第14話 言葉が不自由
ブログの方に、励ましのメッセージを数件いただいており困惑している。英語がそんなに分からないからだ。分かってはいたつもりだったのだけど、ネットには国境が無い。だから、私の創作物なりボヤキに感想を書いてくれるどこかの国の誰かがいることに若干驚いた。返信したいんだけど、お礼しかできない。
ツイッターのいわゆる「創作界隈」は、狭い世界だ。フォロワー数とか、数字だけ見ると多い方がいいと思う人もいるとは思うけど、一人が本当に「フォロー」できる範囲は実際、せいぜいが数人くらいだと思う。だとしたら何でフォロワーを増やすのかっていうと、自分の作品を見て欲しいからなんだけど、じゃあフォロワーさんの作品を全部見たかっていえば、見てないのだ。結局、見たいと思わない限り見ないのだ。
じゃあ、見たり見られたりする「親しい」人がいればいいのかといえば、そこもまた微妙なのだ。親しいから見るのか。いや、やっぱり好みの問題もあるから、どうなんでしょう。何となくだけど、いつの間にかいなくなっちゃう人っていうのは、そういうのに疲れてしまうからなのかもしれない。少なくとも私の場合は疲れる。元々が、人に合わせたりするのが苦手だし、出来れば仕事と社会的な役割(親である事とか)以外では自由でいたい。一体、情熱や喜び以外で、何を動機に作品に触れる理由があるんだろう。苦行は宗教の戒律だけで沢山だし、出来ればそういうもの全てから逃げたいっていうのに。
とういうわけで、フォローもしてないのに感想をくれたりする言葉が分かんない人たちの事を、私は凄くありがたいと思っているんだけど、彼らが求めるような更なる何かを、語って聞かせられない言葉の不自由さがもどかしい。どうにかしないとなあ、とは思うんだけど。
ところで私が好きな作品というのは、大体作者がそんなに宣伝をしない。たぶん、そういったことに興味が無いんだろうと思う。そういうものに、無性に惹かれるんだけど、たぶん本だとか形に残る作品になる事は無いんだろうし、有名になって売れまくり、お金持ちになるっていう事も考えられない。そんな、完全に無駄にも思えるような一連の行為を何といったらいいんだろう。無駄、というには惜しいし。やっぱり、ボヤキ、だろうか。ボヤキでいいんじゃないだろうか。
あとは、無教養を恥じる気持ちもあるんだけど、どうにもならない。もはや開き直るしかないのだ。そもそも、子供の頃にそんなこと考えて絵を描いただろうか。どうでもいじゃないか、他の人から「落書きだ」とか「理解できませんでした」とか言われても。たとえ言った人が、他の作品を絶賛していたところで、それが何だって言うんだろうか。結局は、同じ鍋の中のカレーの具なのだし。気にしてくよくよしてもしょうがないのだ。人前で創作物を罵倒された時だって、実は傷ついてたんだけど頑張って耐えたのは良かったのだ。もう二度と、ああいう人とはお近づきにはなりたくないけど。あとは、わざわざ「理解できないです」って言うような感性に対し、反発心があったとしても堪えたのは良かった。
人間、何でも言い返して喧嘩すればいいというものではないのだ。苦痛が長引くだけだから。さっさと終わらせて、小説の改稿作業をやった方が建設的っていうもんだ。吐き出したんだから、明日からはやれるぞ。
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