距離」があればあるほど、内容は薄くなる気がする。したがって、読む人に負担を与えない。だけどまあ、それって誰でも書けるって事でもある感じがして、それなら書かなくてもいいんじゃないの、とは思う。そんなこと言ったら世の創作物の大半はいらないものだと言うようなもんか。


 書いたものと書いている人の距離が限りなく近いものは、読む人を疲れさせるが、記憶には残るように思う。そういうものを書く人間の中には、真正のヤバイい奴もいるだろう。なぜなら、他の人が書けないようなことを書く人というのはだいたい、世間にとってのクリーチャーなんだから。


 クリーチャーが私小説を書く際、最後に「これは嘘でした」と書くわけにはいかないのだ。存在意義が無くなる。そもそも多くには読まれないであろう「どこの馬の骨とも分からないやつの思想の垂れ流し」からその最大のエッセンスである毒を取ったら、もはや残るのはカスでしかない。カスとはドリップ後のコーヒー豆です。そして毒気を抜くのは、肝心のコーヒーを捨てるようなもんだ。


 だから、異形の者たちは自分の腕を切り刻んで見せなければならないし、読者がそれを見て怒るのは勝手だが、内容を修正させたりすることは、ましてやその創作方法を変えるという事は、本人以外はできないと思った方がいいのだ。いや、本人にもどうしようもない事なのかもしれないです。


 という事を、考えました。

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