ばつん。
ばつん。という聞き覚えのあるようなないような音がして、私の中の何かが確実にはじけた。
きっかけはよく覚えていない。抑きっかけらしいきっかけがあったわけではないのだろう。
ただ、引き金が引かれただけで。
弾はすでに込められていた。
私のことを世界で一番愛していると、おまえのためなら死ねると云って愛を誓った相手が、私が死にそうなときに来なかった。それだけだった。
いや。
死ねばいいと思った。とまで云われた。
そうして私は本格的に壊れてしまった。
元々ひびがはいっていたようなものなのに。だから簡単に砕けた。
しかしあの、ばつん。という音はどこかで聞き覚えがある。
私は、舗装されたばかりのコンクリートを見ながら思った。
もう二週間ほど家に帰っていない。友達の家に泊まっている。
友達の家の近くの自販機のそばにベンチがある。私はこの2週間よくそこに腰掛けて、行き交う人々を見つめる。
どいつもこいつも愛し合っている。無条件で愛されて無条件に愛しているように見える。散歩中の犬ですら愛されているというのに。
私は犬以下か。笑いがこみ上げた。
元々、彼氏ーー今となっては元彼か。が、一番愛しているなんて云ったのも「自分以外の人間で」一番愛しているだけなのだ。
私が勝手に、自分も含めて一番愛している、と勘違いしてしまっただけで。
自分よりも他人を愛すことなんて、殆ど不可能に近いのだ。母さんだってそうだったじゃないか。
私は、長い年月の中でずたずたになった左手首をみつめた。この傷跡はもう治らないだろう。私の性根とおなじく。私の心と同じく。傷だらけだ。自分でつけたか他人がつけたかの違いしかなくてそんなのは些細なことだ。
手首は、自慢じゃないが人より細い。と、いうか体自体やせぎすだ。食べることに興味がない。誰かが食べるときに一緒に食べる。あくまで他人依存だ。
だから。
自分なんて簡単に捨てられる。
ばつん。という音が脳内に響く。ああ、思い出した。
もう、母さんの望み通りに振る舞えないと思ったとき、あの音がした。
あれは中学生だったか。
私は才女だった。運動は苦手だったが、勉強ならいつだって一番だった。
だって母さんがそれを望んだから。
生まれたときから母の愛は条件付きだった。
黒先黒で無条件生き。私は、唯一一番になれない囲碁の問題集を思い出した。
一番になれないそれが、私の唯一好きなものだった。
でも母はそれに興味がなかった。大会だって一人で行った。初めての大会だったのに。
今にして思えば、私の人生は常に無条件の詰め碁ではなかった。せいぜいコウだとおもった。
生きるためには、ニ手かかる。
他のところであいては2手打てる。だから私の戦局はどんどん悪くなっていく。
子供教室の囲碁の先生が、コウについて教えてくれた。
劫と漢字では書くらしい。それは単位だという。
1劫の長さは、天から天女が100年だか1000年に一度降りてきて、その羽衣で大きな石をさっとなでる。
その大きな石がこすれてなくなるまでの間を1劫と呼び、つまり永遠に近い長い間という意味だといった。
私はそれはうそっぱちだと思った。
擦れている以上、どんなに微かでも減っている。減っているということはいつかなくなる。永遠ではない。
なんだ。彼の愛も劫か。いつかすり減る。
いつだって泣いてばかりの私の涙が、それをふくハンカチが、彼の愛という名の巨石をすり減らせてしまった。
母の愛だって劫だった。
いつだって母が望むように振る舞った。天才じみた私が好きだったからそうした。天真爛漫なところをかわいいと思っていたみたいだからそうした。
虐められてもそんなの、うちの子は平気みたい。と云ったから、そう振る舞った。
ぜんぜん平気じゃなかったのに。
ある日突然駄目になった。虐められたことがというより、誰かの望むままに動いてしまう自分が駄目になった。十四歳のころだ。
自販機で飲み物を買いながら思った。今にしてみれば。よく14年も保った。
そして私は人と関わるいっさいを絶った。有り体に言うと引きこもった。
だって。誰かに会ったら、そういう顔をしなきゃいけないから。
カウンセラーが「悩んでるの」と聞いてくるから、悩みを考えた。
母が、もう平気ね、と云うかもしれないから、会うのをやめた。
彼が、猫のような私が好きだと云うから、そう振る舞ったように。
もう、誰かの思い通りに振る舞うのはイヤだから。だから死のうとして死ねなかった。彼には死んでもいいと言われた。
そうして一人になって初めて気づいた。自分がどこかわからない。
自分が何をしたいのかわからない。自分がどう振る舞えばいいのかわからない。
引きこもり期間は長かった。3年くらいか。
往来の人々を眺める。せいぜい愛し合え、きみたちの愛もどうせ劫付きだ。
だいたい、無条件なんて存在しないのだ。1手入れて生きる問題が無条件生きの問題と言われているのが抑おかしい。1手入れてる時点で無条件じゃない。何手打たれても生きていなければ無条件じゃない。
ベビーカーに乗った赤ん坊と目があった。
赤ん坊は、無条件生きだと思う。
息をしているだけで、心臓が動いているだけで誉められる。えらいねがんばってるねと云われる。何らかの病気や事故で死んでしまっても、今までよく生きたねって云われるのではないだろうか。無条件にもほどがある。無条件で愛される。
どうして大人になればなるほど、愛されることに条件が付くのだろう。
たとえば勉強ができなくては愛されない。見目麗しくなければ。足が速くなければ。仕事ができなければ。お金を持っていなければ。気を使えなければ。愛されない。愛されない。
私は空気をいっぱいにすう。夜の空気はすんでいるように感じる。きっと錯覚だけれど。愛と同じだ。愛は錯覚だ。心の誤作動だ。
自分より大切なものなんて、人間にはきっと存在しない。
はじめから誰かのために産まれた人間と、望まれて産まれてきた人間とでは根本的に違う。ならば私は人間ですらない。
あのばつんという音は、私がはじけた音だったのだろう。たくさんに膨らんだ風船のような。
ああ。
私は漸く合点した。
私は、風船だった。
誰かのために飛んで。
誰かに空気を入れられ。
風の意のままにそよぐ。
ばつん。とはじけて割れたからには。
側しかない私に詰まっていたヘリウムガスが霧散してしまえば。
わたしはなにもない。破れた側があるだけ。
なんだ。じゃあ。
わたしはからっぽだった。だから自分を愛せなかった。
わたしは、明日死ぬことを決めた。
終
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