雨の観光地は人が少ない

よる

サスペンスの終着点


 東尋坊には近寄りたくなかった。

 元々高い場所は苦手だ。見たことがある訳ではないので、伝聞形でしかないが、飛び降り死体はグロテスクだという。頭から落ちていって、顔が原型を留めていないこともあるらしい。そんな話を聞いた後では、街中のビルから飛び降りてコンクリートに叩きつけられるのは、痛々しそうであまり愉快な想像とは言えない。その点、海に飛び降りるのはまだ想像しやすい。硬い路面よりは水面がいい。海は好きなのだ。そんな話を彼女にしたことがある。

 そうかな、と彼女はそう言った。

 そうだよ、と僕はその時答えた。

 高い場所は苦手だ。そこから落ちて行く自分は容易に想像出来る。空想の自分は故意に飛び降りていることもあれば、足を滑らせていることもある。どちらにせよ、僕は落ちていく人間だ。多分、推測だが、彼女はそうではなかったのだろう。僕とは違ってそういう場所が平気だった。何なら崖や展望台に行きたがった。煙と同じで高い所が好きだった。おそらく違う世界の住人だったのだろう。既にもうそんな彼女はいない。

 だから僕は、東尋坊には近寄りたくなかった。自分で飛び降りない保証がないからだ。



 これはどうしようもない過去の話、振り返らずにはいられない、変えられやしない過去の話。初恋は実らない。初めてじゃない恋もまた実らない。何故なら僕たちはどうしようもなく愚かだったからだ。


 東尋坊のような遠い辺鄙な場所へわざわざやって来た理由は、彼女が来たいと言っていたからだ、もういない彼女が。僕は過去の残滓を出来るだけ拾おうとする、それで救われることは全く無いにも関わらず。例えそうだとしてもやらずにはいられない。これは祈りだ。どこにも届かない、終わってしまったことに対する祈りだ。無為だろうが何だろうが、分かっていても、不信心なはずの僕は、やらずにはいられない。不思議なものだ。

 大阪から電車を乗り継いで、数時間かけてやって来た場所は只の崖だ。崖で死んだ坊主の名前がついた場所だ。まだ三月半ばで若干寒い日だった。その頃僕は何故か雨にしばしば降られることが多く、心配だったが、その日だけは降っていなかった。雲は出ており、太陽は隠れ、人はいない。

 近くに展望台があるらしい、と聞いていたので、そこに向かうことにした。観光地としての目玉であるはずの肝心の崖は見えない展望台と聞き、彼女は行ってみるのを楽しみにしていた。何か彼女なりの理由があったのだろうが、僕には最後まで彼女の基準が完全に理解できなかった。一事が万事、そうだった。彼女には何故それが好きなのか、僕には分からない物がいっぱいあった。コンソメ味のスナック菓子は苦手、コーヒーに至っては炭の味がすると言い切った。嫌いなものを嫌い抜き、好きなものを愛し抜かなければ人生には意味がないと考えていた偏愛家。熱い緑茶と醤油味の煎餅を、寒い部屋でコタツに入って食べるのを至福と言い放ち、チューハイより日本酒を好んで鯨飲し、好きな音楽はロッケンロールと言う癖にカラオケに行くと演歌ばかり歌う。そんな猫派な彼女の事は、思い出す度に胸の辺りが痛い。

 一階のお土産屋が空いているので、ふらりと入ってみることにした。ガラガラだった。閑古鳥が鳴いている売り場を見渡すと、視界の端に人影が映る。彼女だ。ゆらゆら彼女は揺れている。目が合うと、彼女は、福井銘菓が一つ、羽二重餅を指差し微笑んだ。どうやら買え、ということらしい。おすすめの品を無視すると彼女は酷く落ち込む。その落ち込んでいる表情もよかったから、僕はついつい憎まれ口を叩いてしまうことが何度かあった。

「君、甘党じゃなかったよね」返事が返って来ないと知っていながら、僕は言わずにはいられなかった。彼女は何も言わず、再び笑った。その笑顔は、あいも変わらず目に焼き付いていた通り素敵だったので、僕は羽二重餅の箱を手に取った。

「1,100円になります」店員が愛想笑いを浮かべながら羽二重餅を紙袋に入れてくれた。僕は支払いを済ませ商品を受け取った。

「じゃあ行こうか」彼女に声をかけ、僕たちは歩き始めた。上の階、展望台へ向かって。より正確に言えば、受付へ。展望台に登るための料金を支払いに。

「大人一人です」受付の男性に声をかける。男性はこちらを一瞥した。平日のこんな時間にこんな所に来た僕を訝しんでいるようだった。

「500円です」僕は財布を取り出し、料金を支払いチケットをもらった。彼女は自分の手帳によくこの手のチケットなどを貼り付けていた。そうやって旅の思い出を保存しようとしていたのだろう。旅行に行った日の彼女の手帳は切符や、入場券でページが埋まっていた。几帳面な彼女は、旅行中宿に着くと財布に入れた切符やチケットの整理を始めたものだ。その事について聞いてみると、私記憶力に自信ないから、とも言われた。思えば彼女は、何かを忘れることも、忘れられることも怖がっていたようにも思う。一度行った場所、食べた物、見た風景、一緒に時間を過ごした誰かのことも。あとで振り返ってあの時ああだったね、って思い出話をするのは楽しくない? とも言った。過去をほとんど振り返ろうとしない僕にはよく分からなかった。

 振り返りをしないが、それでも僕は君の事を忘れていない。

 私を忘れないでね、とあの時の彼女は言った。

 君を忘れられないよ、とあの時の僕は答えた。

 そんなやりとりだって僕は覚えている。

 僕がチケットを買っている間、彼女は先に進んで待っていた。いつだって彼女は僕の先に行っていた。そういう人だ。他に人のいないエレベーターホールで、彼女は観葉植物を眺めていた。

「ごめん、待った?」僕は冗談めかして言った。エレベーターのボタンを押し、待っている間、ずっと僕は彼女の美しい横顔を眺めていた。いつもいつだって僕は彼女を待たせていた。彼女はいつもデートなども僕を待たせる事はなかった。五分前行動を心がけ、遅れたりはしなかった。几帳面な性格なのだ。逆に僕は、いろいろな事にいい加減だったが、彼女との約束だけには遅れた事が一度も無い、辛うじて。

「上へ参ります」エレベーターのドアが閉まり、案内音声が鳴った。彼女と一緒にエレベーターで上に登る。機械仕掛けの扉が開いて、僕と彼女は展望台に出た。窓の外、ガラスの向こうには一面海が広がっていた。いつも通りの曇り空の下、どこかで見たような海が広がっていた。

 そんな風景に、僕は気分が沈むのを感じた。気がつくと自然に長い長い溜め息がこぼれていた。そんな僕の横で、溜め息など全く気にしていない彼女は楽しそうだった、僕にしか見えない彼女は。相変わらず笑顔が素敵だったが、僕の憂鬱は吹きとばなかった。

 彼女はもういないのに、未だに僕だけが現実を受け入れられずにいる。忘れられないのだ。今も彼女は、僕の隣で、百円入れたら景色を覗ける、観光地によくある望遠鏡を気にしている気がする。頭のおかしい狂人の戯言だ、とは思う。実際のところ、彼女の趣味嗜好を完全に把握しているわけではないし。

 彼女はいなくなってしまったから、こうして僕は狂人じみた振る舞いをしている。一つずつ、彼女がやりたいと言っていたことを、僕一人でやっている。東尋坊に来たのもその為だ。彼女の言ったことを、記憶力のいい僕は忘れていない。呪縛のように忘れられない。初めて出会った、世界が変わったあの時から、あれが最期の会話になるとは思っていなかった最後まで、僕は鮮明に思い出せる。

 椅子に座って外を眺めているうちに、雨が降り始めた。僕は買った和菓子の紙袋を持って展望台を降りた。傘は持っていない。ずぶ濡れになりながら、タワーの外に出てバス停へ向かう。


 やはりこんな所に一人で来るべきではなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る